第19話 紙を作ったついでに石鹸も作ってみました。
商人から大量の貝殻や海草などを仕入れたエルネスティーネは、さっそく苛性ソーダ作りに手を付け始めた。
まずは、ナトリウムを大量に含む草や海草を燃やし、それら植物の灰からソーダ灰を作り、この灰を水に溶かし、炭酸ナトリウム溶液を作り上げる。
そして、卵の殻や貝殻などを集め、八百二十五度以上の高温で煆焼して酸化カルシウムにする。これも水に溶かし酸化カルシウム溶液にする。
最後に炭酸ナトリウム溶液と水酸化カルシウム溶液を混ぜ合わせると、水酸化ナトリウム水溶液――つまりは苛性ソーダとなる。
この苛性ソーダにボロ布を突っ込み、煮沸する事によって布を分解しやすくする。
さらにそれを、今度は水と一緒に、以前注文して作ったホーレンダー・ビーターに入れて鉄刃のついたギアを回転させる事によって粉微塵に分解して、パルブを作る。
それによって、比較的簡単に紙の原料であるパルブを作る事ができたので、とりあえずは一安心するエルネスティーネ。
だが、苛性ソーダ、つまり水酸化ナトリウムは非常に危険な素材であり、人間の皮膚を溶かし、目に入れば失明の危険性もある強力なアルカリ性の液体である。
しかも思わぬ爆発的反応を起こす危険性もある。
ゴム手袋もゴーグルもないエルネスティーネも、慎重に取り扱いをしなければならない。革手袋に、袖の長い肌の露出しない服、できればそれこそペストマスクのようなマスクがほしいのだが、それを言っても仕方ない。
そして、こうして柔らかく分解されたリネンと綿の繊維を槽かタライで満たし、針金……ワイヤーと木の枠で作られた紙漉き具をほぼ垂直に入れ、分解された繊維の中で水平に保ち、それを持ち上げる。
すると、その表面に紙になる繊維が薄く形成される。
これを紙漉き具に入れたまま、右から左に、それから後ろから前へと揺り動かす。
こうする事で繊維を交差させて、紙自体をどの方向に対しても強くし、同時に水分を切り捨てる。
そして出来た湿紙をフェルトで包み、天秤式圧搾機で挟み込み、片方に無数の岩をひっかける事によって、その重さで圧縮し、水分を取り除く。
天秤式圧搾機は簡単な構造で、梃子の原理を応用しており、湿紙を平たい台で挟み込み、片方に岩を吊り下げる事によって、圧縮し、紙の水分を取るという簡単な仕組みである。とはいえ、やはり作るのに金がかかるのは事実であり、そこらへんはオーレリアから出資してもらう事で、紙漉き具や何やらを作成してもらう事になった。
流石に一人だけでは手が足りないので、エーファにも頼んで手助けしてもらっている。天秤型圧縮機で水分を絞って圧縮した紙を天日干しするのを手伝いながら、ふとエーファは、疑問に思ったことをエルネスティーネに問いかける。
「そういえばお嬢様。何故わざわざ紙を手作りするのですか?
