詰まりと浮遊

天池

詰まりと浮遊

 うんと広く、正面に向き合った木の姿をまるごと反射させているショーウィンドウの連なりは、貴婦人のブルドッグに祝いの花びら一枚落とさせないとでも言わんばかりの構えようではあったが、葉の落ちた木の生身の幹を昼頃からの暴風は絶え間なく打ち、すり抜け、歩道じゅうに細かな飛沫を運んだ。目に見える飛沫は大きかった。だが上半身を捩じりながら前に折り曲げたマネキン人形はびくともしていなかった。下方からは白くてシミのない長いカバーによって覆い隠された幾つもの熱源が弱い光で照射し、真上からも隙のない開けっぴろげな小型ライトによって照らされていた。あの足元のカバーを指でなぞってみたら少しくらい埃がつくだろうか、いやつかない訳がない、でもと珋衣(るい)は目を細めて赤い靴を見ながら思った。でも、僕の指はこのガラスに突っこむことなど出来ないし、この脚はびしょ濡れだし。暴風と疎雨は夜中まで続いた。アパート近くの道に割れて落ちていた植木鉢からこぼれ、雨に濡れながら次第に遠くへと撒き散らされていった土の色と、目的の街から帰るとき、まるで別世界のような地下鉄のホームで、到着した電車のドア前に群れ成す人々の姿とが重なっていた。リュックを拭いたタオルが横に転がっていた。無地の何でもないタオルで、実家から意図せず持って来たものだった。

 ではこれより始めますので、と言いながら医師の一人が引く真白なカーテンは、裾を完全に引き摺っていたが、少しも汚れてはいなかった。すると右横でも同じ素早さと同じ静かさでカーテンが引かれ、左でも、後ろでも、その両隣でも、更にもう一列後ろでも、さっ、さっ、さっ、と均一な幅を持った波が次々と横切ったのであった。そして気が付くと、自分はベッドから左右に五十センチくらいのところで丸い襞のあるカーテンに閉ざされていた。その裾は外側にはみ出し、床の白はカーテンの白より少しくすんで、しかしもはや幾ばくの広がりも感じさせはしなかった。

 雨は勢い強く降り続け、熊手のように段々狭まりながら前の通りに接続している全ての坂を、水がしとしとと流れる。この分では土はとっくに全て流されてしまっただろう。珋衣はタオルをリュックの手前に無造作に置き、ベッドにもたれかかって足を伸ばした。濡れた靴下、膝から下は殆ど被害を防げなかった緑のズボン、その右に薄い茶色のリュック、左には上から更にビニールの覆いを掛けられた長方形のビニールバッグ。リュックの中にこれといって物は入っておらず、梱包された状態で手渡され購入した、アパレルショップの限定コートが入ったビニールバッグと重さはあまり変わらない。

 濡れたズボンにそのバッグを載せ、一つ一つテープを剥がし、ビニールの覆いを取って、それを毛羽立ったタオルの上に置く。透明の特別なビニールバッグは厚みがあるが光をよく通し、この冬の限定アイテムがしっかり入っていることが外からでも確認出来るようになっている。ブランドのロゴが印刷された円形のシールをめくって口を開くと、薄い紙の下にフェイクファーで作られたその黒いコートが三つに折り畳まれて入っている。珋衣は紙に手のひらで触れたが、それを媒介して伝わって来るブークレの肌触りをむしろ目で見るように確かめたあと、それを覆い尽くすような、雨混じりの冷たい外の空気が腕の方まで這い上がって来るような痛みを感じ、さっと手を引き抜いて、また円形のシールを貼り付けて脚からバッグをどけた。

 年中履きのズボンは腰や太腿のところに余裕があり、膝同士が触れるか触れないかという距離の、二本の脚が内側で街路樹のように冷え切っているのがよく分かった。珋衣はびしょ濡れの靴下を滑らすようにそれを折り曲げて、接着した膝の間に鼻を埋めた。頬骨と膝が触れる感覚の向こうで、自分の中を殆ど流れもないままに何か温かく超越的なものが巡り、花粉に似たものを後ろに振りまいていた。それは奥へ奥へと去っていく。頬の触れたところは湿っていて冷たく、腿の隙間は温かい。両腕を互いの肘のところに回して体勢を固定しつつ、珋衣は頬の熱で膝のところの湿ったズボンが焼けていくのを想像した。フェロモン、と珋衣は思った。ズボンが焼けて穴が空いたら、今度は脚の温度に冷やされて、顔面は次第に凍りつき、力の抜けた指が肘から離れるその直前、肩から下の全てが、一つの科学的な極点に達し、もうどこにも力を籠める必要はなくなる。肩の方に後退していく生活の動力に逃げ場はない。それは一つの背に閉じ込められ、僕は氷の滑らかな隙間の方に流れ去る……それも、殆ど流れという様相のないままに。

