苦労人クロック(3)

 店先へと続く廊下はすっかり火で焼き尽くされ、もうこれ以上進めそうになかった。

 火の手はすでに、耀たちがいる場所まで襲いかかろうとしている。

「とにかく、ここから逃げよう!」

「お、おう!」

「そうですね! とりあえず、そこの窓から逃げましょう!」

 陸たちが急いで窓を開け、そこから逃げようと準備を始める。だが、アツシはその場から一歩も動かなかった。

「おい、早くここから逃げないと…」

 陸がそう言ってアツシの腕を引っ張る。しかし、彼は微動だにしなかった。

 そう言って振り返り、火の光に染まるアツシの顔を見た時、耀は言葉に詰まった。

 ここから、逃げ出す……それは、アツシが今まで作ってきた努力の結晶である時計たちを置いていくということだ。

 それはなんというか、アツシにとってとても過酷な選択に思えた。

「耀! 早くしないと、お前も一緒に燃えちまうぞ!」

 陸が窓側から耀を急かす。

 だが、耀はまだアツシとともにその場に留まった。そして、近くにあった時計をできる限り腕に抱え始める。

「アツシ先輩! 特に大事な時計とかありますか? それを持って、ここから逃げ出しましょう!」

「え、君……もしかして俺の作品もここから持っていこうとしてる?」

「はい! だってこれって先輩の宝物なんでしょ?」

「そりゃあそうだけど……でも、そんなの集めてる暇なんてないよ」

「でも、本当はここにあるもの全部、先輩が守りたいものなんでしょ?」

 アツシは耀のことを見上げ、瞳を一瞬潤ませた。

「うん……」

「なら、できるだけ集めてここから逃げようよ!」

「わかった!」

 アツシは周りにあった置時計を拾い集め始めた。

「おい! 今はそんなことしてる場合じゃないだろ⁉」

「わかってる! でも、ここにあるものは、全部先輩の宝物なんだよ! 簡単に燃やさせてたまるか!」

 耀が窓の近くにいる三人にそう叫ぶと、陸は「わっ、わかったよ! 俺らも手伝うから!」と言って部屋に戻り、床に転がった小さな目覚まし時計を拾い始める。

「そうですね…! すみません、僕もやります!」

「俺も!」

 しかし、直生と仁がアツシの隣に駆け寄ったとき、さらに悲劇は起こった。

 突然、火の手がさっきまで陸たちがいた窓のあたりから上がったのだ。

「え…?」 

 赤い炎はあっという間に燃え広がり、五人を取り囲むように大きな壁を作った。

 これでは、もうどこからも逃げ出すことができない。

「う、嘘だろ⁉ さっきまではなんともなかったのに! いったいどこから火が…!」

 陸があんぐりと口を開ける姿が、壁に影として映し出される。それに、夢の中とはいえ、燃え盛る炎に囲まれると想像以上に熱かった。

 耀たちの額や首からは汗が流れ落ち、まだ燃えていない床に滴り落ちていく。

 炎は無情にも、まだ救出ができていない多くの時計をアツシの目の前で焼き尽くしていった。

 熱で金属でできた時計の針が曲がり、彼が丁寧にやすりをかけた枠の部分は黒い炭へと変貌していく。

 文字盤は溶け、地面に置いていた置時計は、ぼろぼろと崩れていった。壁にかけていた美しい装飾が施された時計も、燃え尽きて、儚く崩れた。

 耀は隣にいるアツシの顔を見ることができなかった。きっと今、彼は絶望的な表情をしているに違いない。

 しかしまだ、悪夢の核はこの夢に出てきていないのだ。

 なら、彼にはしばらくこの状況に耐えてもらわなければならない。そんな風に歯がゆい思いをしていると、隣にいるアツシが「あっ」と声を上げた。

「思い出した……俺は時計職人なんかじゃない。ただの高校生じゃないか」

「え」

 確信に満ちた声で、アツシは目の前の炎を見つめる。

 彼の手から、小さな目覚まし時計がころんと地面に転がる。それは、床を転がり続け、火の中へと消えていった。

「なぁ、そうだよな? ここは、悪夢の中なんだろ?」

 アツシは四人の方を向くと、力ない声でそう尋ねた。

「なんだ、気づいたのか! そうだ、これはあんたの悪夢の中の世界だ」

「俺たちは、アツシ先輩をこの悪夢の世界から救い出すために、ここに来たんです」

「やっぱりそうだったんだ…」

 陸と耀が自分の方に降りかかる火の粉を腕で振り払いながらそう答えると、アツシは何かをあきらめたように、床で燃え続けている時計を見つめていた。

「でも、これって夢の中の世界だから、命に別状とかはないんでしょ? だったら、もういいよ、このままで。どうせ夢から覚めたら元の世界に戻ることができるんだから、俺が目覚めるのを待てばいい。君たちのことは誰だか知らないけど、わざわざ俺なんかのこと、救おうとしてくれなくたって大丈夫だよ」

