第3話

「これがその中心……?」

 直径1メートルはあろうかというその球体は、まるで液体でできているかのように表面が時折さざ波立つ。

「そうだよ。これを、このコンパクトに吸い込むんだ。そしたら、おしまい!」

 アリスはコンパクトを手に掲げながら、その中心に近づいていった。

 その球体は、コンパクトの接近を避けるように、大きく波打った後、ぐにゅっと凹んだ。まるで意志を持っているかのような動きに、身の毛がよだつ。

 それでも球体の大まかな位置は変化していない。手を伸ばせばその不気味な液体に手が届く位置まで、アリスは迫っていた。

「それじゃあ、おやすみね」

 アリスは一言呟くと、コンパクトを自分の腕ごと、歪んだ液体の中に突っ込んでしまった。

「ひゃっ。だ、大丈夫なの……?」

 見ているだけで気持ちが悪いけれど、アリスは何てことなさそうだ。

「ひんやりしてて、きもちーよ!」

 えええ……

 アリスが腕を差し込んだ後、歪んだ球体はすぐに萎み始めた。

 みるみるうちに、球体はバレーボールくらいの大きさになって、野球ボールくらいの大きさになって、最後には一滴残らず消えてしまった。これがコンパクトに吸い込まれるということか。

 その後、アリスは一度コンパクトを開いて中身を見ているようだったけれど、すぐに私のほうに振り返る。表情は無邪気な喜びに彩られていた。

「これでミッションコンプリート!!シラユキも、家に帰れるよ」

 その言葉を待っていたかのように、周囲の景色が歪み始める。

 ピンクと黄色のマーブル模様。

 すぐに、足元がまたプリンみたいに柔らかくなるのを感じた。

 それから、一瞬平衡感覚がなくなって。

 ふと気がつくと。

 塾から駅までの近道の途中。暗い夜道に戻ってきていた。

「帰ってこられた……?」

「そうだね、帰ってきたよ」

 アリスの服は、青色の魔法少女衣装ではなくなっている。どこか知らない学校の制服。ブレザーだ。

 自分の地味なセーラー服と見比べると、お洒落な感じがしてちょっとズルいなと思う。

「シラユキ、今日はサイナンだったね」

「うん」

 全く、本当だ。今日あったことは全くもって何が何やら。

「夜も遅いから、今日はカイサンということにしよ!」

「うん」

 お別れの雰囲気になって、言うべきことを言っていないことに気づく。

「よ、よく分からないことだらけだったけど、助けてくれて……本当にありがとう」

 怖い目にもたくさんあったけれど、無事に帰ってこられたのはアリスのおかげだ。

「いえいえ。イッパンジンを巻き込むわけにはいかないからね。それに、シラユキと仲良くなれて楽しかったよ!!」

 私が話していて楽しいタイプではないことは、自分が一番よく分かっている。

 こんなリップサービスまでしてくれるなんて、この子は良い子だ。

「それじゃあ、また明日!」

 彼女は、そう言って、駅とは反対方向へと駆けだしていった。

 私は、それに手を振って応える。

 ――え?また明日??