 雪解けという曲を姉が踊っていたことを思い出す。オーロラの綺麗な薄藍色と雪原を思わせる白がそれぞれ基調となっている、二つの系統の衣装が混ざり合ったり入れ替わったりして、その中に三人だけが、ワンピースタイプの花柄の衣装に身を包み、まるで小さな役割を分有しているかのように位置を移り合いながら舞っている。そして曲の最後では、マイクの前にあらかじめ置いておいた持ち手つきの花籠を姉が持ち上げて抱え、寄り集まった三人がその籠に向けた視線を三方向に放つようにしてポーズを取るのだ。

 姉の手が花籠をカーテンに押しつける。裾は少し床を撫でて内側へ流れ込みそうになるが、動きが止まるとそのままそこでしなやかに垂れる。カーテンによって作られた四面はすぐさま分断され、だから医師と反対の側にいる姉の手は何にも邪魔をされることがない。真白なカーテンを色とりどりの花が詰め込まれた籠が押し、だけれどその力はとても弱々しいもので、その上時間との相性が途轍もなく悪いから、籠は滑らかさに飲み込まれたせめてもの輪郭を浮かばせるだけで、それ以上カーテンは少しも動かない。凍りついた輪郭が四方を囲う。カーテンの左側で、医師はどこにいるのか分からない。彼がこれから始める、と言ってから随分経った……。

 エアコンをつけずに座り込んでしまったので、寒さに少しずつ身体を奪われていくのにじっと耐えているのが最良の選択だった。その内に靴下やズボンは乾くし、膝の骨は露出して、最もこき使われた筋達は、死に絶えた野ざらしの動物に酷似した、伸び切ったその格好のまま静かに息を止めるだろう、(次第に風が中に入り込むだろう、)小さな氷山の隣で、巨人になった僕は何も壊されないままに、いかなる手も下さぬままに……(終わりがない、)終わりがない! (珋衣は顔を上げて首の筋を逆側に折り曲げる。)終わりを見つけるのはいつも必要に駆られた末の帰結だった。だがそうして実現された終わりの形態が一体どれ程の説得力を持つのだろう。


 自分の中に潜っていく意識が、自分にとって一番の鍵だ。それにはトリガーとなるものがあって、例えば匂い、温度、それから(可能な限り明確なかたちにおける)孤独、それに留まらず、何かから離れていること。その体験を衣服の着用という行為の中で再現するというのが珋衣の試みていることだった。だぼついたトップスや全身黒一色のタイトなコーデ、横向きにハサミを入れられた服の断片のようなものを幾つも重ね合わせて縫合したカラフルな服や骨付き肉の内側の骨が斜めに大きくプリントされた薄い長袖の服。制作の機会があると、頭の中に沢山のイメージと絡みつきながら存在している漠然とした案の一つが、突然大きな輝きを放ち、周囲のイメージ全てを照らし出しまた反射光を浴びるような、ただ一つの可能性という確かさを纏い始める。それに飛びつき掻き出し、または飛び込み測量するようにして珋衣は制作に打ち込んだ。だが自分の中を潜っていく体験は、当然のことながら自分の内部でだけ生じ得る現象で、そっくり自分というものに包み込まれている。そこに終わりはあるのだろうか? 制作だとか着衣だとか、或いは次の作品への移行だとか着替えだとか、そういったもので体験の終わりを捉えることが出来るのだろうか。そうして良いものなのだろうか。脱ぐことの出来る服が、どこを見渡しても自分であるそうした場所の再現になる?

