第一章 武井信(たけいまこと)

 ある朝

 

「いったいどうなってるんだ! この馬鹿グルマ! 」 

 夜もやっと明けかけている頃、東京の外れにある閑静な住宅街に、そんな声が響き渡った。

 そこはその辺りでも一際大きい邸宅で、マンションの2つや3つは建ちそうな土地に、西洋の公園を思い起こさせる庭が広がっていた。その一番奥にある大きなガレージに、何台もの超高級スポーツカーに並んで、見慣れた高級外車が1台だけ置かれている。

 そして今その車の中に、この家の主人である男が乗り込んでいた。高級スーツに身を包み、本来なら指先だけでかかるはずを、なぜかイグニッションキーを押し込み回し続けている。しかし、いつまで経っても掛からぬエンジンに唸り声を上げ、そそくさと車から降り立ってしまうのだ。それから彼は、ガレージに備え付けられた受話器を手に取り、相手が出るのをジリジリして待った。そして受話器が外れる音を耳にした途端、息を吸い込み大声を上げる。

「先月修理したばかりでまたエンジンが掛からんぞ! いったいどういうことだ!? すぐに代車を持ってこい! 今すぐにだ!! 」

 相手はその声だけで、すべてを理解したようだった。

「なに!? そんなに待てるか! 今日は朝から大事な会議があるんだ! もういい! もう分かった!! 二度とおまえのところで車なんぞ買わん!」

 2時間ほど待って欲しい――そんな相手の声に、彼はそう言って壊れんばかりに受話器を置いた。それからふと、並んでいるスポーツカーに目を向ける。しかし朝っぱらから、そんな車を乗り回す気にはなれず、ここ十数年、まるで思い浮かべたこともない決断をするのだった。

 彼は鞄を手に取り車から降りると、2、3歩歩いてから振り返った。するとピカピカに磨かれた車のボディーと窓ガラスに、スーツ姿の自分がくっきりと映し出される。

 ――俺もまだまだ、充分イケるじゃないか!? 

 そんな上機嫌のまま、颯爽と門に向かって歩き出した。

 はじめは、朝の清々しい空気に、たまには電車通勤も悪くない……などと思う。

 しかし駅改札に近付くにつれて、彼の幸せな気分は徐々に消え去っていった。

 ――今の若いやつは、人が勝手に避けてくれるとでも思っているのか!?

 そんな怒りを感じながらも、自分はぎりぎりまで道を譲ろうとしない。だから改札から出てきた何人もと肩を接触させ、終いには1人の若者へと食ってかかった。

「こら! 携帯弄りながら歩くんじゃない! 」

 驚いて顔を上げた若者は、明らかに日本語じゃない何事かを呟いて、一目散にどこかへと走り去ってしまう。彼はその若者を追い掛けるわけにもいかず、ぶつくさ言いながらも、改札口を抜けて満員電車へと乗り込んだ。そして、ずいぶん久しぶりとなる鮨詰めの電車は、彼にとって想像以上の苦しみの場となるのである。

 まだ4月だというのに、車内は蒸し風呂のように暑かった。なんとも言えない臭気が鼻を突き、彼は乗り込んだ途端息苦しささえ覚える。さらに目の前に立つ男が問題だった。体重が100キロはありそうなそいつの吐息が、妙に荒々しく彼の喉元に吹き掛かるのだ。きっと蓄膿症か何かなのだろう。口だけで呼吸をする男の息は、まるで卵が腐ったような臭いがする。そのまま寝て起きてきたようにヨレヨレのスーツは、間違いなく量販店に吊るされていたものに違いない。

 ――俺のスーツは、イタリア最高級フルハンドメイドのオーダースーツなんだ! おまえなんか一生かかったって、絶対に触れもしない代物なんだぞ!

 なのに巨体を揺らす男は、それを知ってか知らずか身体全体を擦り付けてくる。 

 ――本当ならおまえみたいなやつは、俺の10メートル以内にだって近寄れやしない!

 そんなことを叫び散らしたいのを堪えて、彼は巨漢から強引に背を向けようとする。

 しかし同時に、彼をさらに苦しめ苛立たせる者がいた。それは、電車の揺れに合わせて身体を揺らし動かす、彼以外すべての乗客たちだ。

 ――少しは! 自分の力で踏ん張ろうと思わんのか!?

 彼は懸命に揺れへの抵抗を見せるが、いかんせん襲いくる重量には逆らいようもない。

 そしてついには……、

 ――違う! 俺のせいじゃない! 

 心の中でそう叫ぶ彼の身体が、向かい合う女性の全身にぴったりと張り付いた。両腕がどんどん鞄と共に引っ張られ、まるでその女性を抱きかかえるような体勢になっている。

 離れてよ! ――女性の眼球だけが上を向き、彼を睨みつけそう言っていた。

 ――そんな目で見るのはやめろ! 俺がなんでおまえみたいなブスを!? 

「冗談じゃない! 俺は降りる!! さっさと前を開けろ! 」

 彼は心の叫びを我慢できずに、とうとうそう声にしてしまうのだ。そして目的地まで駅3つを残し、自らホームへと降り立った。

 まったく! 今日はなんて日なんだ!? そう思いながらも、会社に着いてしまえばいつもの日常が戻ってくると、彼は気を取り直しタクシー乗り場へと向かった。

 そこには、既に年老いた男性数人が並んでいて、皆一様に背中を丸めてタクシーが来るのを待っている。彼は軽い舌打ちをして、老人たちから少し離れたところに1人立った。するとまもなく、1台のタクシーが所定の位置に停まり、ゆっくりと後部座席のドアが開かれた。その次の瞬間、タクシーに向かって歩き出そうとした老人を追い越し、彼がさっさと乗り込んでしまう。自分の番だった老人はその場に凍り付き、運転手は目を見開いてバックミラーを覗き込んだ。

「もう会議が始まっていてね、今のわたしには、並んで待つ時間がないんだ」

 ――だから、仕方がないだろう……?  

 まさにそう言いたげな印象で、彼は前を見据えながらそんなことを言った。そして一瞬の静寂の後、おもむろにバックミラーを睨み付け、再び運転手への声を上げる。

「だから、さっさと出してくれんか! 」

 何事かを言い掛けた運転手も、そんな苛立った声に何も言えずに口ごもる。そして老人たちが呆然と見守る中、タクシーはゆっくりと走り出した。それから道なりに5分ほど走った頃、運転手は心にあった言葉をやっとの思いで口にする。

「多分、あのご老人たちは、○○病院へ行くために並んでいたんですよ、お客さん……」

 それは運転手にとって、精一杯であろう非難めいた口調だった。しかし彼はそんなことに気付いているのか、まるで平然とその答えを口にする。

「それがどうした? もう何も生み出すことはなく、ただ死ぬのを待つだけになったあんな連中はな、病院なんぞ行かずに、とっとと首でも括ればいいんだ。その方がよっぽど社会の為になる。そうは思わんか? 」

「しかし……わたしらもいずれ、ああなるんですがね……」

「あんたはそうかもしれん。しかしこのわたしは違う。あんな連中のようには絶対にならんよ! 」

 力強いその言葉に、運転手はそこでいったん口を閉ざす。が、すぐに強ばっていた顔を緩ませ、無礼な客へと明るい声を出すのだった。

「ま、お客さんはきっと、そうなんでしょうね。ところでどうしましょう? このままずっとまっすぐですと、どんどん都心から離れていっちゃいますよ、いいんですか? 」

 その時、彼の乗るタクシーは既に、下り方面2駅分以上戻ってしまっていたのである。

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