初めての悪夢
数秒ほど落下した後、耀たちが乗っていたソファはふわりと停止した。その後、突然ソファが消え、そのままほこりっぽい床に転がされる。
「あいててて!」
辺りを見回すと、そこはどこかのステージ裏のような場所だった。
薄暗さに慣れてきた目が、周りにある大きなカーテンや天井に吊るされたライトをとらえる。
「ここは…?」
「ここは、今日僕が担当する子の悪夢の中の世界だよ」
「へ? そうなんですか?」
(見た感じ、全然悪夢っぽい世界観じゃないけど…)
耀がそんな風に疑問に思っていると、他の三人も痛めた箇所をさすりながら立ち上がる。
「みんな、あそこに小さな男の子がいるのが見えるかい?」
店長は小声で舞台の方を指さした。すると、そこにはスポットライトに照らされた少年の姿があった。
彼はステージの真ん中に置かれたピアノの前で椅子に座り、まっすぐな姿勢を保っている。どうやら今から演奏を始めるらしい。
「あの子が、今回の夢の主だよ。今、僕たちがいるこの世界は、あの男の子が今夜見る夢の中なんだ」
「えっ、あの子がですか?」
後ろ姿だからわかりにくいが、少年はまだ小学校三、四年生くらいに見えた。
ここがあの少年の夢の世界なのだとしたら、随分現実的な夢を見ているなぁと耀は関心した。自分が見たことがある夢は、おもちゃの世界とか、宇宙空間とか、わけのわからないものばかりだ。
「えっと、今回の夢主の男の子の名前は、カナトくん。現実世界では八歳で、小学三年生。嫌いなものは、ネズミ。そしてこの夢が見られているのは今夜だ。協会からの情報提供は、これだけみたいだね」
「店長、夢の主の情報なんてわかるんですか?」
「うん。夢の管理人や番人には、悪夢を浄化するために、必要最低限の情報が協会から提供される仕組みになっているんだ。ま、プライバシーの問題もあるから、最近はかなり知らされる情報が少なくなったけどね」
「そうなんだ…」
耀が感心していると、突然、
《ああ~、やだなぁ…》
とくぐもった声が頭の中に響いた。
「えっ! なんですか、これ!」
「今、頭の中に直接声が聞こえてきたぞ!」
さっきまでおとなしくしていた虎谷が、ぎょっとした顔で店長を見る。
京崎と桐生も驚いたように顔を見合わせた。
「これは、カナトくんの心の声だよ。こっちの世界では、夢主の心の声が僕たちにも聞こえるようになっているんだ」
店長が舞台裏でそう説明している間も、彼の心の声は止まらない。
《また、失敗しちゃったらどうしよう。この前の発表会でも失敗しちゃったし、絶対うまくいくわけないよ…》
少年はピアノの前の椅子で猫背になり、ため息をついているようだ。
「ここだと彼の状態がよく見えないね。とりあえず、移動しよう」
「えっ! でも、普通に見つかっちゃうと思いますけど、いいんですか?」
「いや、それに関しては心配ないよ。君たちは夢魔法で、カナトくんからは見えないようにしてあるから。あと、声も聞こえないようになってるよ」
「ふ~ん。あんた、そんなこともできるんだ」
「夢の中の世界では、いろんなことが可能になるんだな」
虎谷と桐生が感心したように、店長を見た。彼はこの中で一番身長が高いので、必然的に見上げることになる。そのせいか、より頼もしく見えた。
「まぁね。さぁ、みんなついてきて」
店長に言われるまま、四人は彼の顔が見えるピアノの横に来た。間近にいるのに、カナトは耀たちの方を見向きもしない。本当に見えていないようだ。
すると、カナトくんは覚悟を決めたように鍵盤に手を置いた。
そして、曲を弾き始める。
ジャララララン、と鍵盤を自由自在に叩くさまは、さっきまでの彼とはまるで別人だ。その小さな手から発せられているとは思えない、音の力強さに全員息を呑む。