 そう考え始めたとき、珋衣は少しの間、あらゆるイメージが暗黒に剥がれ落ちる前後不覚に陥った。どこを見ても自分であって終わりがない、そうした以前よりも理論性を帯びた感覚を新たな核心にしようと試みもした。だが素材の質というものがまず決定的に違ったし、何かを誤魔化すことによって試験管内で不完全な成功を繰り返しているような虚無感に襲われた。そのような勘違いや過ちは初めから冒されていたにもかかわらず、自分は今になるまでそのことに気が付かなかったのだ。そう考えるとより一層苦痛が募った。水に濡れた水彩画のカンバスのようにぼやけていく頭のイメージ図は、真っ暗なそれより随分恐ろしく、その状態には手のつけようがなかった。

 自分が着る服の好みは変わらなかったけれど、専門学校に通学し、とりわけ多くの学生と混ざり合いながら門をくぐるそのときに、今自分を包み込み規定している全身の服の頼りなさ、接触の情報だけが無遠慮に漂う寒々しさを感じるようになった。着慣れた素材にふと手を触れ、同時に奥にある自分の肉体に触れて、時折吐き気を催した。足を動かして前に進むことや見下ろした視界と、体温が不気味に膨らむ上半身とが、行き交う人々のあらゆる容姿によってズタズタに引き裂かれていく思いがした。

 だが服飾専門学校に通う人のファッションはどれも皆恰好良くて、独特で好きだった。珋衣はコーディネートとしては敢えて少し調和を崩しながらも、こだわりのポイントを重視して、その存在を愛でるように服装を選ぶ。色や形が完璧と言えるくらい綺麗な靴、アウターの質感やファスナー周りのつくり、肩やスリーブの造形、袖口のボタン、そうした小さなところに、昔から抱き続け、今ではかなり意識的なものになっている衣服への憧れを塗布して、自分が牽引するかたちを取っているが、本当はその美しいものに身の全てをふんわりと捕捉されているような気持ちで歩く――それが前なら容易なことだった。

 学校の対面授業が再開したのが夏休み明けからで、裁縫技術やデザインの基礎を学ぶ課程が修了し、実習が増え作業の自由度も一段と高まる三年次以上の学生は、施設の利用や授業の為に朝方から構内へ押し寄せる。同じクラスに配属された人達とはある程度仲良くなっていたが、俄かに近くなった人との距離が珋衣にはなんだか熱っぽく感じられ、それでいて皆が抱いている風の情熱はあまり体感として得られず、早く一人になった方が良いのではないか、これからもどうにかして服を作るなら自分はもっと何かから離されているべきではないのか、と考え出すのをいつも抑えられなかった。少なくとも、自分はその人達と同じようにはこの服にくるまれていない。だから同じようには服を作れない。時間だって、そんなに残されてはいないのに。

 それでも、デザインを完成させたり、それを実作して提出したり披露したりするタイミングは否応なく訪れて、これから先に続く期間がその繰り返しによって既に予約されているようだった。だから珋衣はその度に何回でも終わりを作り上げなければならなかった。

「これは曇りガラスのような服ですね。窓としての機能の内、外の景色を見るということを初めから喪失させている。部分によってはその窓を横に動かして二重にしたような堅固な感じもあるし、そのせいで不当に失われた部分からは風がぴゅうぴゅうと入り込む」

 クラスの担任ということになっている先生からそんなコメントをもらったとき、珋衣は自分の作った服の前で視界全体が大きく揺さぶられ、強い眩暈に身を失った気分がした。それは自分の中にずっとあった感覚にとても近かったからだ。そしてまさにそこから、二つの感覚が生まれたのだった。一つは自分が完成ということにした作品達の不完全さが曇りガラスの窓が開いたり重なったりしながら固まり合っている集合体というイメージで物質的に捉え直される感覚。そしてもう一つは、そうした存在との距離感の中で自分が今やこの身から解き放たれて無重量になるような感覚だ。それは多分、目の前にある物体の究極的な逃れ得なさや痛み、(それ等は客観的な視点を得たことによってより一層激しい、)或いはそこにだけ生起する寒さというものに自らの意識が混乱して飛び込み、残された肉体がすっからかんになってしまったのだ。