紙なら羊皮紙があるのでは……?」
「純粋に洋羊紙は高いもの。しかも原料が羊の皮だから、大量生産も難しいし数に限りがある。その点、これなら原料はボロ布だからコストは非常に安くつくわ。」
そう、洋羊紙は手間暇がかかり、原料も羊の皮という限られた素材のため、非常にコストが高くついてしまうのである。
一説によると、当時洋羊紙で作られた聖書は、現代日本では百万円単位ぐらいの金額になったと言われている。
羊一頭から取れるのは、羊皮紙6枚ほど。これでは高額になるのも当然である。
本の普及を行い、一般市民たちにも本を手に取ってもらいたいエルネスティーネにとってはコストは天敵である。
何としても安い紙、安い本を作らなくてはならない。
他にも、パピルスという手もあるが、あれは元々活版印刷に向かないのでエルネスティーネの中ではそもそも却下である。
研究すれば、この世界でパピルスに似た繊維で活版印刷に向いた紙も作れるかもしれないが、今の彼女にはそんな余裕もお金もありはしない。
だがまぁ、紙を自分自身の手で作れたというのはエルネスティーネにとっては極めて大きな進歩である。
材料も今のところはボロ布なので、布が有り余っている現代とは異なり、やはり布自体が貴重だとは言っても、手間暇もコストもかかる羊皮紙より安くなる事は間違いない。
しかし、それだけでなく、やはり木々を加工して紙にする技術も開発する必要があるだろう。だが、今は紙を作成できるようになっただけで十分だと言える。
「……ん?苛性ソーダ、少し余ってしまいましたね。」
言うまでもなく、苛性ソーダは強アルカリ性で目に入れば失明するほどの危険性を持つ。科学物質の危険性を知らないメイドたちが間違って触ったらどんな事になるか分からない。一番手っ取り早いのは、ボロ布に染み込ませて捨てる事だが、せっかく苦労して作った物なんだから、何かに使えないものか、と考えてしまう。
そこで彼女はふと気づいた。確かこれを応用して石鹸を作ることもできるはずだ。
ラノベを作るという彼女の主目的からは外れるが、いい匂いのする石鹸はどこでも求められる物。これも売り物になるかもしれない、と考え直す。
この世界の石鹸は一応はあるが、いい匂いなどしない、茶褐色の物体であり、女性でも好んで扱いはしない。
エルネスティーネとて一応は女性である。そりゃ綺麗になっていい匂いのする石鹸があった方がいいに決まっている。
「うーん。まあ試しに作ってみるか。何かの売り物になるかもしれないし。」
まあ、それに苛性ソーダ、水酸化ナトリウムの水溶液が余ってしまったというのもある。水酸化ナトリウムは言うまでもなく危険な物質であり、そこらへんに流して捨てるという訳にもいかない。一番安全なのは、ボロ布に吸収させて捨てる事だが、せっかく作った貴重な水酸化ナトリウムをむやみに捨てるのも勿体ない。
せっかくだからついでに石鹸を作ってみようと思い立ったのがきっかけである。
物はついでなので、香水、ラベンダーの抽出オイルも作ってみる。
エーファたちにラベンダーを集めてもらって、それを糸で束ねて、布で包むか木陰に入れて乾燥させる。そして乾燥したラベンダーの花を容器に入れて軽く潰し、そこにオイルを入れ、3~6週間ほど乾燥させる。
(しかし、そんなに待っている時間はないので、ルーン魔術によって乾燥を加速させる)
そして、それをカーゼで濾して、さらに新しい乾燥ラベンダーを入れる。
これを繰り返す事によって、好みの香りのラベンダーの抽出オイルを作り上げることができるのだ。
これはそのまま塗ってもいいし、石鹸を作る時に入れて、ラベンダーの香りがする石鹸を作り出す事もできる。
これらは、ラベンダーを集めてくれたメイドたちや、エーファにも手助けしてくれた礼という意味で分けてあげる事にした。
「あ、あの、お嬢様。このような物を貰ってもよろしいのでしょうか?」
「いいのいいの。手伝ってもらったお礼だから貰ってやって。エーファたちもいい匂いのする石鹸の方がいいでしょ?」
そうして、エーファや手伝ってもらったメイドたちに、ラベンダーの抽出オイルを分けてあげると、その抽出オイルを使用して、石鹸作りを開始する。
余っている苛性ソーダの水溶液に油を入れるとゆっくりとかき混ぜる。
この時、香水を直接入れる事はできないので、匂いのついた精油かアロマオイルを入れる事によってそれに応じた匂いをつけることができるのだ。
ゆっくりとかき混ぜる事によって、苛性ソーダと油が化学反応を起こして、「鹸化」が進む。これにより、物質的にも安定し、苛性ソーダの危険性も安定化していく。
そして、この時に、色々な染料を入れて、後は型にいれて自分好みの石鹸を作り出す事ができるのだ。