「そんな! なんでそんなこと言うんですか⁉」

 さっきまで夢の中の世界観に完全になじんでいたアツシの手の返し用に、さすがの耀も当惑した。

 アツシは耀には答えず、そのまま上を仰いだ。

《そうか。この夢を見るってことは、やっぱり諦めろってことなのかな》

 そんな声が、耀たちの心の奥に妙に空しく響いた。

「あのさ、俺、現実世界では高三で、サッカー部に入ってるんだ」

「ちょっと待て。あんた、この状況でなんか語りだすのか⁉」

 陸がアツシの話が長くなそうなこといち早く察すると、信じられないという顔でアツシを見た。

「別にいいだろ。ここは、俺の夢の中の世界なんだから」

 アツシはさっきまえのキャラとは打って変わり、かなりテンションが低い話し方をした。

「それで、サッカーは小学校二年生のころからやってたんだ。俺自身、サッカーをするののはすごい好きだった。でも、年齢が上がるにつれて、やっぱり上手なやつがたくさん出てくるじゃん? それで、俺は小五くらいから試合に出られなくなった。俺以外に、ほかにたくさん強いやつがいたからな」

 アツシはそこで一息つくと、続きを話した。

「でも、誰よりも練習すれば、いつか絶対に試合に出られると思ってた。それで、中学のころからずっとサッカーをやり続けてきた。でも、中学でも高校でも試合に出れたのはほんの少しだけ。特に高校なんか、後輩のやつらにレギュラーを奪われてばっかで、本当に嫌になったよ。でも、俺は諦めなかったんだ。いつか絶対レギュラーになってやるって…」

 アツシはそこで言葉を区切ると、耀たちの方をもう一度見た。耀は彼の瞳に映る燃え盛る炎を見つめ、彼の声に耳を傾けた。

「それでも、やっぱり俺はレギュラーにはなれなかったよ。そしたらさ、つい思っちゃったんだ。俺がこれまでかけてきた時間や努力は、無駄だったんだなって。そしたら、無性に腹が立ってきてさ。最近はそういうことばっか考えちゃうせいか、この悪夢を見てばっかりってわけ。もういい加減、ここで黒焦げになって苦しむ夢はうんざりだよ…」

 彼はそう言うと、「はい、これで俺の話はおしまい」と言ったきり、諦めたようにその場に座り込んでしまった。

 努力が報われない苦しさなら、自分も過去に経験したことがある。耀自身も中学の時、バスケ部でなかなか試合に出してもらえない時期があった。その時はなかなか辛かった。

 でも、耀のバスケ部は人数が少なく学年が上がれば必然的にレギュラーになれたので、アツシほど苦しい思いはしていない。

 夢の中で時計職人として働いていたように、彼は現実世界でもきっと血の滲むような努力をしてきたのだろう。なのに、三年生の最後になった今でも活躍できないのは、精神的にかなりキツいはずだ。

「おいあんた! そこで座ったまんまだと、また焦げて寝覚めの悪い夢になっちまうぞ! それでもいいのかよ!」

 陸がそう声をかけても、アツシが腰を浮かす気配はなかった。

「でも、困りました。ここまでまずい状況なのに、さっきから悪夢の核が全く見つかりません!」

「俺も探してるけど、まだどこにもないぞ」

 直生と仁が汗だくになりながら、報告してきた。

 いくら夢の中の世界とはいえ、こうも長い間炎の近くにいると、自然と汗が体中から吹き出てくる。

 とにかく熱い。早くこの現状を打破しなければ、夢の中で全員くたばってしまう。

(落ち着け…考えろ、俺! 悪夢の核はだいたい夢主の恐怖の対象になることが多いって、前に店長が言ってたな。だから、アツシ先輩が恐れているものがこの夢の中に核として反映されている可能性が高いはず!)

 ということは、炎か?