 自分の身体を抜け出したものが、展示用トルソーに被さった服の内側に入り込み、その領域を画する境界に当たっては音を立て、逃れられず、その内部で詰まっている。心臓がぎゅっと苦しくなる。すると好きな服を着て突っ立っている自分よりも、自分が何とかして作り上げた不完全な展示された服の方が、自分を引き受け、語り出しているような気がして来た。僕の背後にはもう何もなかった。あるものはトルソーとそこから遊離した視界、ぼんやりとした先生の影だけだった。何もかもが、微動だにしないままぐらぐらと揺れ、その中で少しずつ落ち着いて来た意識を、完全に取り戻してしまうことを僕は拒んだ。それはもうあげたものだと思った。そうすることで僕は、あらゆるものから離れてみることがきっと出来るのだ、それを逃してはならないのだ、と。

 秘密を隠す為に生地を何枚も重ね、色んな縫い方をして、それなのにどうやっても剥き出しの、空疎な質感と痛みを伴う寒々しさ。珋衣と目の前の服が共有しているものがそれであることは今や明らかだった。自分が入っているが故の寒さを、ただトルソーに掛けられただけのこの服は既に持っている。そこに自分を預けて、もっと楽に、もっと自由になることが今の自分には出来るのではないか? ――予感を崩して眩暈が収まり、先生から奇異の眼差しを受けつつすっかり元の自分に戻ってしまった後でも、珋衣は一瞬の内に肌を掠めた考えによって殆ど動きを奪われたままでいた。

 けれどその感覚は、服飾にうまく結びつかなかった。服の中に自分の意識が詰まってゴンゴンと音を立てるイメージは恐ろしいものとして残った。同じ逃げ場がないのでも、底がない場所に沈み続けるのとあのようにあからさまに閉じ込められるのとでは全然違う。そんなところでは僕はどれだけ持ちこたえられるか分からない。そう思ったとき、鼓動が速いことに突然気が付き、何かを少しだけ愛おしく思った。

 慈しむような無力が、誰も知らない場所で脈を打っている。実のところ急に訪れるような眩暈や頭痛は夏頃から何度も経験していたことだった。制作の指針を失い、それでも殆ど全ての授業で課題は山のように出るし、休み明けからは毎日いつも以上に気を遣った服を着て学校に足を運ばなくてはいけなくなった。初めの頃それだけに悩まされていた眩暈だとか吐き気は予兆に過ぎず、秋口には身体の機能を壊した。病院に通って服薬を続けたが、それもどんどん効かなくなっていって、気温の変化や、道端で遭遇する避けられないような人々の振る舞いにも身体の内側は大きな反応を示した。頭の中の素材やアイデアは純粋さを逸し、毎日考える些細なことと一緒に、明確さと曖昧さが絶え間なく反転するような場所を漂うようになった。


                 ***


 ビニールバッグに貼り直したシールは、バッグに跡が残らないように作られたもので、一度剥がすと粘着力がかなり損なわれるようだった。いつまたそれが剥がれて、バッグの口が勝手に開かれるか分からない。珋衣はそれに手を伸ばしはせず、脚を近くに抱えたままでいる。顔を上げたら、熱はもうそこにない。異質な熱、遠く遠くまで広がっている熱。だけれど流れにつきものの、取り残された気配のようなものが微妙ながら感じられ、腿と内臓の間のその場所で、珋衣は一つの花籠を想像する。

 父親が東京本社に転勤になったとき、姉は父についていくと言い張って聞かなかった。高校二年のときだった。珋衣はまだ進学したばかりで、折角入った高校であることもあり、母親と地元に残ることになった。父は社宅を利用するのをやめ、2DKのアパートを借りることにし、姉は新しい学校に編入して、ショップ店員のアルバイトを始めた。父の職場は朝の出勤は早いが夜は長引かない。ある日の夕食後、姉はスマホでオーディションの案内を表示して父に差し出した。

「私これ、受けたいの」

 東京で暮らし始めてから娘とちゃんと会話をするようになった父だが、娘がアイドルになりたがっているなどということは予想もつかなかった。書類審査が通ったら、選考会場へは自分で向かい、必要な準備も全部一人でやるという条件で父がそれを許可した日から三か月後の午後、学校から帰った姉は郵送された合格通知を受け取った。こうして姉はたった一人でアイドルになった。

