第一章 武井信 〜 武井商店(2)

 武井商店(2)


 武井商店本社は、東京商業地の一等地に建てられた、28階建ての自社ビルの中にあった。武井商店自体は25階から上の4フロアだけで、階下には、さまざまな企業やテナントが賃貸契約で入居している。既に夜9時を回っているというのに、25階より上の階はまるで昼間のようで、煌々と照らす照明の下、多くの社員がパソコンと睨み合いを続けていた。そんなビルの最上階に社長室はあり、武井の部屋の隣が、副社長である柴多芳夫の部屋だった。 

 昔とは違って、ふたりだけの時でも敬語を欠かさぬ柴多だったが、1点だけ昔からまるで変わっていないところがあった。社内でノックをせずに顔を見せる者など、今やこの柴多くらいしかいないのだ。

 どのくらいそうしていたのか? 彼がふと気配に気が付き顔を上げると、柴多が社長室の扉を少しだけ開けて、その隙間から満面の笑みを覗かせていた。そしてその顔付きとは裏腹に、声を抑え、囁くように言ってくる。 

「じゃあ、わたしはお先に……」

 その声に、武井が右手を上げて応えると、柴多はそっと音を立てずに扉を閉めた。続いて靴音が鳴り響き、やがてまったく聞こえなくなる。そんな静寂の訪れと共に、武井はゆっくりと受話器に手を伸ばし、階下にある人事部へと内線を掛けた。

「保留していた物流への出向の件だが、あの通り、内密のまま進めてくれ……」

 それだけ言って、彼は相手の反応など聞かずに受話器を下ろして席を立つ。そして、3日ぶりとなる帰宅のために、会社の用意した車へと乗り込んだ。

 彼の自宅は普段であれば、40分くらいで着いてしまうところにある。なのに最近では、遅くなったという理由だけで、家に帰らないことが増えてきていた。武井はその日も、憂鬱そうな顔で車に乗り込むと、年老いた運転手へぶっきらぼうにその意思を伝えた。

「まっすぐ行ってくれ……」

 呟くようにそう声にした彼はふと……、

 まっすぐ帰る――そんな柴多の言葉を思い出すのだった。

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