「す、すげぇ! まだ小三の子が、あんなに難しい曲を弾けるなんて…」
「ほんとうにすごいですね。僕も昔ピアノを習っていたのでわかるんですけど、あの曲、大人でも正確に弾くのが難しい曲のはずなのに。完璧に弾きこなしてる…」
耀たちは彼の演奏に酔いしれた。
だが、耀には彼の演奏が、少し窮屈そうに感じた。
まるで誰かに怒られまいと、必死にリズムをとっているような、そんな演奏に聞こえる。
それに、演奏をしているカナトはどこか体でも痛めたかのように、苦痛に歪んだ顔をしていた。こんなに素晴らしい演奏をしているのに、当の本人はちっとも楽しそうではない。
演奏もクライマックスに差し掛かろうとしたとき、虎谷が至極もっともな疑問を店長にぶつけた。
「なぁ、これのどこが悪夢なんだ? あの子、あんなに上手に演奏してるじゃん」
「いや。悪夢が始まるのはここからだよ」
店長は先ほどとは違った真剣な表情で、耀たちにこう言った。草食動物特有の横長の瞳孔が、大きく見開かれている。
その時、ふいに演奏がパタリと止まった。
《やっぱりだめだ! もうこれ以上弾けない!》
カナトはそう心の中で叫ぶと、頭を抱え始めた。彼の額には冷や汗が浮き出て、全身を小刻みに震わせている。まるで何かに怯えているようだ。
「ええ~! なんで? さっきまであんなに上手に弾いてたのに!」
「いったいどうしたんだろう…」
耀も京崎も、カナトに何が起こったのかさっぱりわからなかった。
彼は椅子に座ったまま、絶望に打ちひしがれたようにさっきから動かない。
しかし、耀は自分の視界に、黒い靄がかかった何かが入ったのを捉えた。
その黒い靄は、グランドピアノの横側から染み出すようにして出てくる。
(ん? なんだこれ…?)
耀がそう思った瞬間、店長の緊迫した声がホール全体に響いた。
「みんなっ、避けて!」
「えっ?」
四人が突然の命令に反応できないでいると、店長は耀たち四人を突き飛ばした。
「うわっ!」「ぐぇっ!」「ぎゃっ!」「うっ⁉」と四人は各々悲鳴を上げた。
耀たちはステージの左側に大きく吹っ飛ばされ、そのまま壁に打ちつけられた。だが、四人の背中に痛みはなかった。気づくと、いつのまにか耀たちと壁の間にさっきソファを形どっていたピンク色の雲が挟まっていた。
「いつのまに⁉」
ピンクの雲は耀たちの足元に回り込み、そのまま地面にゆっくりと着地させる。そして役目が終わると、散り散りになって消えた。
「おいっ、見ろよあれ‼」
「なっ、なんだあれ…!」
虎谷が指差した方を見て、耀たちはなぜ店長が自分たちを飛ばしたのかわかった。
ピアノから、まるで蛸が獲物を触手で捕らえようとするように、たくさんの鎖の縄が飛び出していたのだ。そして、さっきまで演奏していたカナトを今にも巻き付こうとしている。
「うわぁ! た、たすけて!」
カナトが恐怖に満ちた叫び声を上げた。鎖の魔物は彼の反応など無視し、ジャラジャラ
と音を立てながらカナトに襲い掛かる。
その時、カナトの前に一人の人物が立ちはだかった。
「ん? あれってもしかして…!」
「店長さん⁉」
店長は耀たちの視界から消えている間に、人間の姿に戻っていた。いや、人間の姿はしていたが、彼は現実の世界とは少し容姿が違っている。髪の毛の色は銀色で、目は羊の時と同じように金色をしていた。
彼は鎖の怪物に向かって手を伸ばした。すると、彼の右手の甲に書かれた何かの印が金色に光る。
その瞬間、彼の手の周りにどこからともなく湧き出た光の粒が、大きな剣をかたどり始めた。彼はその光によって生成された大きな剣を握り、すごい速さで迫ってくる鎖の束を一刀両断した。
ジャキン!
