5

 あれから数ヶ月。

 夏休みも過ぎ、私もここでの生活を無意識に行えるようになってきた。

 ここの生徒は夏休みの間も帰省しない人が多い、というより余程の用事でないとここの門を出ること自体がないようだ。

 たしかに、この中では、それだけで完全に独立した生活圏を形作っている。

 外の世界では義肢を着けているだけで色々と面倒になるし、何より人の目が煩い。

 この中では、そんなこと意識の遡上にすら上がらないのに。

 何となく、枝園が私に「まだ外の価値観が強い」と言った理由が解るような気がしてきた。

 私は、外の煩わしい人々同様、外見上の違和感だけで人々の価値を判断し、それを自分自身にも反映させていたようだ。

 しかし、そうしてみると、今度は「内の価値観」が私のなかでもたげてくる。

 義足を着けているのは良いが、それは本当に私の内なる「生命の泉」を反映したものだろうか?

 そもそも、この脚は事故で偶然失ったものであり、しかもそれは「外の価値観」に基づいた手術によるものである。

 そうではなく、もっと自分の内側にある、ヤルダバオートにも穢されない、ロゴスをたたえた「生命の霊」を顕したものにすべきなのではないか?

 あるいは、そもそも偶然に任せた箇所ではなく、もっと別の頼れる誰か、もっと私の「生命の泉」と呼応する、深淵を共にできる誰かに選んでもらった方がいいのではないか?



——つまり、誰かと「契」を結ぶべきなのではないか——?


 急に、これまで見てきた「対」達が羨ましくなってきた。

 なぜ、私には「対」がいないのだろう?

 互いの神性を認め合った者同士の、あの楽しそうな笑顔。

 ただ一緒に花を見るだけで、一緒に噴水のしぶきが当たるだけで、一緒にベンチにすわるだけで、ただ回廊ですれ違うだけで——

 ああ、あんなにも楽しそうなのに。

 お互いの義肢に触れ、それを愛で合う。

 互いの霊性が感応し、震え合う。

 外の世界では何とも思えなかった、寧ろ肉の欲に溺れ、強欲と嫉妬に高慢をまぶしてカネに変えることに拘泥した浅ましさばかりに見えた人々のつがいが、内の世界ではこんなにも純潔に輝き、知恵と愛に正義をそえて霊性を高め合う高潔な「対」になるだなんて。


 胸の中に次々と去来するロゴスと自然フュシスが綯い交ぜになった波。

 既に西に大きく傾き、朱色に世界を染めつつ陽の下で、ゴシック風の建物に囲まれ、そんな事を考えていると、図書館から出てきた枝園が私を見付、列柱の回廊沿いに近づいてきた。


 橙に変わりゆく世界の中では枝園の濃紺の髪は、黒よりも尚黒く、幾層にも重なった漆黒に見え、控えめなヘアピンの飾り反射が黒真珠のような印象を与えていた。

 風に靡く、歪んだ黒真珠バロック・ノワール


 枝園は、私の隣に来る。

「ごきげんよう、場路さん」

「ごきげんよう、枝園さん」

 お互い、目線を合わせるでもなく、挨拶を交わす。


 そういえば、枝園は、なぜ誰とも「契」を交わしていないのだろう?

 物の捉え方にこそ独特なところはあるが、学業、スポーツ、文化活動など学院生活では全て優秀で、寧ろ周囲と馴染めないのも物事を多面的に捉えてしまえるその優秀さのせいだ。


「枝園さんは、どうして「対の契」を交わさないの?」

 枝園の雰囲気のせいか、彼女がそばにいると油断してしまい、ついそのまま口に出してしまった。

「今日は、ストレートでいらしてね」

 枝園は笑顔で、本当に心から嬉しそうに返してくれる。

「失敬頂戴しました」

「大丈夫。ボクは『変わり者』だからね」

 「契」のをあけすけに訊くのは、この中でもずいぶんと不躾なことなのだが、枝園は寧ろ喜んでいるように見えた。


「みんな、それを疑問に思っていらしてるのに、それをボクにぶつけるのは避けていらっしゃる」

 二人の視線は相変わらず噴水に向いたままだ。

「でも、本当はそれを突き詰めることが、本当にロゴスに適うことなのに、ね」


 遠くで雷鳴が轟く。


「ボクはね、委員長がおっしゃったように『多くを求め過ぎて』しまうんだ。それはつまり、『契』の相手の『全て』を欲しがってしまうんだよ。これは本当に強欲なことだね」

「全て?」

 彼女の前では私も全て口に出してしまう。

「そう、『全て』。手足はおろか、意識も感覚も『全て』融け合い混じり合いたい。でも、交換できる部位は『一つ』だけ」

「うん」

「だから、ボクは、相手の心臓を欲しがってしまうんだ」

「え?」

 思わず枝園のほうを向くと、そこには彼女の深い、深淵のような瞳が夕陽に輝きこちらを向いていた。

 胸が——高鳴る——

 長い睫毛、磁器のような肌、桜色の唇——


「私も……」

 何でも、口から出てしまう。


 鐘の音。

 晩鐘には早い。

 いつもと違う、悲しげな音。


「ああ……『追悼の鐘』か……」

 枝園が呟く。


 追悼の鐘?


「どなたか『対』を解消されたの」


 解消?

 そんなことが?


「解消すると、礼拝堂の前で互いの部位を返還することになる」

 枝園の言葉は端的であった。

 礼拝堂の前に目を移すと、そこには委員長と朋子がいた。

「「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」」

 二人とも、俯き、謝罪の言葉を口にする。

 周囲は葬儀のような静けさになる。


 雷光。


 白い世界の中、全てが影法師になる。


 その光の中、委員長と朋子は互いに互いの片目に手をかける。


 雷鳴。


 互いの片目の中に指を入れていく。

 互いの義眼を取出し合う。

 互いに血の涙を流して。

 互いに互いの眼球のホルマリン漬けのビンを相手に差出す。



「「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」」

 ホルマリン漬けの眼球の虹彩は互いに向き合い、視神経が絡み合たように見えた。


 雨粒。

 夕立。


 人々は屋根の下に逃げ、血の涙も流されて行く。

 ただ、二人を残して。


 雷鳴と鐘の音が重なる。


「どうして解消なんか……?」

 回廊下に逃げた私は思わず枝園に質問する。

「それは、ボクには解り得ない」

 濡れた夏服をハンカチで拭きつつ、彼女は応える。

「ところで……」

 枝園の濡れた髪の間から、潤んだ瞳が私を捕らえる。


「ボクは、場路さん、いえ、愛音さん、貴女と『契』たいな……」


「え?」

 その言葉は唐突で、雷光に紛れてしまった。

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