第4話 まずは木版印刷から。冒険者ギルドへ行きましょう。
さて、ルーン文字の魔術の実験が上手く行ったという事で、ここで彼女の選択肢はさらに増えた。
つまり今手元の資金で版木を職人に注文して作ってもらうか、この資金を使ってダンジョンアタック用の冒険者の装備を購入するか、である。
今の手元にある金では、職人に注文しても、版木1枚作れるかどうかだろう。何せ初めて作る物はとにかく資金がかかる。
しかも文字を逆に彫り込んでほしい、など手間がかかる事などさらに割高になるに違いない。予定では、版木は10枚作ってもらうつもりだが、そうなれば今よりさらに金が必要である。
それならば、この予算で武器や防具を購入して冒険者として資金集めをするのも一つの案である。(もっとも、彼女自身はもうこちらの方を選ぶ気ではあるが)
この世界にはまだまだ埋もれた物語が山のようにあるだろう。それを探し出すフィールドワークには絶対に冒険者としてのスキルが必要になる。
資金を稼ぐためにも、物語を探すフィールドワークを行うためにも、冒険者としての経験を積むのは役に立つ。
特に混沌の神の神殿などは壊されている事も多いため、そこには秘められた未知の物語が山のようにあるはずだ。彼女にとっては、それは未知の鉱脈、宝の山である。
だが、そんな危険な場所に行くためには、やはり自らが強くなくてはならない。
この世界に秘められた失われた、あるいは秘められた物語は、ワナビの彼女にはまさに宝の山、アイデアの山である。それらの宝の山は部屋に籠っているだけでは入手することができない。やはり自分自身で探し求めなくてはならないのである。
もう冒険というよりは老古学の分野に足を突っ込む事になるが、未知の物語を集めるためには仕方ない事である。それに、何より誰も知らない忘れられた物語を再発掘するというのは、彼女にとってワクワクする事だった。
ルーン魔術にも、失われた文字を解読するという魔術もセッティングしていたため、未知の文字だろうと遥かに早く解読できるようにはしてある。
だが、そこは数が遥かに少なくなったとは言え、混沌の怪物たちや蛮族たちが未だ支配している場所もあるだろう。そんな危険な場所にフィールドワークにいくためには、サバイバル技術、戦闘能力、未開の地を踏破する体力、的確に魔術を扱える実戦経験が必要だ。
それらの経験を積むため、やはり冒険者としての経験が必要である、と彼女は判断したのである。
だが、何故か知らないが、武勇で鳴らした辺境伯の家系であるというのに、エルネスティーネは全く戦闘訓練を受けた事はない。
女性だから戦わなくてもいい、というほど、この国も領地も甘くはない。
法の国はともかく、中立の神々を崇めるこの国では、バランスを重んじるため、女性の社会進出も進んでいる。努力やコネ次第では、女性でも高い地位につけたり、女性騎士として戦う事ができるのだ。
(アーデルハイトなどがその例である)
特に辺境伯という事で、貴族の子女であろうと戦闘訓練を受けるのが当たり前である。今までは何とも思っていなかったが、今になってその違和感に気づく。
ともあれ、今の彼女に必要な物は、長時間動ける体力と戦うための力、つまり戦闘訓練である。
体を鍛えるのはまだしも、あからさまに戦闘訓練を始めれば周囲から不審な目で見られるのは間違いない。
そして、いきなり貴族の子女が冒険者になりたい、などと言っては全力で止められるのがオチだろう。貴族と言っても、貴族の三男なら、他の家のならば冒険者として身を立てている者たちはいくらでもいる。
(流石に女性というのは珍しいが)
とはいえ、貴族の女性が冒険者になるなど血迷った行動をする事は許されない可能性が高い。そこで役に立つのが先ほどのルーン文字である。
あのルーン文字ならば、武器に宿った戦闘経験を読み取ってそれを自分の物にする事ができる。つまり、戦闘訓練なしにいきなり戦えるという事である。
最も、下地である体力がきちんと鍛えないといけない。