 追いかけて聞き返そうかと思ったけれど、ここで大事なことを思い出した。

「今何時???」

 アノマリーの中にはかなり長い時間いた気がする。電車に間に合う間に合わない以前に、もう終電の時間なんてとっくにすぎているんじゃないかな。

 慌ててリュックからスマホを取り出して確認してみると。

「あれ、時間が経ってない……?」

 スマホの時計は、塾を出る直前に見たときから、2分しか動いていなかった。

 これもまた不思議すぎる。

 でも、それなら、まだ元々乗ろうとしていた電車に間に合うはず。

 私は、駅に向かって、もう一度夜道を走り始めた。



「ただいま」

 電車にも何とか間に合って、私は無事に家に帰ることができた。

 リビングに入ると、お父さんが食器を運ぶ音が聞こえてきた。

「おかえりなさい。今日は電車一本遅かったみたいだな」

「うん、先生に質問したら、そこからおしゃべりが長くって……」

 私は洗面所で手洗いうがいをした後、一度自分の部屋で着替えて、食卓に向かう。

 テーブルの上には、ご飯、味噌汁、豚の生姜焼き、煮物。今日の夕ご飯が綺麗に並べられていた。

 もう私が配膳を手伝う余地はなさそうなので、そのまま席に座る。

 すぐにお父さんがヨーグルトとスプーンを持ってきて、私の向かい側の席についた。

 いつも、お父さんは私の帰宅に合わせて夕飯を準備してくれる。

 帰りの電車に乗るときに必ずスマホでメッセージを送るように、って言いつけられているので、そのメッセージを見て動いているんだろう。

 二人で「いただきます」と声を合わせる。

「中学生を遅くまで引き留めるなんて感心しないなぁ。お父さんが一言言っておこうか?」

「えぇぇ、いいよ…… そこまで遅くなってないんだし」

「うーん。まあそうか。……別に疑っているわけじゃないんだけど、帰りにどこか寄り道したりはしてないよな」

 ギクリ……

 寄り道と言えば、それらしきことはしたかもしれない。それも盛大な。

 でもそれは不可抗力だし、不可思なことに帰りが遅くなったこととは無関係だ。

「そ、そんなわけないじゃん」

「あはは、悪かった悪かった。白雪が真面目な子なのは、俺が一番よく知ってるって」

 お父さんは朗らかに笑う。

 今日のことを言ったら、お父さんはどんな顔をするだろうか。

 すごく心配をかけると思うから、とても言い出せなかった。

 それから夕ご飯を食べて、二人で「ごちそうさまでした」を言った後、食器を下げるのを手伝ってから、自分の部屋に戻った。

 リュックからアレを掴み上げて、ベッドにゴロンと転がる。

 手に持っているものを、天井の照明にかざした。

 例の懐中時計モドキ。コンパクトだ。

 あの子が持っていたのとほとんど同じデザインのものを、私も持っている。

 このコンパクトは、今朝起きたら、いつの間にか自分の机の上に置いてあったものだ。お父さんがくれたのかとも思ったけれど、これについて何も言わないし、きっと違うのだろう。

 不気味だったものの、何故か持ち歩かないといけない気がして、今日は一日リュックの中に入れていた。

 あそこで、あの子が似たようなものを取り出してきて、本当にビックリした。

「唯一違うのは……」

 蓋を開けてみると、中に埋め込まれているのは、灰色の細かな結晶たち。

 あの子のは、あんなに綺麗に青色に輝いていたのに、この違いは何なのだろう。

 まるで、あの子と私は違うんだと声に出して言われているようだった。

 あの子のキラキラした笑顔が脳裏を過ぎる。

「それは、私だって別に同じだとは思っていないけれど」

 私みたいな、真面目なことしか取り柄がないような地味人間からしてみたら、彼女の浮き世離れした奔放さは少し羨ましくもあった。

「白雪―!お風呂沸いたぞ~」

 私の思考を遮るように、お父さんが呼ぶ声が聞こえる。

 お風呂に入る準備をしながら。

 まあ良いや、そんなこと気にするより今日の授業の復習をしなくちゃね、なんて。お風呂を上がった後の計画に思いを馳せる私なのだった。



 翌日、私はいつも通りの日常を送っていた。

 強いて言えば少し寝不足だけれど、問題になるほどじゃない。

 さすがにあんな異常なことがあった後では、色んなことが頭を巡ってなかなか寝付けなかった。

 アノマリーって何なんだろう?とか、また明日ってどういうことなの?とか、あの子は何者なのか?とか、どうして私なのかな?とか。

 もう二度と、あんなことに巻き込まれるのは御免だ。

 何度も死ぬかと思ったし、怖かったから。

 だから、巻き込まれる理由が私のほうにあるのなら、解消したかった。

 結局、理由として思い当たるのはコンパクトくらいのもので。

 だから、昨日寝る前は、もうコンパクトを持ち歩くのはやめようと思っていたのだけれど。今朝は、何だかあれを手放すのは惜しい気がして、やっぱりリュックに入れて持ってきてしまった。

 でも、今の放課後にいたるまで、特に変なことは起こらず、いつも通りの学校生活だった。ちょうど帰りのホームルームが終わったところで、教室には弛緩した空気が漂っている。

