第18話 本を作るとなれば、当然必要なのは紙です。
そして、中立神の神殿から戻ってきたエルネスティーネは、一部始終を姉であるアーデルハイトに報告した。
彼女たちであってもアルシエルを排除できないと聞いて、思いっきり渋い顔をしたアーデルハイトであったが、神官とはいえ、人間では神の化身をどうにかするのは難しいというごく普通の理屈を思い出し、渋々ながらも納得する。
「分かりました。ティネ。貴女の手元にあの子をおいて常に監視しなさい。
比較的ティネには懐いているようですから、何とか宥めて周囲に危害を与えないようにするように。もし何かあれば……分かりますね?」
そんな姉の圧力を受けたが、まあやるべき事は変わりない。
許可を得た以上、木工職人に説明書を見せて、版木を彫ってもらうように依頼するだけだ。向こうから送ってもらった、中立神の教えを簡単にイラスト化した洋羊紙も見せて、これも掘ってもらうようにきちんと説明する。
凸版印刷である木版印刷である以上、版木は全て逆に彫らなくてはいけない。
文字やら何やらも全て逆に彫るというのは、職人たちも大変であろうが、やってもらうしかない。キチンとお金も前払いして、説明書も詳しく洋羊紙に書いて渡したので大丈夫なはず、である。
後は、印刷して生産するだけなのだが、そこで新しい問題が出てきた。
そう、それは『紙』である。
現在この世界で大きく出回っているのは、羊皮紙であるが、羊皮紙は作るのに手間がかかるためコストがかかる。
そして、何より原料が羊の皮のため、大量生産を行う事ができない、というのが大きなネックである。
例えば数百ページもある本を作り上げるには、それだけで何頭もの羊を犠牲にしなければならない。
それだけの羊を育てる手間、コスト、飼料などの問題から見ても、何としても大量生産が可能な「紙」を作り上げなくてはならない。
「ふんぬぁー!!」
到底お嬢様とも思えない声を出しながら、エルネスティーネは一心不乱にボロ布を木製のハンマーで叩いて叩いて叩きまくっている。
これは気が狂っている訳ではない。
羊皮紙に頼らない「紙」を作り出すため、様々な試作を行っている最中なのである。紙を作るとなれば、当然連想されるのは木、木材であるが、中世ヨーロッパでは実はボロ布から紙を作り出していたのである。
当時は、木から繊維が取れる事を知らなかった上に紙になる原料も少なかったので、安く手に入る木綿や亜麻などの布ボロが紙の原料として使用されていた。
これらボロ原料を製紙原料にするためには、叩いてバラさらないといけない。
当然の事ながら、衣料を叩いて分解するのは、非常に手間と労力が必要となる。
それらを解消するためには、風車や水車などを利用する必要があるが、言うなればあれは巨大な原動力を生み出すための貴重な施設である。早々簡単に使える代物ではない。
そうなれば、必然的に人力しかありえない。
まずは古びた布を集め、湿らせて球状にし、6週間積み重ね、湿った状態に保つ。
この過程で3分の1ほど腐ってしまうがこれは仕方ない。
そして、これら柔らかくなった布を洗って汚れを取った後、紙を形成するパルブにすり砕くのだが……流石に木製のハンマーだけでは無理、とエルネスティーネはギブアップした。
「お嬢様。やはりこれは風車も水車も使えない現状で大量生産は難しいのでは……?」
「そ、そうね……。もっと手軽に紙を作れる方法を探しましょう……。」
エーファも手伝ってはくれるが、やはり女性二人では力仕事の重労働はきついものがある。
確か、中世ヨーロッパでは、こういった時に、スタンピング・ミル、スタンパーという磨砕機という器具で破砕していたはずである。
しかし、これらの器具は水力で動くため、必然的に大型になり、大量生産するとなれば非常に費用がかかる。
確か、スペインで発明されたスタンピング・ミルはハンドル状でそれを手動で回転させる事によって木槌を動かすというのもあったはずだが、やはり開発費用がかかるのは違いない。
それより少ない労力で容易にボロ布を攪拌できる機材、それはホーレンダー・ピーターと呼ばれる器具である。
