第四幕 苦労人クロック
桐生仁の過去
季節は四月下旬に突入し、学校内の敷地に植えられている桜はほとんど葉桜に姿を変えた。気温も高くなり、ブレザーを着ていると歩いているだけで汗ばんでくる。仁のクラスメイトたちも、最近はシャツの上から学校指定のベストだけを着用するというスタイルで過ごす人が増えた。
新しく始めた不思議なアルバイトは、今日で三回目だ。
あの羊の顔の店長は、自分たち四人の予定が合う日に雇うことにすると言った。理由は、アルバイトの子は基本的に最低でも四人でチームを組み、悪夢の浄化を担当しなければならないからだそうだ。
後日、無料通話チャットアプリのレインで、店長からシフトが送られてきた。自分たちが働くのは毎週月、水、金だった。直生が毎週火曜と木曜は塾があるから行けないと前に嘆いていたので、恐らくそれを考慮して店長はシフトを組んでくれたのだろう。
正直、放課後の時間を持て余していた仁は、もっとシフトを入れたかった。しかし、悪夢の浄化を一人でこなす自信はないので、店長にシフトを増やしてくれとはさすがに言えない。
マキの夢を浄化した日の夜、仁は眠ることができなかった。
夢の世界では、どうやら自分の怪我はないことになるらしい。自分はあちら側の世界で、現役だったころと同じくらいの速さで、ボールを投げることができた。その感覚が、昔野球をやっていたころを鮮明に思い出させ、全身の血が騒いだ。
だが、それはあくまで夢の世界での話だ。現実では、自分の腕の怪我はやはり治っていなかった。
ブブッとポケットに入れていたスマホが振動し、慌てて画面を開く。
『桐生くん! もう学校は出ましたか? 僕は今終礼が終わったので、少し遅れそうです(汗)』
直生からのレインだ。彼とは今日、いつものように学校帰りに一緒にバイトに向かう約束をしていた。昨日の夜、校門の前で待ち合わせてから一緒に行こうという話になったのだ。
それにしても、レインでも敬語になってしまうというところがいかにも直生らしい。仁はクスリと笑うと、『了解!』のスタンプを送った。
それにすぐに既読がつき、返信が送られてくる。
『今日は暑いと思うので、どこか涼しいところで待っててください(汗)』
(そんなに気を使わなくてもいいのに)
仁は、直生が必死で校門にやってくる様子を思い浮かべ、少し笑いそうになった。自分も急いで、『オッケー』のスタンプを送信する。
スマホをスリープ状態にし、校門の前で一人佇む。
今日も本当にいい天気だ。生徒たちが学校外へ出ていくのをぼんやりと眺めながら、この人たちはこの後どこへ行くのだろうとどうでもいいことを考えた。
ふいに、遠くのほうで野球部の掛け声が聞こえた。
ぱっと振り返り、グラウンドの方へと耳を澄ます。
(いや、何やってんだ。俺はもう、野球とは縁を切っただろ)
仁は我に返り、帰っていく生徒たちを目で追いかけることに意識を集中させる。
それでも春風は仁が大好きなグラウンドの土のにおいを運び、金属バットが白球を打つ音が心をかき乱した。
少しだけ、少しだけなら。
仁はほとんど無意識に、野球部の練習を見ることができる場所へと歩き出していた。
野球部は、今は個人練習のメニューをこなしていた。それぞれの場所で選手たちが、素振りやキャッチボールを行っている。
ピッチャーが大きく振りかぶって投げ、キャッチャーがそれを受け止める。それの繰り返し。仁はそれをフェンス越しに、食い入るように見つめた。
(俺の方が、速く投げられるのに)
今、投球練習をしているピッチャーは、明らかに自分が中学時代に投げたボールよりもスピードが遅かった。それは、彼が何度投げようと変わらない。
本当は、自分があそこに立つはずだった。
あの事故さえなければ、自分はこの野球部を引っ張るピッチャーになり、甲子園へ出て優勝し、プロに選ばれゆくゆくはメジャーリーガーになるはずだった。
机上の空論なんかじゃない、本当に自分ならその夢を叶える自信があった。
中学時代、ジュニアリーグで自分がいるチームが全国制覇を達成した。もちろん、仁はそのチームで先発ピッチャーとして全ての試合に出場し、勝利を収めてきた。あの全国レベルの戦いがなされる場でも、自分の投げる球は誰よりも早く、そしてその実力は圧倒的だった。
仁は奢りではなく、自分の野球の才能をしっかりと理解していた。
全国大会の優勝をかけた最後の打席、仁は三振をなんなくもぎ取った。相手バッターの、こんな球打てねぇよとでも言いたげな苦い顔を見たとき、仁は確信した。
俺は、メジャーリーガーになれるんだ。
守備をしていた同じチームの仲間がわっと駆け寄り、あっという間に胴上げされる。そんな時、仁は未来への切符がすでに握られていることを悟り、心臓をどきどきさせていたのだった。
だが、その夢は交通事故によってあっけなく奪われた。
もともと、仁は小学校五年生のころに右肩を壊していた。医者からこれ以上右肩を使ってボールを投げることはできないと言われたとき、絶望した。
でも、まだ左肩がある。仁は次の日からは左で投げる練習をし、若くして野球界から注目される、サウスポーにまで自力で上り詰めた。
それが、だ。仁に突然襲ってきた車は、その大切な左肩に強くぶつかってきた。
骨が砕ける音。肩に激痛が走り、痛みのあまり意識が遠のいていく。
救急車に運ばれ、目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。
両親は自分が生きていたことに大粒の涙を流した。両親には申し訳ないが、仁は自分の左肩のことのほうが心配だった。だから、二人がかけてくれた言葉は何も覚えていない。
訳が分からぬまま、しばらく入院生活が続き、医者に話があると呼び出された。
「君、もう野球はできないよ」
医者は、感情のない声でそう告げた。
医者の顔が蘇り、仁は我に返ってフェンスから顔を離した。
そうだ、練習を見たところで何になる。野球は、俺にはもう選べない選択肢じゃないか。
そして、ふと思った。
なら、俺が今までやってきた野球は、全部無駄だったんじゃないだろうかと。
「遅れてすみません! 仁くん、こんなところにいたんですね!」
後ろから声をかけられ、仁はハッとした。
「直生、お前いつのまに…?」
「今来たところですよ! 仁くんの既読がつかないので、その辺を探し回っていたんです」
直生は少し肩で息をしながら、にこっと背の高い仁を見上げた。
そのかわいらしい笑顔が自分の家の飼い犬に似ていたので、仁はつい笑いそうになった。それをごまかすようにスマホを見ると、確かに直生から「今、どこにいますか?」と通知が来ていた。
「ごめん。レイン見るの忘れてた」
「そうだったんですね! とにかく、見つかってよかったです!」
「悪い。今度からはちゃんと見ておくようにするから。早く行こう」
「はい!」
直生とたわいもない会話をしたおかげで、仁はさっき考えたことを無理やり打ち消した。そして、仲良くアルバイト先に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます