ピアノの発表会

 翌日。

 耀たちは店長の言う通りの時間にカフェの前で集合し、電車に乗って隣町のサンクチュアリホールまでやってきた。

 あんなに嫌そうな顔をしていた虎谷も、結局はチケット代を払うより、コンクールに来ることを選んだようだ。

 受付でチケットを渡し、会場へと入る。

「うわ、ここって…」

「本当に、あの場所とそっくりですね…」

 直生も同じことを思ったらしい。耀はこくりと頷いた。

 ホールの構造は、あの日夢の世界で見たものと全く同じ造りだった。

 客席にネズミではなくたくさんの人がいる以外は、舞台の広さも、照明の感じも、そして立派なグランドピアノも、あの時見たものと全く同じである。

「カナトくんは、実は一年前にもこのコンクールに参加しているんだ。その時もここが会場だったらしい。きっと、彼はこの会場のことを鮮明に覚えていて、それが夢にも反映されたんだろうね」

「なるほど…」

 耀は、カナトの夢世界での再現度の高さに感心した。

 いくら記憶を材料にしている夢とは言え、ここまでそっくりに夢の中でこの世界を表現できることに驚いた。

 オレンジっぽい灯りに照らされるホールの中を、店長は迷いなく進んでいく。座席と座席の間の通路は狭く、耀たちは慣れていない足取りで彼に続いた。店長が立ち止まったのは、舞台から下手側の前から三列目という、演奏者からかなり近い位置だった。

「ここが、僕がとっておいた席だよ」

「うわ~! 結構近いですね!」

 耀はホール特有のふかふかした座席に興奮し、鼻息を荒くした。

 周りを立ったままキョロキョロしている耀以外の三人は、すでにおとなしく席についている。

 それを見て、左側に座っている店長から、耀、虎谷、京崎、桐生とパンフレットが回された。

「昨日のカナトくんの演奏は、プログラムの九番目だよ。だから、今の昼休憩が終われば、彼の出番だからね」

「ええっ! それってもう始まるじゃないですか!」

 耀はパンフレットに書かれている演奏開始時刻と、自分のスマホの時計を見比べて驚愕した。

「ふふふ。だってみんな、カナトくん以外の人の演奏は、まともに聞かないだろうと思ってね。だからわざとギリギリの時間を選んで、みんなを連れてきたんだよ」

「それだとお金がもったいないと思うんですけど、良かったんですか…?」

 京崎が店長の考えを理解しかねて困惑気味でいると、ホール全体にブザー音が鳴り響いた。

 照明が一気に暗くなり、舞台だけが明るく照らされ始める。

「いいのいいの。これは僕のおごりなんだし。それに、もう始まるみたいだね」

 店長はウインクしながら、四人にそう囁く。

 プログラム九番、渡辺奏斗さん、とカナトの本名がアナウンスされ、一人の少年が舞台の上を歩いてくる。

 耀はその少年の姿に目を凝らした。

 間違いない。彼は夢の世界で出会ったカナト本人だった。身長も顔も、悪夢の世界で見たカナトと全く同じである。昨日と違う箇所があるとすれば、それは服装くらいだろう。

 今日の彼は、黒のタキシードにネクタイ姿でビシッと決めていた。

 そんなカナトに、昨日の夢の世界でのひ弱な印象は全く感じられない。

 耀はふいに、会場の視線が熱を帯び、彼を飲み込もうとするのを感じた。それほど、カナトは期待がかかっている若きピアニストなのだろう。

 ピアノの前でお辞儀し、椅子に座る。そして、勢いよく曲を演奏し始めた。

 その手に迷いはなく、彼の激しい演奏はあの夢に出てきた鎖なんて簡単に引きちぎってしまいそうだった。

 今、耀たちの目の前でピアノを演奏する彼は、自由そのものだった。

 彼は、自分を縛る得体のしれない不安や恐怖、そしてプレッシャーから解放されたのだ。夢の管理人かつ夢の番人である、店長の手によって。

(これが、夢の番人の仕事の成果…!)