 耀は炎の色をじっと見たが、そこに悪夢の核特有の黒い靄は見られなかった。

(くそっ、じゃあなんなんだ⁉)

 その時、炎の下で燃え盛る時計が、チラリと耀の視界に入った。

 燃えて真っ黒焦げになってしまった時計たちは、気のせいか黒い靄がかかって見える。

 その光景が見えた瞬間、耀はアツシが何を恐れているのか、雷に打たれたようにわかった。

「そうか! そういうことか!」

「な、なにがだ⁉」

「俺、わかった! 悪夢の核はこれだよ!」

 耀は剣を瞬時に出現させると、柄をつかんで火元にある時計をぶった切った。

 木製の時計はぼこっ、と鈍い音を立て粉々の灰へと姿を変える。

「お、おい! 君、なにするんだ!」

 自分の作品を壊されたことで我に返ったアツシが、耀の腕をぐいっとつかんだ。

「やめてくれ! たしかにもう今は燃えちゃってるけど、これは俺の大切な作品なんだ。だから、君の手で壊そうなんてしないでくれよ!」

 どうやら夢の世界での出来事とは言え、アツシはまだこの時計に愛着を持っているようだ。

「違うんです、先輩! 先輩がかけてきた努力や時間は! 絶対に、無駄なんかじゃないんですよ!」

「え…? 何を言って…?」

 その時、耀が壊した時計の灰が、きらきらと光り始めた。炎に燃えつくされたはずの真っ黒な灰は、その場でゆっくりと天井の方へと舞い上がっていく。

「な、なにが起こってるんだ…?」

 耀はその様子を落ち着いた表情で静かに見つめていた。

『夢道具には、不思議な力があるんだよ。それで悪夢の核を破壊すれば、それまでの悪夢は消え去って、代わりに夢主にとって素敵な夢へと変わるんだよ』

 店長の声が耀の頭の中でこだまする。

「見てればわかりますよ!」

 耀は舞い上がる灰が、一筋の光の線になり、勢いよく上へ進む様子を見守りながら呟いた。

 ドンッ!

「うわぁっ!」

 光の線は耀たちがいた部屋の天井を勢いよく突き破り、そのまま上へと突っ切っていく。そして耀たちから見えなくなってしまった。

 がらがらがら、と天井の木材があっけなく地面に落ちてきて、耀たちは反射的に頭を庇った。

 運よく、崩壊した天井は誰の体にも当たることなく、落下した。

 天井が崩れたせいで壁も全て部屋の外側に倒れてしまい、耀たちはいきなり地面だけの世界に放り出される格好となった。

 そして不思議なことに、周りには昼の時に見たような建物が何一つなくなっていた。

 辺りに広がっていたのは、だだっ広い草原だった。

 そして、耀たちの頭上に突如として美しい夜空が広がった。

「おわ…!」

「すごい綺麗ですね…!」

 陸と直生が隣で息を呑む。

 まだ自分たちの周りには炎が燃え盛っているというのに、その現状を忘れさせてくれるほどの、見事な夜空だった。

「おい、あれ!」

 仁が夜空を指さし、耀たちは「あっ」と声を上げた。

 さっき天井を突き破った光の線が、遥か彼方、上の方へと進んでいっていた。ここから見ると、まるで流れ星が地上から宇宙に向かっていくように見えた。とても幻想的な眺めである。

 だが、光の線はしばらく飛行し続けると、動きを止め、ろうそくの火を吹き消した時みたいにふっと消えた。

「…なんだ、消えちゃったじゃないか」

 アツシがさっきまで上げていた顔を残念そうに伏せたその時。

 バーーーーーーーーーーーーーーン‼

 彼が巨大な音に驚き、空を見上げると、夜空には満開の花が咲いていた。

「うわぁ~! 花火だ!」

「び、びっくりしたぁー‼ いきなりでかい音出すんじゃねぇよ、バカ!」

 陸が空に文句を言うのが耳に入らないほど、アツシはその光景に心を奪われた。

「す、すごい…」

 その花火が夜空を彩っていたのは、一秒にも満たなかった。

 でも、たったそれだけの出来事なのに、アツシは自分の行いが報われたような気分になった。

「ね? 無駄なんかじゃなかったでしょ?」

 耀はそう言いながら、アツシの肩に自分の手を乗せた。

 アツシは耀の方を振り返らずに、こくりと静かに頷いた。彼の目は花火の残像をまだ見ているのか、夜空に釘付けだった。

「…うん、無駄じゃなかった。ありがとう。なんでかわからないけど、報われた気分だよ」

 アツシはそう小さく呟いた。

「夢の中の世界だけど…。俺の作品もあの綺麗な花火を生み出すことができたのかと思うと、今までの苦労も無意味なものじゃなかったんだって、今ならそんな風に思える気がする」

 耀はアツシの穏やかな笑顔を見て、自分もにっこりと微笑み返した。

「それなら良かったです。でも、まだまだこれからですよ」

「へ?」

 耀が唇の端を上げ、にやりと笑った瞬間、また夜空に花火が咲いた。

 ドーン、ドーン!