何十本もの鎖は店長の前でバラバラと崩れ、あっというまに黒い灰へと形を変える。そして埃が風にさらわれて消えるように、跡形もなく消失した。
「すげぇ……!」
耀は床に座り込んだまま、店長のカッコよさに感動した。
まるで、ヒーローみたいだ。
「君、大丈夫?」
店長は自分が持っている剣を消し、座席からずり落ちたカナトの手をとった。剣はまた光の粒となり、店長の右手の甲に刻まれた印に戻っていく。
「う、うん。助けてくれてありがとう」
カナトは目の前に現れた不思議な姿の彼に、少々戸惑っているようだ。
店長は耀たちの方を見ると、こちらへ来いと手招きした。なので、素直にそれに従う。
「ねぇ、お兄さんはだれ?」
「僕は、君を悪夢から救いに来た夢の管理人というものだよ。そして、こちらの四人が僕の助手たちだ」
「夢の管理人…? ってうわっ! 急に人が出てきた!」
店長が指をパチンと鳴らしたので、カナトには急に耀たちのことが見えるようになったらしい。それで、彼は四人を見ると大きく後ろにのけ反った。
「こんにちは~!」
耀はカナトににこやかに挨拶した。カナトはそんな耀の態度に、少し落ち着いたようだ。さっきまで化け物に襲われそうになり、強張っていた表情が柔らかくなる。
残りの三人も、耀と同じように軽く挨拶した。(虎谷の顔はやはり怖かったが)。
「さて、助手の四人を紹介したところで…。カナトくん、君は今、悪夢の中の世界にいるんだ。ここのところ、君は悪夢ばかり見ているようだね。もしかして、何か悩んでいることでもあるのかな?」
店長がそう尋ねると、カナトは露骨に体をビクリとさせた。どうやら図星らしい。
「どんな悩みでも気にすることはないよ。ここは夢の世界だ。何を話しても、ここでの会話を現実の世界で誰かに聞かれることはない。それに、僕たちは君の見方だ。君を否定することは絶対にないから安心して」
店長はそう言うと、天使のような笑顔でカナトに笑いかけた。
彼の必殺技の効果もあり、カナトは今抱えている不安をぽつぽつとステージの上で話し始めた。
「実は、今度ピアノのコンクールがあるんだ。でもオレ、最近ピアノが全然うまく弾けなくて…。それで、先生に怒られてばかりなんだ。今まではちゃんと弾けてたのに、突然失敗ばかりするようになっちゃって。でも、なんでそんな風になっちゃったのか自分でもわからないんだよ」
カナトはそこで深くため息をついた。
「お母さんは、オレが次のコンクールで優勝するのをすごい楽しみにしてる。でも、正直オレにはそれがすごくしんどい時があるんだ。オレはただ、自由にピアノが弾きたいだけなのに…。最近はもう、演奏するのがちっとも楽しくないよ」
「なるほど…そんなことがあったんだね」
店長はかわいそうに、とカナトを困り顔で見つめた。
「あの、店長。俺たちにも、何かできることはありませんか? このまま見ているだけっていうのもなんか、アレっていうか…」
さっきまで手持無沙汰に黙っていた耀は、口を挟むようで悪いとは思いつつ、彼にそう尋ねた。ここで突っ立っているだけというのも、カナトに忍びない気がしたのだ。
店長は一度こちらに振り替えると、耀たちだけに聞こえる声でこう囁いた。
「いや、君たちはまだここで見ていてくれ。この悪夢はまだ浄化しきれていない。だから、しっかりと僕を見ておくように」
「えっ、まだ悪夢は終わっていないんですか?」
京崎が小声でそう言うと、店長は人差し指を唇の前で立てた。
「しーっ。まぁ、今にわかるよ」
店長はカナトに向き合いなおすと、
「それで? 君の本音はそれだけで終わりかい?」
と聞いた。
「え?」
「君の本音だよ。本当はもっと、何かに怒ったりしているのじゃないのかい?」
「怒ってる…?」
店長の言葉を小さく繰り返した瞬間、突然カナトの顔が鬼のように豹変した。眉にぎゅっと皺がより、床を睨みつける。
あまりの変貌ぶりに、耀たち四人は息を呑んだ。
「ああ、そうだよ! オレは怒ってるんだ! オレのことを勝手に天才とか言い始めた大人たちが、オレがどんな曲を弾きたいかなんかなんて無視して、勝手に演奏する曲を命令するようになったんだ! お母さんだって、今はオレがピアノで良い成績を残すことしか考えてない! オレの気持ちなんて考えようともしないんだ!」
カナトはそう言い切ると、観客席を見下ろし吐き捨てるように言った。
「天才だって言われ始めてから、誰もオレ自身のことなんて見ようとしない! みんなが見てるのは、オレのピアノの才能だけだよ!」
「なるほど。それが君の本音だね」
店長は意味深に低い声でそう答えた。
