第1章 武井信 〜 柴多芳夫
柴多芳夫
武井商店本社ビル28階、社長室。書類を手に持ち、柴多が武井を睨みつけ立っている。彼はいつものようにノックもせず入り込むと、その勢いのまま大声を出した。
「これはいったいどういうことです!? 物流部門への出向って、どうして加治がそんなところに行かなくちゃいけないんですか!? 」
子会社である物流会社への出向辞令が、ついさっき人事部から柴多の元へと届いたのだ。
「いや、残念ながら彼は行かないよ。実はつい今しがた、行かないというより行けなくなったんだ。加治くんは自ら進んで、この会社を辞めるんだそうだ。だからこの話もなしってことにね……」
「あなたは……わたしの許可なしに、商品開発部の人事をお決めになったのですか? 」
「いや、人事部長から確認の連絡がいってるはずだぞ? いってなかったのか? 」
わざとらしいほどに神妙な表情を見せ、武井が柴多にそう聞いてくる。
確かに、さっきまで加治はこの部屋にいて、不思議なほど冷静な表情で武井へと告げていた。
「わたしは、物流センターを管理するために、この会社へ来たわけではありませんから……」
そして辞表の入った封筒を懐から取り出し、机の上に静かに置いて出ていった。
「柴多さん、これが彼の退職届なんで、処理の方を頼みますよ。それで後任なんだけど、次が見つかるまですみませんが、副社長であるあなたがやってください。かなり異例な人事になるが、とにかく次が決まるまでだから、昔のように、ビシビシとお願いしますよ」
満面の笑みを浮かべて、武井が封筒を柴多の眼前へ突き出した。彼はそれを受け取りながら、
――加治には受験を控えた子供が2人もいて、家だって買ったばかりなんだぞ!
そんなことを叫びたい衝動にかられる。しかし実際に彼の口を衝いて出たのは、ここ数年心の片隅にずっとあった台詞で、
「あんた、最近少しおかしいぞ……」
という嘆きと思しきものだった。
その夜、柴多は加治の自宅を尋ね、沈痛な面持ちを見せて心から詫びた。それから駅前の居酒屋に加治を連れ出し、終電ぎりぎりまで痛飲する。ふたりして、武井への文句をさんざん言いまくった後、柴多はフラフラになって自宅に辿り着いた。すると妻が心配そうに、
「何かあったんですか? こんな時間までお飲みになるなんて……本当に珍しいわね」
水の入ったコップを片手にそう言って、柴多から上着を脱がそうとする。
その時、柴多はいきなり廊下に座り込み、悲しげな顔で妻を見上げながら、
「会社を、辞めようと思うんだ……」
などと突然言い出すのだった。しかし妻の方はまるで驚く様子を見せないのだ。
それどころか、柴多の真ん前にしゃがみ込み、
「あなたがどうしても辞めたいのなら、ダメだなんて言えないもの……でも、どうしてそう思うのかくらいは、わたしにも教えてくれるんでしょ? さあ、なんでもおっしゃってくださいな……」
そう告げた後、彼女は両手を頬に当て、さも嬉しそうにニンマリと笑った。
柴多がそんな弱音を吐いている頃、深夜にもかかわらず、武井は未だ会社にいた。
さすがに日付も変わる時刻になって、仕事をしている社員は疎らとなっている。こんな時間に残っている社員は、だいたいが始発まで働き続けるつもりだろう。才能に恵まれた一握りの人間でない限り、そうやって踏ん張ることこそが成功への近道。武井もそんな思いで走り続け、今ある地位を築き上げた。
――あんた、最近少しおかしいぞ……。
そんなことを言い出す柴多の方こそ、変わってしまったように武井には思えた。
――優子と出会って……俺は知らぬ間に、少し腑抜けていたのかも知れない……。
思い出すだけで心が震え、身悶えしそうになる幼い頃の記憶を、彼は優子と出会ってからずっと忘れ去っていたのだ。しかし夫婦関係が完全に冷え切ってしまった今、それは再び、彼の心の中心にどっしりと座り込んでいる。
――俺はひとりぼっちで充分だ……誰の助けもなしに、とことんまで上り詰めてやる!
そんな彼の強烈な思いは中学の頃には既に、しっかりと形作られていたのであった。
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