「沙川、帰ろう」

 馴染みの声に呼ばれて振りかえった。

 クラスメイトの中で一番よく話す、中野さんだった。下の名前は、確か絢香とかそんな感じだったと思う。

「うん、ちょっと待ってて」

 私はそう言って、引き出しに畳んでしまっていたユニフォームを引っ張り出した。

「なにそれ」

「田島さんが、部活で使うユニフォームの裾がほつれたって言ってたから、さっき借りて直しちゃったんだ。今、渡してくる」

「へぇ……」

 中野さんは何か言いたげだ。

「私、お裁縫得意だしね」

 彼女の言いたいことには察しがつくので、返事を待たずに田島さんの席に向かう。

 田島さんにユニフォームを渡すと、「沙川さんすご~い。助かるよ~」と喜んでくれた。人が喜ぶことをするのはやはり気持ちが良い。

 そうして自分の席に戻ってくると、今度は隣の席の山下さんに声をかけられる。

「沙川さん。私5限目の授業寝ちゃってさ。申し訳ないんだけど、ノート貸してくれない?」

 5限目の数学は、私も少し眠くなったけれど、バッチリ板書を取ってある。

「いいよ。はい、どうぞ」

「やった!!さすが頼りになるぅ」

「いえいえ。明日の朝に、返してね」

「了解しました~」

 山下さんの敬礼ポーズに苦笑いをしながら、私は荷物をまとめた。

「中野さん、お待たせしました」

「……行こうか」

 中野さんは顎で教室の扉を指した。二人で歩き出す。

 教室を出るまでは、中野さんも我慢していたみたいだけれど。

 教室を出て扉を閉めた途端、彼女の口から言葉が堰を切る。

「何度も言ってるけど、そういうのあんまりやらないほうが良いと思うよ」

「そういうのって……?」

 分かっているけれど、とぼけてみた。

「ほつれを直すとか、すぐにノート貸すとか」

「……人助けは良いことだと思うけど」

「それはお互い助け合うから良いんだよ。あんたの場合、あんたが助けてばっかじゃん」

「私がやりたくてやってることだし……」

 そうだ。私は、たくさんの人を助けられるような人でありたいと思っている。

 だから、勉強も頑張ってるし、能力をつけて、将来は立派な仕事に就きたい。

 今の私には能力がないから、こういう細かなことくらいしかできなくて。

 それでも、何もやらないよりかは幾分もマシだと思う。

「あんたがそんなんだから、皆つけあがるんだよ。山下なんてもう完全にあんたのノートをアテにしてるでしょ」

 確かに、ノートを見せてとせがまれるのは、ほとんど毎日のことだった。

 でも、それで私が何か不利益を被っているわけではないのだから、別に問題はない。

 そもそも、中野さんに口出しされるようなことでもないと思う。

 けれど。

 ここで言い返しても、中野さんはたぶん譲らない。いつもそうだから。

「まあ、そうかもしれないけど……」

 私は言葉を濁した。

 中野さんも、こうやって言っても私がそう簡単に折れないことを、今までのやり取りで分かっているんだろう。

 不機嫌そうに、ふんっと鼻を鳴らすと、それでこの話はお終いになった。

 そこからは話題が変わって、中野さんの、先生に対する愚痴大会が始まった。

 彼女の先生への論評はユーモラスで、私も、

「もう、そんなこと言ったら怒られるよ~」

 なんて呆れながらも、ついつい笑ってしまう。

 そうやって、いつも通りの放課後を過ごしていた私たちだったけれど。

 校門までやってきたところで、下校中の生徒たちがざわざわしているのに気がついた。

 その子たちの話し声に耳を傾ければ。

「見てあの子、お人形さんみたい!」

「うちの生徒を待ってるのかな?」

「お前ちょっと声かけてこいよ」

「えー、いやだよ」

 なんて聞こえてくる。

 どうやら、うちの生徒ではない誰かが校門の前に立っているらしい。

 ずいぶんと注目を集めているようだ。

 別に興味はないんだけれど、でも。

 こんなに騒ぎになっているなら少しその人物を見てみたくなるのが人情だ。

 人を掻き分けて校門から出るついでに、渦中のその人を少し見遣る。

 はたして。

 そこにいたのは金髪を風になびかせる白磁の美少女だった。

 どこかの学校のブレザーを着ていて。

 その姿は、私にとても既視感を抱かせる。というか。

 校門で誰かを待っているらしい人物とは、正にアリスだった。

 視線を感じたのか、アリスの視線が動いて、私とぶつかる。

 瞬間、彼女の顔は一気に華やいだ。

「シラユキ見つけたーー!」

 びしっと効果音が聞こえそうなくらいのキレの良さで、私を指さすアリス。

 今度は、私が注目を浴びる番だった。

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