だが、石鹸を作るのに常に苛性ソーダを使っているのでは面倒でしかも危険である。
もっと手軽で安全な作り方を研究する必要がある。
まずは細かく選り分けた木の灰に大量の水を入れ、動物性脂肪のラードに塩と灰汁を入れてゆっくりと茹でる。この時に様々な精油や香料などを入れて、いい匂いのする独自の石鹸を作り出す。型に入れる寸前に香料や染料などを入れて手早く混ぜるのがコツである。確かこの時にハチミツやミルクを入れれば保水効果があると聞いたことがあるので、試しに入れていい感じになったので、我ながら上出来である。
こうして作った石鹸を、日頃世話になっているメイドたちやエーファたちへと分けていくと同時に、アーデルハイトにもおすそ分けしようと、エルネスティーネは、手作りの石鹸を持って、アーデルハイトの執務室へと入っていく。
「失礼します。大姉様。今大丈夫ですか?」
コンコン、と部屋をノックして執務室へと入っていくエルネスティーネ。
執務室で山のような書類を格闘しているアーデルハイトは、入ってきたエルネスティーネに対して笑顔で出迎える。
「まぁ、ティネ。ちょうどいいわ。少し休憩にしましょう。」
山のような書類を見て、エルネスティーネは前世だったサラリーマン時代を思いだす。書類仕事の事務などと行った作業はちょっとしたミスすら許されない。
ましてやこれだけの量の仕事をこなすなど、流石は領主と言えるだろう。
自分も書類仕事は行った事があるし、大姉様には世話になっているし、手伝ってみるのもいいかもしれないと思いつつも、エルネスティーネはアーデルハイトに現状を報告する。
「なるほど……。分かりました。紙がもっと手軽に大量に生産できるようになれば、売り物にするのは難しくても、領地の運営には助かります。何かあったら逐一こちらに報告なさい。」
紙が普及していない現状、アーデルハイトに上がってくる書類は全て羊皮紙である。
高価な羊皮紙の束がいかに領地の経営を圧迫しているかは言うまでもない。
これらを全て安価な紙に変える事ができれば、その分コストカットになって領地運営が楽になるのは当然である。
「後、本を作りたいのならギルドに入っておいた方がいいのではなくて?
勝手に本を作ったらそれこそギルドから文句をつけられて、ティネも私も潰される可能性がありましてよ。とりあえず入るだけ入っておきなさい。
手続きはともかく、お金は……まあ、将来への投資という事で私が出しますわ。」
「あ、ありがとうございます!」
まさかギルドに入るお金まで立て替えてくれるとは、本当に頭が上がらない。
アーデルハイトからしてみれば、先行投資という事なのかもしれないが、やはり可愛い妹という事も大きいのだろう。ギルドは、その巨大な政治力と経営力で領地の政治に対しても口出ししてくる。いかに強大な力を誇る辺境伯領主と言っても、政治サイドで大きな力を持っているギルドから政治的に圧力をかけられると弱い。
「ギルドにも入っていないのに勝手な真似しやがって!」と目をつけられる前に、ギルドに入っておけば、一応のお互いの面目は立つという仕組みである。
それはそれとして、アーデルハイトは、エルネスティーネからプレゼントされた石鹸をじっと見つめる。いい香りのする石鹸など、これまでになかった新機軸である。
それに対して、領地の経営をする者の本能が囁く物があったのだ。
「所で話は変わりますが、この石鹸……。まだまだ大量に作れますの?」
「え?まあ、手作りなので限界はありますが……。」
「そう、ならもっとジャンジャン作りなさい。色々なバリエーションの匂いがついている物はさらにいいですわ。手が足りないのならウチの手の空いているメイドたちに手伝わせなさい。きちんとお給金は私から出しますわ。」
「あの……。大姉様。一体どうなさるおつもりで……。」
「ふっふっふ。私の本能が囁いていますわ。これは”お金”になる、と。
まずは無償で知り合いの貴族の令嬢にバラ撒いて、貴族社会での噂にして、次欲しがった時にはお金と引き換えにする。
こうして、いい香りのする石鹸を貴族社会の令嬢たちに広めて、喉から手が出るほど欲しがって来たのなら、お金になるし、何よりウチのことをド田舎の垢抜けない貴族とバカにしていた貴族たちに目にもの見せる事ができますわ!!」
ええ……。そんなに上手くいくかなぁ……と思いつつも、お金を出してもらった以上はアーデルハイトのいう通りにするしかない。
お金はどんな魔術よりも有用なんだよなぁ、と、心の中でとほほ、とぼやくエルネスティーネだった。
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