猫又と男

 チリン…


 今日もまたが来た。

 奴は自分が来たことを俺に報せるように首にぶら下げた鈴を一度だけ鳴らし、俺が部屋の窓を開けるのを待っている。

 奴とは半年前に出会った。

 半年前、俺がこの風呂なしアパートに引っ越したその日から週二回、日曜日と水曜日の午後九時になると必ず奴は現れる。

 初めての独り暮らしで不安と寂しさがあった俺は当初、奴が来たことが嬉しかった。だが、今となっては奴は厄介者でしかない。

 奴がいる限り俺はこのボロアパートから抜け出せない気がする。

 親からの仕送りを断り、バイトを掛け持ちしながらの俺の生活は苦しい。精神的には充実しているが、金銭面が苦しい。一言で言えば俺は赤貧だ。

 そんな赤貧な俺に対して奴は週二回、晩飯と明けの朝飯を要求してくる。

 奴も初めは朝飯を要求することはなく、晩飯に関しても俺の好意に頼っていたのかも知れない。しかし、一ヶ月ほど経った頃から奴は本性を現した。それ以来、奴の行いは要求でも懇願でもなくなり、無理強いとなった。

 奴は五ヶ月間、赤貧な俺に週四食の無料ただ飯を強いているのだ。ただでさえ苦しい俺の金銭事情を奴は全く考えていない。

 奴は正真正銘のロクデナシ…いや、だ。


 チリンチリン…


 俺が鈴の音に気づかないふりをしていると、奴は催促するように二度続けて首にぶら下げた鈴を鳴らした。

 奴の首にぶら下がるその鈴は純金製で中にはダイアモンドの粒が入れられている。

 五百玉よりもやや小さいくらいの直径があるその丸い鈴は、恐らくそれだけで数十万から数百万の価値があるだろう…そんなものをぶら下げた奴が赤貧の俺に無料ただ飯を寄越すことを強いる。

 不条理にも思えるが、俺はそれに逆らうことなど出来ない。なぜなら奴は…


「ニャウン」


 奴が鳴いた。

 そう、奴は猫なのだ。ただ、奴は普通の猫ではない。

 奴はなのだ。


 チリン!

 チリンチリン!


 鳴き声を合図にして奴の鳴らす鈴の音は大きくなった。

 これ以上は誤魔化せない。無視をし続けた結果がどうなるかわからない以上、窓を開ける以外の選択肢はない。

 俺はカーテンの裏に手を入れて窓の鍵を開けると、丁度猫一匹が通れる程度の隙間を作った。

 途端に奴はスルリと部屋へ入ってきた。


「ニャウン………っと、もう室内じゃから人語を話してもよいじゃろう」


 俺が開けた窓の隙間から入ってきた奴は猫の声で一鳴きした後、すぐに流暢な日本語で話し始めた。

 奴は猫だが日本語を話せる。


「はっ!…さて、あるじよ。部屋に居たのならばなぜわらわが最初に鈴を鳴らしてからすぐに窓を開けなかったのじゃ?その返答次第ではわらわにも考えがあるぞ?」


 奴が気合を入れると奴の姿は毛並みのいいフサフサの毛を纏う灰色の可愛い猫から、艶のある銀色の長い髪を持つ美しい人間の女性の姿になった。そして、奴はその姿で高圧的な態度をとって俺に迫った。

 奴はいわゆる猫又ねこまただ。

 猫は、人間のこよみで二十年以上生きると猫又と呼ばれる存在に変化るとされ、奴は猫として二十六年間生きた年の誕生日に猫又なったらしい。

 それ以来、奴は猫又として猫と人の姿を任意に変化かえられるようになったという…更に、奴は猫又に変化った瞬間から不老不死の肉体を手に入れたらしく、猫又になってから十三年を生きている。

 この十三年とは、人の暦ではなく、猫又としての暦らしい。真実かどうかは定かではないが、猫又としての暦は人の凡そ二十倍長いらしく、単純計算で二百六十年になる。つまり、奴は人の暦に換算すると、猫として二十六年、猫又として二百六十年、合計二百八十六年程度は生きていることになる。

 要するに奴は二百八十六歳のだ。

 目の前にいる奴の人としての姿がどんなに美しくとも、奴は猫でも人でもない。

 そう、奴は人ではないのだ。


「あ…いや、ごめん。少しぼうっとしていたから気がつかなかった。…それより早く服を着てくれないか。目のやり場に困る」


 奴は今、猫の姿で出歩いていた時の全裸の状態ままだった。その肉体は美しく、豊満であると共に筋肉質で均整が取れていた。

 俺はこの瞬間が苦手だった。

 女性に免疫がないわけではない。ただ、奴は美し過ぎる。

 テレビなどのメディアが頻繁に言っている何々過ぎるなどというではなく、奴は本当に過ぎているのだ。

 それも当たり前だ。奴はそもそも人ではないのだから人知を越えた、部分があったとしてもおかしくない。


「ニャハハハ。あるじよ、別によいではないか。ヌシとておとこであろう。雄である以上は女体が嫌いなわけであるまい?それとも部屋に裸の女がいては三月みつき前に出来た例の最愛の彼女とやらに示しがつかぬか?」


 奴はその肉体を隠そうともせず、俺に見せつけるようにして両手を胸の下で組んだ。

 奴の言う通り、俺には三ヶ月前に彼女が出来た。しかし、その一方で俺は、『何もしていない』とは言え人知を越えて美しい人間の女性の姿をした奴と週二回、夜から朝方にかけて同居している。それも、奴が猫又としての本性を現してからの五ヶ月間ずっとだ。

 このことが俺が奴に逆らえない理由だった。




 チリン…


 鈴の音がした。

 その音は、二年前まで俺が暮らしていたあのアパートで耳にしていた奴の首にぶら下がる鈴の音に似ていた。

 俺はあのアパートで一年間過ごし、その後は日本を発って戦場を駆けるフリーのカメラマンとして生きてきた。

 日本から遥か遠くの異国で、あの鈴の音が確かに聞こえた。


 


 俺は悟った。

 そして、声も出せない状態ままで俺は奴に向けて心の声を発した。


(頼む…この声が届いているなら俺の願いを聞いてくれ…)


 奴は俺の心の声に答えなかった。


 チリン…


 鈴の音がした。

 その鈴の音こそが奴の返事だと感じた俺は奴に願った。


(日本に置いてきたあの子に今までありがとうと伝えてほしい…)


 チリン…


 奴は鈴の音で応えた。

 その鈴の音は少しだけ悲しかった。


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