 連続で次々と花火が上がり、夜空が赤や黄色、ピンクや緑で彩られていく。

「え、なんで…」

 アツシが耀の後ろを覗き込むようにして見ると、陸と直生と仁が、せっせと各々の武器で、燃えて灰と化した時計を破壊していた。

「よっしゃあ! 悪夢の核がこれとわかれば、こっちのもんだぜ!」

「そうですね! 早く片付けちゃいましょう!」

「俺、腹減った。早く現実世界に戻って、前に食べたラーメン食いたい」

 陸は銃を連射し、直生は弓の先で悪夢の核を突き刺した。

 そして仁は日本刀でボロボロに崩れた時計の残骸を、ばっさばっさと切っていく。

 その度に灰はきらきらと輝きを増し、空へと放たれていくのであった。

 さっきまで自分たちを囲っていた炎の壁は勢いをなくし、いつのまにか焚火程度の高さまで鎮火されている。それもこれも、三人の活躍のおかげだった。

「おい、耀! お前もちょっとは手伝えよ! 悪夢の核を見つけたからって、さぼってんじゃねぇぞ!」

「ごめんってば! 先輩、俺は仕事に戻ります。先輩は花火見るの、楽しんでてくださいね~!」

 耀はそう言うと、三人のところへ急いだ。焚火をぴょんと飛び越え、まだ悪夢の核が残っているエリアで、黒焦げになってしまった時計を次々に浄化していく。

「ああ。ありがとう」

 アツシはその様子を見ながら少し戸惑いながらも、耀の言う通りもう一度空を見上げた。

 ドーン、と腹の底に鈍い音が響き、パチパチパチ、と火花が空に飛び散る。

 本当に美しい眺めだ。

 アツシは、小さい頃家族で花火大会を見に行った時のことを思い出していた。家族全員で車で大会広場まで行き、河川敷で見た花火は、アツシの人生の中で一、二を争う最高の思い出だった。

 だが、まだ耀たちが作業しているのを見ると、つい声をかけてしまった。

「あのさ、それ、俺にもやらせてくれないかな」

「え?」

 耀がそう言いながら振り返ると、アツシは耀が持つ夢道具の剣をじっと見つめていた。

「それって、先輩もこれを浄化したいってことですか?」

「ああ。君たちに任せるだけじゃなくて、俺もちゃんと、自分の手でそれを掃除したいんだよ」

 耀たちは顔を見合わせると、浄化作業中の手を一度止めた。

 そして、耀が夢の番人を代表して、夢道具である剣をアツシに渡す。

「もちろん、いいですよ!」

「本当か!」

「でも先輩、この時計で最後みたいです」

「…そうか」

 最後まで燃え尽きずに残っていた時計は、夢の中の世界でアツシが最も時間をかけて制作した置時計だった。

「どうすんだ? やるのか?」

 陸が戸惑うアツシを見据えて静かに問う。

「…やるよ。最後くらいは、自分で決着をつけなくちゃ」

「あっそ」

 陸はぶっきらぼうにそう返事をすると、すぐに目を逸らした。だが、アツシは彼が自分のことを気遣ってそう言ってくれたのを、ちゃんと感じ取っていた。

 だがアツシは、今この世界で自分の手によって作品を壊さなくては、これから変われない気がしたのだ。

「…これは、切るだけでいいんだよな?」

「はい」

 耀たちはアツシの姿を静かに見守る。

 彼は、まだチリチリと燃えている置時計の前に立つと、深呼吸をした。

 そして、一思いに剣を振りかざす。

 ボロッ、と脆い音で崩れた時計は、剣が触れた瞬間キラキラと光る灰へと変わった。

 それはアツシの目の前の高さまでふわりと舞い上がると、その場で小さな竜巻を作るようにくるくると回った。遠目から見ると、妖精が彼の前で踊っているように見える。

 だが、それもしばらくすると、さっきと同じように天高く舞い上がっていった。

 流星のような速さで、空に直線を引いていくそれは、今までで一番大きな花火となって夜空に花を咲かせた。

 バーーーーーーーーーーーーーーン‼

 一瞬だった。

 本当に一瞬だったが、アツシと耀たちの目に、その花火はしっかりと焼き付いた。瞼を閉じてもまだ残像が残るほど。

 花は燃え尽き、小さな光の粒を撒きながら、静かに息を引き取った。

 五人はしばらく無言で空を見上げた。

「綺麗でしたね」

「…ああ、綺麗だった」

 耀が口を開くと、アツシは笑顔でそう言った。それを見ていた四人も、つられて微笑む。

「さぁて、これで悪夢の核は全部浄化し終わったな!」

 陸がう~んと伸びをしながら、やり切ったように辺りを見渡す。

「ほんとですね…って、あれ? さっきまでここにあった燃えカスが…」

「全部消えてるな」

「うわっ、本当だ!」

 下を見ると、耀たちの足元にさっきまであったはずの燃えて転がっていた木材や、焼け焦げた床などが綺麗さっぱり消えていた。耀たちは膝くらいまでの高さがある草原の中に、いつのまにかいた。