 結局珋衣も東京に来たのだが、母は家族で住んだ家を離れようと思えなかったので、地元に残って暮らすことになった。その母たっての要望により、珋衣は父と姉が住んでいるところと同じ地域に部屋を借りることになった。最寄り駅は異なるし、人が多い街だから偶然出くわすようなことはまずないが、母はそれだけで安心を得るみたいだった。でも珋衣は、例えば花籠の幻の中にしか、うまく家族の姿を見出すことが出来なかった。どうやっても自分の中に入らないもの、だからせめて少しだけ温かい場所で、じっと囲っているしかないようなもの。何一つ人と同じように感じられたことはないし、何一つ人みたいに大切に出来たことはない。でもその花籠は、自分が皮膚の裏側に描いていた、美しいものへの憧れと全く同じものだということだけは知っていた。

 一日が終わりに近付くこの時間ならば、部屋の冷え込みなど本当にどうでも良いのだけれど、あまりの寒さに肉体は耐久を保証出来ないように思われて来たし、再び垂れ下がった頭に繋がる首筋や肩は運動を続けながら痛み、円形の極地がずきずきと痛み始めて、その上に硬いミシンが降って来る夜の風景に怯えた。だが実際のところ、ミシンの上には柔らかい生地が沢山積み重なっていて、この部屋にあるどんな生地でもギリギリ覆い切れない距離の、ミシンと珋衣の間は無風、完全な静寂だった。

 何もない。少なくとも今、ミシンの前に与えられたこの地平には。そのことを確認して、珋衣は三つくらいの動作で立ち上がった。滑らかで分厚い皮膚の密度を感じつつ、机まで歩いてエアコンを入れる。


                  *


 翌日、授業後に実習室で新しい制作の続きをしている内に具合を悪くした珋衣は、作業をそこで切り上げて、電車に乗って家へ向かう内にすっかり気分が良くなり、端の席で仕切り板にもたれかかりながら家族ラインにメッセージを送った。

――今日の夜シチュー作ります。そっちの家に持って行って良い?

 姉に頼まれて父の誕生日に簡単な料理を持って行ったことはあったが、自分の作った料理を持ち出すのなんてそれ以来のことで、揃えた両脚の黒いズボンがむずむずした。メニューはそのとき着ていた真白な服を見て、何故か咄嗟に思い付いた。ルーは少し残っていた気がするが、三人分あるかは分からない。

――楽しみにしています

 偶然時間があったのか、姉からはすぐに絵文字入りの返信が来た。夕食の時間も家にいるということなのだろう。そう考えると電車が移動している感覚が急に喚び起こされ、周囲の乗客と同じように一つの身体に縮こまり、そこを経由して姉と父の家に向かう為、自分の部屋の方へ運ばれている自分がおかしくなった。この身体に溶け込んだ自分が夜になってとうとうシチューを持って登場することを、楽しみにされている。あんなに悪かった体調がもう全然良くなっていることもおかしいし、夜が更ける前の貴重な時間が突然予定され、それを自分が待ち望んでいることもおかしかった。

 気に入りの真白なトップスは料理中に汚したら大変なので別の服に着替え、珋衣は早速調理に取り掛かった。完成したらすぐに家を空けるつもりなので、節約の為低い温度でエアコンを掛けており、これで部屋に戻って来ても寒過ぎることにはならないだろうと流水で野菜を洗いながら満足する。料理をするのは時間がかかるし、外出してこなさなくてはならない面倒なことも増える。でも食材を洗ったり、切ったりするのは服を作るときの根本的な作業に少し似ていて、その瞬間にはあらゆる対立物が柔らかく可塑性のあるものになるような気がするから、珋衣はたまに料理をするのだ。

 調理の為に着替えた服の上に、クローゼットから取り出した黒地に白ストライプのジャージを羽織る。床に置かれたままのビニールバッグを一瞥して玄関に向かい、今年初めてのブーツに足を入れた。ふくらはぎの下部まですっぽりと収めてしまうと、内鍵をがちゃりと開けて外に出る。アパートの共用通路は夜の寒さに覆われており、鍵を閉めてからドアノブに触れると、人のいないところを巡る風によってじっくりと冷やされたような全表面的な感触があった。

 手頃な布を裁断して拵えた、絨毯みたいな柄の風呂敷に鍋を包んで階段を下りるが、柄の部分が飛び出しているのが不格好で笑えて来る。大きな道路に出てから寒くなって、郵便ポストの上に鍋を置きジャージのファスナーを閉める。暗い街は沢山の光によって彩られていて、珋衣はまだ温かい鍋の重量だけを通行証のように携える。

