第2話 純白の世界

 高い場所から高速で引き摺り降ろされ、物凄い勢いで地表に叩き付けられたような感触を以って、鵜久森愛鸞は再び意識を取り戻した。


「あれ………?

俺は病院で血ぃをドバッと吐いて……死んだんやなかったか?

この白い部屋は……さっきまでった病室……やないよな?

何か……ここに墜とされたような……あの感じは何や……フリーフォールみたいな……胃がフワッとなるような……嫌な感覚やったな…………。

天国から拒否られて……地獄にでも堕ちてしもたんやろか?」


 眼を覚ました愛鸞の眼前に広がる光景は、純白の虚無……吹雪の中で視界を失うホワイトアウトの只中に放り出された人が感じる恐怖すら覚えるような孤独と静寂に満たされた空間であった。

 何の痛痒も感じない自身の肉体に、少しばかりの違和感を覚えた愛鸞が立ち上がると……その無機質でつるりとした床から伝わるひんやりとした感触に、愛鸞はブルリと身を震わせて周囲を見渡す。


「ここは……何処なんや?

ここには……俺しか居らんのやろか?

真っ白……この真っ白な空間が、死後の世界っちゅうヤツなんやろか……。

服は……この白い貫頭衣ってモンしか着とらんけど、まさか別の病院に転院させられたって訳でもないよな」


 彼の独白が示す通り、愛鸞が身に着けているのはサラリとした感触の、素材も判らぬ白い一枚布に頭が入る穴を開けただけの簡素な衣服だけ……足元も裸足で、まさしく入院患者か人間ドックで着用する検査着の如き姿であった。

 苦痛に晒され死を目前にしたままの記憶が寸断され、いきなりこのような場所に連れて来られた愛鸞は……当初の驚き戸惑い、そして言い知れぬ不安から立ち直ると……躰の内側から沸き起こるかのような激しい怒りを感じて叫んだ。


「おいっ!!

人のことをんも大概にせぇよっ!!

俺は死んだ人間やねんから、大抵のことは怖ないんじゃっ!!

人をこないな場所に連れて来といて、独り置き去りにしやがってからに……責任者が居るんやったらとっとと出て来んかいっ!!!」


 清潔で塵一つ落ちていない広大で冷ややかな白き暗黒のような空間に、愛鸞の叫びはこだますることもなく陰々と吸い込まれて行く。

 愛鸞の叫びを嘲笑うかのように静寂を取り戻した空間からは、彼の問いに対する応えはおろか……他の者が存在するような証であるしわぶき一つ聞こえることもなかった。


「あぁっ!

もう判ったわ!!

俺はもう何もせぇへんから……用事があんねんやったらとっとと出てこいやっ!!!」


 最後に負け惜しみのように叫んだ愛鸞は、立ち尽くしていた場所にドッカリと胡座あぐらをかいて座り込む。

 それから更に時間は経過したものの、愛鸞の周囲は落ち着き払ったかのような静寂に包まれたままで……白夜の最中のように薄明るい景色が変化することもなく、彼の許に何者かが現れ出でるようなこともなかった。


「ホンマに面倒めんどい場所やなぁ……この辛気臭いトコは………。

もう……付き合っとれんわ…………」


 呆れ返った様子で漫才のツッコミのような台詞を吐き出した愛鸞は、そのままゴロリと横たわりフテ寝の態勢を決め込んだ。


___________________________________

 


『…………き……よ………。

………お……き………よ………。

起きよ…………アラン…………。

眼を……覚ますのだ…………』


 いつの間にやら深く眠り込んでいたのだろう、途切れ途切れに耳に届く声に愛鸞は、意識が徐々に覚醒し……穏やかな目覚めを迎える自分自身に驚いていた。


『やっぱり……俺は死んでしもたんやな…………。

さっきまでやったら、点滴で静脈注射される麻酔か……モルヒネパッチで強制的に意識を飛ばされて、目覚める時も癌細胞が暴れ回る激痛で…のたうち回るように起こされとっただけやったし…………。

こないに爽やかに目覚められるんやったら、死ぬんもそないに悪うないんかも知れんな。

ん?………って云うか、死んどる俺に睡眠とか必要なんか?

もしかしたら死ぬ直前に観る、夢現ゆめうつつの世界なんやろかいな?

まぁ……ここが何処で俺がどないなったんか、俺を呼んでるモンに聞いてみたら良いやろ。

先方さんは俺の名前まで知っとるみたいやし、なんかの間違いでしたっちゅう話でもないやろ』


 何処か懐かしいような、耳に心地良い声の主を確認しようと……自身の意識が完全に覚醒したことを認識した愛鸞は、意識して閉じたままにしていた両の瞼をゆっくりと上げ開いた。


『…………ッ!?』


 自らの意思でゆっくりと瞼を上げた愛鸞であったが、先刻までと変わらぬ純白に煙るような白一色の世界に……その世界に横たわる愛鸞の眼前に立つ人物を見上げた瞬間、愛鸞の両眼は驚愕に大きく見開かれ、その口も唖然としたように大きくポカリと開いた。


「ゆ……百合子………か?」


 愛鸞の呟く通り、彼の眼前にはこの世界や愛鸞のまとう衣服と同様に……染み一つない純白の長衣ワンピースを身に着けた鵜久森百合子の姿が、病室で流した涙の跡も感じさせぬような平静な無表情で立っていたのだ。


「百合子……何でお前がこないな所に来とるんや?

まさか……俺が死んだからって………後追いしたとか、そないな訳あらへんよな?

それに……桃子はどないしたんや?

娘を放ったらかして、こんな場所へ来たんやないよな?

おいおい……そんな顔して黙ってんと、何とか言うてくれやっ!!

百合子……………?」


 死別した筈の夫を前にしたにも関わらず、鵜久森百合子の表情には平静以上の変化は見られず、何ら感情の揺らぎも引き起こされていないようだ。

 凪いだ湖面のように澄み切った眼を愛鸞へと向けた百合子は、そのまま表情を動かさずに口を開いた。


「個体名アラン・ウグモリよ……我の肉体は其方そなたの記憶にある個体名ユリコ・ウグモリの姿を転写トレースしたものに過ぎない………。

個体名ユリコ・ウグモリは、其方が居た世界に留まり……輪廻の運命さだめの中で生存が確認されている。

其方だけは本来の世界より、かの世界を構成していた神々の輪より弾き出され……我の管理地まで流され漂着したのだ。

これより其方の魂を、神を呪い……神に拒絶されたはぐれ者の処遇を……審理し結審せねばならないのだ………。

そうしなければ其方の魂は、行くあてなく白痴の虚無ホワイト・ホロウと呼称される、我の管理地に留まるしか選択の余地がなくなるのだ。

さて………それでは審理を始めよう……………」


 物理的に切り裂けそうな鋭い視線を眼の前の女性に向けた愛鸞は、歯を剥き出しまさしく噛み付きそうな勢いで吼えた。


「何を抜かしとんじゃっ!

この……偽物ニセモンがあっ!!

百合子に化けて俺を騙すっちゅうのは、どないな了見なんやっ!

審理やの結審やの……何の話やねんっ!!

俺は……誰かに裁いて貰わなアカンような真似はしとらんぞっ!

神だの輪廻だの管理地だの、どないでもエエわいっ!

はようにこの辛気臭い場所から出して、百合子と桃子のる場所へ俺を帰さんかいっ!!」


 愛鸞の怒号にも、百合子の姿形をした謎の人物は……身じろぎ一つせずに愛鸞の怒りを見つめるだけであった。



【第2話 純白の世界:完】

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