両端が丸くなった長方形の木槽で、その中に鉄刃がついた硬い木製ロールが存在しており、そのロールをハンドルによって回転させる事によって、循環したボロ布は鉄刃によって粉々に引き裂かれるという器具である。
これを大型にしたものを開発し、動力源を水車にすれば、大量のボロ布を用意に紙へと変換する事ができる。
だが、それほどの大型の器具を作って貰うのは、やはり資金が必要となってくる。
まずは小型の手回しでできるほどのホーレンダー・ビーターを開発して、しばらくこれを仮で運用してみるのが一番だろう。
そしてここで得られたデータを生かして大型のホーレンダーを開発していけばいい。
問題は資金だが……まあ、アーデルハイトかオーレリアに土下座して捻出するしかあるまい。
確か古代インドでは、ジュート麻、廃棄された黄麻袋などを小片に切り、石か木製の桶に入れて数日間石灰に浸す。これを粗い石臼にいれて、回転する巨大なハンマーのような重い杵で打つ。
確かにこれも悪くはないが、やはり重労働なのには変わりなく、紙を大量生産するとなれば大変な作業である。
そして、これより遥かに楽に、大量に紙を作り出すには、やはり科学物質に頼るほかあるまい。
紙を作るためには、苛性ソーダが必要になる。
まずは、 ナトリウムを多量に含む草や海草などの植物の灰からソーダ灰(炭酸ナトリウム)を獲得し、これを水に溶かし炭酸ナトリウム溶液にする。
そして、卵の殻や貝殻などを集め、八百二十五度以上の高温で煆焼して酸化カルシウムにする。これも水に溶かし酸化カルシウム溶液にする。
最後に炭酸ナトリウム溶液と水酸化カルシウム溶液を混ぜ合わせると、水酸化ナトリウム水溶液――つまりは苛性ソーダとなる。
ただし、問題は水酸化ナトリウムは大変危険な劇薬であるという事である。
現実世界では許可がでないと扱うことができず、強力な塩基性の薬品であると同時に、思わぬ爆発的反応を起こす危険性がある。
チップにした木材に苛性ソーダを入れて、約170℃で2時間ぐらい加熱して、中間層のリグニンを選択的に溶出して繊維を取り出すという高温・高圧下で煮るという作業が必要になってくる。
だが、それより以前に苛性ソーダ、水酸化ナトリウムを作成しなくてはならない。そのために手っ取り早いのは、草はまだしも、海草や貝殻などを集める事である。まず自分で試作してみて、後で大量生産のための研究を行えばいい。
それが、エルネスティーネの出した結論である。
「海草や貝殻……ですか?まあ、商人に手配すれば用意はできるでしょうが……。
え?それにお金も貸してほしい?……はあ、まあ仕方ありませんね……。」
このノイエテール国は内陸部に存在しており、そう簡単に貝殻や海草を取ってこれる環境ではない。しかも、貝殻も海草も特に利用価値もないのでわざわざ内陸部のこの国にまで持ってくるような酔狂な商人はいないので、頼んで持ってきてもらうしかない。
「しかし、海草なんて何に使うのですか?食用にもできないでしょう?
まさかわざわざ輸入して塩でも作る気?それはもう地方でやっているので意味ありませんよ?」
「いえ、まあ別の用途で……。本というか紙を作るのに役立てようと……。」
「貝殻と海草で紙を?……まあ、よく分かりませんがいいでしょう。
羊皮紙だけでは、本の大量生産は賄えません。紙を大量生産できれば、それがウチの領地の特産品になれる可能性もあります。ああ、それから何か特産品になれそうな物ができそうならば私に話しなさい。力になりましょう。」
この領地は辺境伯という事で、混沌領域と法の領域との最前線である。
そのため、領地が荒らされる事も多く、領地の奥の方でなければ大規模農業が行えない。(この地でも行っているが、様々な事で荒らされる事は覚悟しなくてはならない)
混沌領域が近いため、そこから土地からの活力が流れてくるので、作物自体はよく育つのだが、やはり事ある事に荒らされるのが大きい。
そのため、領地の税金を賄うために、常に様々な特産品のチャレンジを行っているのである。それが成功すれば、自分の本作りは領地経営に大きく貢献すると判断されて、さらに大姉様がこちらに投資する可能性は多いにある。
チャレンジする価値はありそうである。
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