 幹線道路との交差点を直角に曲がると、濃紺に色を変えた西の空には背骨を折り曲げたような三日月が浮かんでいた。見上げる程の高さではないから、人や自転車とすれ違いながら進む珋衣の視界にずっと月が入る。思いがけず出逢った月は間もなく沈む。だが地平と月の距離は計り知れない。信号や街灯の光が整然と並び、沢山の自動車が走り去る向こうに、大きく傾く明確な輪郭が、鋭さをすら保ったまま、確かに浮かんでいる。一直線上に月が沈んでいくことが信じられず、珋衣はその遠く低い物体に全身を吸い込まれそうになるのを感じる。どれだけの密度がそこにあるだろう。どれだけの引力が、余裕が、厳格さが……。俄かに痺れた右腕から胸の前で風呂敷を引き受け、それを左手に流し、身体に接して移動する小さな重力を知覚しつつ、珋衣は陶然とそれを眺めた。前を閉じたジャージは思っていたより随分暖かく、大きな月に吸い込まれそうになりながら陶然としているには十分だった。

 通りから数百メートル入ったところにあるマンションに到着し、インターホンを鳴らすと姉の上機嫌な返事と共にガラスのスライドドアが開いた。右手で鍋の柄を掴み、左手でもう触れられる温度になった風呂敷の底を支えるように持ち直してから中に入る。七階の通路を歩き、風呂敷から離した左手で部屋のドアノブに触れたが、温度差による違和感は殆どない。玄関に入ると暖房がかなり効いていたので初めに顔面が熱風を感じた。ブーツを脱いでいると奥からやって来て、お腹と腿の上で風呂敷を支えながら両手を動かす珋衣の頭上からシチュー待ってたよ、と嬉しそうに投げかけた姉もジャージのズボンを履いていた。

 テーブルにはシチューの他にご飯とサラダと果物が並び、得をしたような気分になった。キッチンを背後に姉が座り、それに珋衣が向き合って、左側に父が座った。珋衣は何も質問したりはしなかったし、父が時折挟む問いかけにもうん、とか、まあ、とか答えるだけだったが、罪悪感は別になかった。スプーンの銀色の光沢にミシンの針を思い出すのは仕方のないことだった。見えないところで同じ床のごく近いところに二人の足があり、電車の中みたいに僅かに足元を引いてしまうのだって仕方がない。けれどやがてなくなってしまうシチューの液面は天井からの明かりを受けて綺麗な深みのある白色に輝いており、自分が作ったのじゃないみたいだった。

 食べることがもうすぐ済む、食べたものは胃に消える、とぼうっとする暖気の中で考えて、珋衣は自分が身体の中に秘密を隠していることを思い出し、するとテーブルは透き通る薄いカーテンに囲われて、手術室の光景が突然頭に浮かぶ。カーテンを無抵抗に突き抜ける六本の手が、テーブル上に存在するものに各々のメスを入れる。巨大な空間が辺りを覆う。明るさ。珋衣は陶然としたまま食器を動かす。最後に大皿のサラダが残り、大きなレタスにフォークを突き立てる。耳がカーテンを抜ける。数秒後には一切の不手際なく三人共が食事の終わりを迎え、食器が静かに手を離れる。

 洗った鍋を再び風呂敷に包み、珋衣は濃紺を歩いて帰る。大通りに出ると交通量は変わらないが、月の姿はどこにもない。しかし西に背を向けて歩を進めていると、足元から続く平面のずっと下に沈み、それでもなお浮かび続けている球体によって後ろに呼び込まれるような力を感じないではなかった。無抵抗なのは引力の方だ。珋衣は腿を周るように風呂敷を持ち替え、心なしか大股で東へ歩いた。何時間かしたら夜が打ち消され、直線の下部から今度は太陽が昇るだろう。万物が認識出来ないくらいの僅かさで浮かび上がり、その分だけ僕はこの身に詰まっていくだろう。平面は永遠に平面だろう。何よりも重いミシンで、僕はまた薄い服を作るだろう。

 埋もれたミシンは暖かい部屋に眠り、黄土色のブーツと赤い風呂敷の布はお気に入りだ。内鍵の無抵抗な金属が向きを変じることで一点を縛られた部屋の空間にジャージを脱ぎ捨て、珋衣はそこにないものの整理の為に目を閉じた。

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詰まりと浮遊 天池 @say_ware_michael

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