いかに戦闘経験をトレースできるとは言っても、体力が尽きては武器を振るう事はできないからである。
つまり、戦闘経験をトレースしてカバーできるからいいとして、後は体力さえ鍛えればいい、というのが彼女の結論である。
(最も、これは実際の戦闘を経験していない非常に甘い考えだが)
密やかに武器や防具を注文して、それらが出来上がったら誰にも言わずに速攻で冒険に突撃するのが無難だろう。
とはいう物の、問題はその密やかに武器や防具を注文するか、という部分だ。
自分が直接武器屋や防具屋に行ってしまっては流石に目立ちすぎる。
そうなれば、たちまち自分のしようとしている事が姉や家族にばれるに違いない。
そこで、彼女は一つの事を思い出す。
そういえば、冒険者ギルドは武器屋や防具屋などと提携も行っていたはずだ。
「よし、ちょっと行ってみますか。そうとなればいつものお忍び用の服をっと。」
そう呟くと、エルネスティーネは早速隠しておいた平民用の服に着替える。
白い下着の上に、前を紐締めして腰をほっそりとさせた青いワンピースを纏う、いわゆるコルセと呼ばれる衣装である。
他にも、前を紐で締め上げるボディスなどもあるが、コルセは一人でも着替えやすく、身軽で動きやすいので彼女はこれを好んでいる。
そして、予めエーファに伝えていたように、屋敷のメイドたちの目を潜り抜けるルートを通って、そのまま屋敷の外へと出て街へと向かう。
お付きのメイドであるエーファに対してのみ、前もってお忍びで街に向かう事を伝え、スムーズにお忍びできるように準備を整えてもらっているのだ。
アーデルハイトは他のメイドたちにも気づかれて見逃されている可能性も高いが、
もちろん、お世話になったエーファにはお土産なり、何なり便宜を図るのが普通である。
いくらお嬢様とメイドの関係とは言っても、ただやってもらえるだけでは彼女の精神も擦り減って信頼関係もなくなっていく。
事をスムーズに行うためにも、いかにメイドであろうと信頼関係は大事である。
エルネスティーネはちょくちょくとお忍びで街内に出かけている。
まあ、辺境伯と言っても所詮は三女なので、そんなお忍びするほどの身分ではないのだが、こういうのは気分である。
彼女は、そのまま真っすぐ街へと向かう。彼女の屋敷から街までは馬車を使うほど離れてはいない。徒歩で十分に行ける距離である。
屋敷の中でずっと籠っているより、散歩にもなっていい気分転換にもなる。
この街は法の国家とも近いという事で交易も盛んであり、法と混沌の戦いの最前線であるにも関わらずかなりの賑わいである。
特に、ノイトラール国にとってこの領土は最前線であり、最大の防壁とも言える場所である。
当然の事ながら、領土防衛のため、兵站維持のために大量の物資が流れ込んでくる。
そうなれば、荷物の運搬、管理などで人々も集まり、そして、その人々に食事や衣服など日常品を売る商人たちも集まり、さらに賑わってくる。
……だが。
「……賑わい、少し減っていますね。」
エルネスティーネの感覚は、以前よりも市場の賑わいは減っている事を感じ取っていた。まあ、それはそうだろう。
以前の混沌領域に対する法の国家との大侵攻により、混沌の魔神や怪物たち、魔王ですらほとんど滅ぼされ、上方世界の混沌の神々も最早この世界には影響を及ぼしにくくなっている。
これにより、混沌領域から襲い掛かってくる混沌の怪物たちの脅威はほとんどなくなったと言ってもいい。
そのため、流れ込んでくる兵站用の物資も少なくなっているのである。
だが、それは完全に途絶えている訳ではない。混沌の脅威が少なくなった今でも、膨大な物資が事実上最前線であるエーレンフェルス領には流れ込んでくるのである。
そう、完全にノイトラール国の脅威が去った訳ではない。
混沌の勢力をほとんど滅ぼした法の国家の連盟『連合』は、次は虎視眈々とこの天秤と灰色の神々を崇めるノイトラール国に向けて侵攻を整えている気配が伝わってきているのだ。
天秤と中立を主とするノイトラール国は、法の国家からは「蝙蝠」呼ばわりされて好かれていない。もし、大侵攻に対しても中立を保つようならば、混沌の勢力諸共法の国家によって蹂躙されていただろう。