「ああ、そうだよ! なんか文句ある?」
さっきとは打って変わり、余裕のない表情のカナトが店長にそう噛みつく。
「いいや。でも、おかげでようやく悪夢の核が顔を出した」
「え……?」
店長の目線の先を見て、カナトと耀たちは悲鳴を上げた。
「う、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーー⁉」
なんと、小学生くらいの大きさの黒いネズミが客席一面に座っていたのだ。
ネズミたちは全員意地汚い目で、ステージ上の耀たちを見つめていた。
「なんだあれ! きっ、気持ちわりぃ!」
虎谷が観客席側からバッと離れる。耀たちも慌てて後ろへ下がった。
「よりにもよって、なんでネズミ…! オレはネズミが大の苦手なんだ!」
カナトが唇を震わせながら泣きそうな声で言う。
「悪夢っていうのはね、その人が嫌いなものが現れやすいんだ。そして、それが悪夢の場合も多いんだよ」
「悪夢の…かく…?」
耀がそう尋ねると、店長は落ち着いて説明してくれた。
「そう、核。人でいう心臓みたいなものだよ。心臓が破壊れてしまえば、人は死ぬ。それと同じように、悪夢の核を破壊できれば、悪夢を浄化することができるんだ」
「それはわかったけど、そんなこと呑気に言ってる場合か⁉ あのネズミの集団、今にもこっちに襲いかかってきそうだぞ‼」
虎谷の言う通り、ネズミたちは席を立ち、真ん中にある通路からこちらにぞろぞろと向かい始めていた。彼らの周りには黒い靄が立っており、それがさらに気味の悪さを引き立てる。
「大丈夫。これらは今から僕が祓う。これが僕の本職だからね」
店長はそう言って、ふっと笑った。
「おい! 祓うってどうするつもりだよっ! あんまり近づきすぎると、危ねぇって!」
だが、店長はそのまま一番客席に近い場所に立った。
スポットライトが彼を照らし、長い影が耀たちの足元まで伸びる。
下ではキィキィと小汚いネズミたちが鳴き声を上げていた。
彼は静かに右手を少し上に持ち上げた。すると、彼の手にさっきと同じように光の粒が集まり始める。それはまた剣となり、彼はそれを舞台に向かって横に大きく振りかざした。
その瞬間、台風のような風が、ブンッと会場全体に吹き荒れた。
耀はそれに飛ばされないように踏ん張りながら、しっかりと店長の姿を目に焼き付けた。
舞台の下にまで迫ってきていたネズミの集団が、その風によってあっという間にかき消される。そして、あとに残された白い光の粒が、次から次へと上に飛んで行った。ホールの天井のほうへと昇っていく。
「うわぁ…!」
「す、すげぇ…!」
「きれい…」
「きれいだな」
耀たちはその様子にうっとりと見とれた。まるで夢のような光景だ。いや、実際ここは夢の世界なのだが。
さっきまで恐怖に歪んだ顔をしていたカナトも、今ではその光を目で追いかけていた。その瞳には、年相応の純真無垢な輝きがあった。
「カナトくん。これで君の悪夢は綺麗になった。だから、もう心配することはないよ。君は自分らしく、ピアノを弾けばいいんだ。周りの大人たちや観客なんて、気にしなくていいんだよ。だって、君の負の感情を具現化していた悪夢の核を、浄化することができたんだから」
「う~ん。最後の方はどういう意味かわからないけど、とにかくありがとう。オレ、なんだかさっきよりも気分がすっきりしてる気がする!」
カナトはそう言うと、顔をぱっと明るくした。
四人は彼の屈託のない笑顔を見て、心の奥が温まる思いがした。
だが、その時悪夢の世界に異変が着始めた。
だんだん周りの世界の輪郭がぼやけ、曖昧になってきたのだ。さっきまで全体的に薄暗かったホールが白み始め、仁がすかさず店長に尋ねる。
「なんかこの場所、明るくなってきてないか?」
「ああ、カナトくんの夢が終わりに近づいている証拠だよ。夢世界は、夢の主が目を覚ますと同時に消えるんだ。彼ももうそろそろお目覚めのようだね」
「えっ、そうなんですか!」
耀がそう聞き返している間にも、あたりはどんどん白い世界へと変わっていく。
「それじゃあカナトくん。僕たちとはここでお別れだよ」
「えっ、もう行っちゃうの?」
カナトは少し寂しそうな顔で店長と耀たちを見上げた。
だが、最後は笑顔でこう言った。
「お兄さんたち、ありがとう! オレ、明日のコンクール、楽しむことにするよ!」
「うん! それがいいよ!」
店長が彼にそう言った直後、耀たちの体にまた浮遊感が訪れた。
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