 耀は、隣の席に座る店長の横顔を見た。

 彼は楽しそうにピアノを弾くカナトに、慈愛に満ちた眼差しを向けている。

 きっと、彼もカナトが現実世界でも笑顔になれたのが嬉しかったのだろう。まだ短い付き合いではあるものの、店長は今まで見た中で一番の笑顔を彼に向けていた。。

 演奏が終わると、客席の人は全員立ち上がり、カナトに盛大な拍手が送られた。

 耀たちも同じく立ち上がり、あたたかな拍手を送る。

 カナトは舞台でお辞儀すると、少し汗ばんだ顔でにっこりと笑った。

 それはまさしく、自由を手に入れた勝者のほほ笑みだった。

 耀の瞳に、その笑顔が焼きついた。

 店長はカナトの演奏が終わると、四人を連れてすぐに会場を出た。

 そして、残りの演奏は見ないまま、耀たちを外へ連れ出してきてしまった。

 さっき言っていたように、カナトの演奏以外は本当に興味がないようだ。

「どう? 夢の番人の仕事、少しはやりたくなった?」

 店長は駅に向かう道の途中で、四人にそう尋ねた。

「さっき見てわかってもらえたとは思うけど、この仕事は人を笑顔にできるんだ。だから、僕はこの仕事をとても誇りに思っている」

 彼の熱い思いは耀にもしっかりと届いていた。

 演奏をし終わってステージ上で笑ったカナトの顔が、また脳裏に浮かぶ。

 自分もあんな風に、誰かを笑顔にできたなら…。

 耀がそんなことを思っていると、

「できることなら、僕は君たちにこの仕事をお願いしたいな。まぁ、強制はしないけどね」

と店長は言ったきり、それ以上仕事の話はしなくなった。

 耀は、他の三人の顔をちらりと見た。虎谷と京崎と桐生は、このアルバイトを引き受けるのだろうか。できることなら、耀は彼らと一緒に仕事をしたかった。

「あ、あのっ!」

 耀は一度立ち止まると、店長を見上げた。

 人通りの少ない歩道の上、店長と前を歩いていた三人が、耀を振り返る。

「俺、この仕事やりますっ!」

「えっ、ほんとうに‼」

 耀が宣言するようにそう言うと、店長はぱぁっと顔を輝かせた。その笑顔が、羊の時の表情と重なる。

「やったぁ! これでようやく一人は確保だよぉ!」

 店長は街路樹のしたで、一目がないことをいいことに喜びの舞を披露する。こういうところはやはり、羊の姿になったときと同じだ。

「えっと、ぼ、僕もやりたいです」

「俺も。仲間がいるとわかったら、この仕事をやってみたい」

「えぇ⁉ 京崎くんと桐生くんも⁉」

 京崎と桐生は、照れるように小さな声で彼にそう言った。

(よかった! 二人も一緒なんだ!)

 耀は胸の内に安堵が広がっていくのがわかった。二人は、耀を見て少し恥ずかし気に微笑んでみせた。

「じゃあ、あとは虎谷くんの返事待ちというわけになるけど…」

 店長と耀たちに見つめられ、虎谷はげぇっという顔をした。

「……わ、わかった! やればいいんだろやれば! その代わり、給料はきっちり払ってくれよな!」

 彼はそう言いながらも、ちょっと頬を赤く染めていた。本当は照れているのかもしれない。耀は今更ながらに、虎谷はツンデレだということに気づかされるのであった。

 最後の砦の彼も無事に陥落し、店長は、

「イエーイ! これで正式に、みんなは夢の番人だね!」

と言ってハッスルした。

「そうだ! みんな、お腹すいてるでしょ。どうせ、全員一度カフェの最寄り駅によるわけだし、良ければうちでお昼ご飯を食べていきなよ。もちろん、うちは賄いつきだから無料でオッケーだよ」

「えっ、マジか!」

 無料の一言に、虎谷が目を輝かせて食いつく。

 店長の言う通り、耀たちは早めのお昼を済ませて以来、なにも口にしていなかったのでかなりお腹がすいていた。それに、よくよく考えたら、耀はまだ店長のお店で何も食べたことがなかった。

「よし、決まりだね! それじゃあ、早く電車に乗ろうか!」

 店長は四人の顔に「空腹なので食べたいです」と書かれているのを見ると、にっこりした。そして先頭に立ち、意気揚々と駅までの道を歩き始めた。

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