だが、それでも法の国家にとって、ノイトラール国は目障りな事は間違いない。
『連合』の目的は、この世界を完全な法の勢力下におく事。そのために邪魔な天秤を崇めるこの国家を滅ぼそうと虎視眈々と狙っているのだ。
アーデルハイトも、ノイトラール国の上層部も、それは知っているに違いない。
そのため、混沌の勢力がほとんど滅ぼされたのにも関わらず、この領地への兵站をなお行っているのだ。だが、あからさまに行っては、今度は「法の国家に逆らう気か?」と目をつけられて逆に叩き潰される大義名分にされてしまう。
そのため、ある程度は抑止しているのだろう。
以前のワナビサラリーマンだった頃の知識には、多少なりとも経済や国家の知識が記憶されている。そのため、このような事を考えることができるのだろう。
ともあれ、そういった国家規模の思考は、アーデルハイト大姉様やノイトラール国の上層部の考える事である。
自分には関係ない……というよりは「考えても仕方ない事なので考えないようにしている」というのが正しいだろうか。ともあれ、せっかくお忍びで街に来たのだから今考えるべきはそこではない。
そう、彼女の目的は他にもある。
それは、本屋である。
量産されておらず、基本人力で写しており、羊皮紙で出来ている本は、現代とか異なり非常に高価な物である。それは、例え貴族の三女であるエルネスティーネであってもそう簡単に手に入るものではない。
こういった世界では、本を大量に持っているのは修道院であり、修道院内で写本の作成などが行われている。そして、そこから流れた本が市販へと回ってくるのだが、当然の事ながら高額であり、数も非常に少ない。だが、それでも本は本である。
本屋に入った瞬時にエルネスティーネはがぶりつきで本に見入ってしまう。
本だ!本!本!本!思わずがぶりつきで食い入るように見入ってしまう。
本が非常に少ないこの世界において、前世では溢れるほど本を読んでいたワナビだった彼女は、すっかり活字不足に陥ってしまったのである。
だが、この世界において本は貴重品で値段も高い。無理をすれば買えなくもないのだが、本を買ってしまえばその分お金もなくなってしまい、本を普及する、という自分の目的の達成が遠くなってしまう。
肩を落としてしまうエルネスティーネだが、目的は他にもある。
「まあ……仕方ないですね。さてと、問題はギルドですよねぇ。」
そう、本を作るとなれば、必ずそれ関係のギルドに入らなければならない。
ギルドに入らずに勝手に本を作り出してしまっては、いかに辺境伯の三女で事実上辺境伯の後ろ盾がある彼女と言っても、商売的にあれやこれやの手を使われて叩き潰されてしまうだろう。
それは、彼女にとっても誰にとっても望まない結果だ。商売を行うのなら、然るべき筋に筋を通さなければならない。
将来的にギルドに入らなくてはいけないだろうが、今のアーデルハイトにも言えない状況では門前払いされるのがオチである。
ギルドに入るなら、きちんとアーデルハイトに説明をして筋を通さないといけない。
ではなぜギルドに来たのかというと、ある意味敵情視察である。例えば、インクである。この世界ではどんなインクが使われているか。それを調べるために実地で調査しようという訳である。そのため、わざわざインク店によって複数のインクを購入してみたのである。
インク自体は、例えば古代ローマでは、煤やイカ墨、アスファルトを含む黒色のワニスなどが用いられていた。
インドでは墨の煤を骨やタール、ピッチなどを燃やすことで得ていたし、中国では、いうまでもなく墨などが量産されていた。そして、出版業界に足を踏み込むとなれば、インクや紙はどうしても逃れられないファクターである。
「ふぅむ……。見たところやっぱり没食子インクが主流ですか。他には煤に糊などを混ぜた物などですね。まあ、スタンダードですか……。」
没食子とは特定の植物にできる瘤(こぶ)のことで、この瘤にはポリフェノールの一種「タンニン」という成分が多量に含まれている。
この瘤を採取して長時間水に漬けるとタンニンから「没食子酸」という成分が出るので、それと鉄分と混ぜ合わせて、適度な粘性を与えたのが、没食子インクと呼ばれるのだ。
エルネスティーネは二つのインクの壺を買ってみて、とりあえずどんな感じか使って見て自分の目で確かめる予定である。
「ともあれ、活版印刷にはこの二つのインクは向いていないんですよねぇ。
独自のインクを開発しないと……。」
活版印刷では、この二つのインクは向いておらず、煤、テレピン油 およびクルミ油からなるニス状のインクが用いられていた。
しかし、これらのインクがこの世界にあるはずもないので、やるとするなら試作品を作りつつ様子見をしていくしかない。ともあれ、他に行くべき所はある。エルネスティーネは街の一角にあるとある場所へと向かっていった。
「はい、いらっしゃいませ~。冒険者ギルドにようこそ♪」
冒険者ギルドの緑色の服を纏い、髪を纏め上げた受付嬢の女性は、にこにこと愛想よくこちらに対応してくれる。
このノイトラール国では、他の国に比べて冒険者たちが多く、ギルドも様々な冒険者たちで賑わっている。
その理由は、この国は混沌の勢力が納めていた混沌領域が近くに存在するからである。大侵攻によって混沌の勢力はほとんど滅ぼされた上に、彼らが残した神殿やダンジョンなどは未だ手つかずで大量に残っている。
つまり、冒険者たちにとってはまさに宝の山そのものなのである。
混沌領域は非常に危険であり、未だ残っている混沌の影響により、肉体の変質・変貌すら容易く有りうる。それでも宝の山を求めて、冒険者たちはこの地へと集まってくるのである。
そんな中、外見は普通の少女であるエルネスティーネは恐る恐る入っていくが、別段誰も奇異に見る者たちはいない。
村を荒らす怪物たちを倒す依頼を行うために、一般人がギルドに訪れる事も珍しくはない。いちいち気にしてはいられないだろう。
受付嬢も一見普通の女性だが、海千山千の荒くれ者の冒険者たちと平気で渡り合うような受付嬢が普通の女性であるはずはない。
回りくどい話をしても仕方ないので、率直に自分の要望を伝えるが、彼女は流石に怪訝そうな表情を浮かべる。
「ええ、まあ確かにやってはいますが……。その分手数料は頂きますよ?
それなら直接ご自身で行かれて購入された方が……。」
「無論、手数料上乗せの上に、口止め料をそちらに差し上げます。
口止め料は……。その、そちらの懐に、という事で……。
これではご不満ですか?」
「毎度ありです!ええ、そういう事なら喜んで!」
受付嬢は目をキラキラ輝かせてエルネスティーネの要望を受け入れる。やはり、世の中は金、金は全てを支配する、という真理を思い浮かべながら、エルネスティーネは受付嬢に自分の装備の注文を伝える。
武器はサブウェポンに短剣、メインウェポンにメイスをチョイスした。メイスならば雑に殴るだけで対象にダメージを与えられる。剣などと違ってメイスは習得するのにさほど技術が要らないという利点もある。
さらに、防具はチェインメイルを選択した。チェインメイルは価格も張るし手入れも面倒だが、防御力は優れている。防具の値段は命の値段。ここでケチって致命傷を負うような真似はしたくない。
チェインメイルなど作るには非常に手間がかかる。一から作って貰って出来上がるまで最悪待つ事も覚悟したが、運よく小型のチェインメイルの当てがあるらしい。
後は冒険用のリュックサックや水筒、毛布、ランタンなどと言った細々とした事も一気に注文する。流石にそこは冒険者ギルドの受付嬢。的確にこちらの望むものを整えてくれた。まあ、装備が整うまで時間がかかるのは仕方ないが、それは待つしかない。
そして、ホクホク顔で自分の屋敷へと帰っていくエルネスティーネ。だが、彼女は知らなかったのだ。これから先に起こる出来事を……。
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