「はぁ~、でも良かった。今回の悪夢もちゃんと浄化することができて…」

「ああ、そうだな」

 耀は、無意識に感じていたプレッシャーと、怒涛の出来事の連続で感じた緊張感を、ふぅ~っと一気に吐き出した。それを見た仁は、耀の背中をさすってくれた。

「じゃあそろそろ、この夢の世界から抜け出せるな」

「えぇっ! じゃあ、もう君たちとはここでお別れってこと?」

 仁のセリフにアツシは驚き、一番近くにいた直生に答えを求めた。

「はい、そうなんです。僕たちは悪夢の浄化が終われば、現実世界に戻ることになっているんですよ」

「そんなぁ、せっかく仲良くなれたと思ったのに! それに俺、まだお礼もちゃんとできてないよ…!」

 アツシはその場でがっくりとうなだれた。

 まさかそこまで自分たちに友情を抱いてもらっていたとは、耀たちにとっても心外だったので、こちらまで少し寂しくなる。

 もし現実世界で会うことができれば、アツシとはとてもいい友人になることができるかもしれない、と耀はそんなことを思った。

「そんながっかりしないでくださいよ。先輩だって、現実世界に戻らないといけないんですから」

「そ、そうだ…。俺もこの夢が覚めたらもとの世界に戻らなきゃいけないんだった…」

 耀の返しに、アツシは別の意味でまた項垂れた。

「うわ~、嫌だなぁ。実は俺、明日が最後の試合なんだよ」

「えっ、そうなんですか?」

「そう。俺たちのサッカー部は、県内でも断然弱いから、春の大会で引退なんだよ。でも、その春の大会の初戦でめちゃくちゃ強いチームに当たっちゃったから、負け確亭なんだよね。だから、明日の試合で実質三年生は終わりなんだよ」

 アツシははぁ~と息を吐きだすと、「結局俺、最後に試合に出られるのかなぁ」と呟いた。

「大丈夫ですよ。先輩は絶対に試合に出ます。そして、その試合で必ず活躍しますよ!」

 そんな彼に、耀はそう言いきった。

「お前、そんな風に断言しちゃって大丈夫かよ⁉」

 陸が慌てふためいたように、すかさず耀の発言に突っ込む。

「大丈夫だよ。だって俺たち、こんな大変な悪夢を乗り越えられたんだもん」

「そういう理由⁉」

 陸が呆れたとでもいうように手をあげると、アツシはふっと笑みをこぼした。

「たしかに、君の言う通りかもね。なんだか俺、明日は試合に出られる気がしてきたよ」

「それならよかったです!」

 耀がそう言うと、それを合図にしたかのように、頭上に広がる夜空が白み始めた。

 さっきまで満天に広がっていた星たちが、一つ、二つとあっという間に姿を消していく。

 どうやら、もうすぐアツシが夢から覚め、この夢の世界が消失するようだ。

「先輩、俺たちもう行かなきゃ。俺たちも、先輩のことずっと応援してますから!」

「…そうか、これで本当にお別れなのか」

「はい。アツシ先輩! これからもお元気で!」

 耀たちは別れの言葉を早々に切り上げた。

 アツシの姿はもうほとんど白い霧の中に隠れて、見えなくなっていたからだ。

 だが、後ろから彼の声だけが耀たちの耳に届いた。

「俺、君たちのこと忘れないから!」

 その声に、耀たちはぱっと振り返る。

 耀たちからは、空も草原もすっかり見えなくなってしまい、代わりに白い霧の中にいるような景色だけが見えている。だが、その霧の奥のほうにある小さな隙間に、アツシがまだかろうじて見えるのがわかった。

 耀はその小さな隙間に向かって、大声で叫んだ。

「アツシせんぱ~い! 俺たちも忘れませんから~!」

 耀の声がこだまし、霧がアツシの姿を一瞬で隠してしまった。

 その瞬間、耀たちの体を例の浮遊感が襲った。

 こうして、耀たちは無事に浄化を終えた後、現実世界へと落ちていったのだった。

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