3

「最近どう?」


「…ああ…まあ、それなりです…」


 俺が指定された待ち合わせ場所に向かうとそこには男が立っていた。不愛想なその男に連れてこられ、今は雑居ビルの一角の狭い応接室のソファに奴原と向かい合わせで座っている。


 細身の奴賀はソファに足を組んで眼鏡越しにこちらを眺めている。口元には一体何が面白いのか、得体の知れない笑みが常に張り付いている。


 手足が冷える。いつもそうだ。この男の前にいると訳も分からず萎縮してしまう自分がいる。


「それで藤生にちょっとお願いしたいんだけどさー」


 奴賀は手元の煙草を吸って眉間を歪ませながら煙を吐き出すとちょっとそこのコンビニまで買い物を頼むような、そんな気軽さで言い放った。


「とある人を殺して欲しいんだよね」


 心臓に冷たい注射を打ち込まれたみたいな気分だった。


「え…?」


「藤生が前にやった殺しさ、サツにリークされたくなかったら黙ってやってよ…いいでしょ?」


「でも…俺はもう…人殺しは…」


 頭の辺りに衝撃があり、視界が反転した。頬が熱い。俺は混乱した。


 ようやく横にいた男に殴られたということが分かった。込み上げる吐き気と憎悪に感情があっという間にぐちゃぐちゃになる。


 奴賀は表情一つ変えずにこちらを見下ろして言った。


「…はは、薬漬けのクズが何怖気づいてんだよ?今更捨てるもんなんてなんにもねえだろてめえ?ホラこれやるよ。お前好きだろ?」


 そう言って俺の目の前に小さなビニール包みがポトンと落とされる。エクスタシーの錠剤が入った袋だった。


 畜生。クソチンピラが。罵倒を奥歯でかみ殺すとどこまでもさめざめとした自棄的な諦観が血の味と共に腔内から全身へと広がっていく。


 いつもこうだ。初めから選択肢なんか渡されちゃいない。俺には。いつも。


 奴賀は冷たく圧の籠った視線で睥睨してきた。臓腑から震えが込み上げてくる。


 ビニール袋を受け取ろうとしないことを見かねたのか、奴賀はゆっくりと屈んでそれを拾うと、俺の胸ポケットに慇懃な手つきで入れた。目も合わせられない俺のことを奴賀は愉快そうに鼻で笑った。


 奴賀は俺の胸倉を掴むと俺の瞳の奥を覗いてきた。


「…なあ、分かってるよな?」


 俺の頬に煙草が押し付けられた。


 灼ける激痛に俺は悲鳴を上げた、たぶん。そのあと奴賀になんと言われたか、自分がなんて答えたのかはよく覚えていない。


 俺は暗澹たる思いでふらふらと事務所を後にした。


 新宿中央公園の水道で顔に煙草を押し付けられた痕をどうにか消そうと躍起になっていた。麻薙には、知られたくなかった。


“分かってるよな?”


 奴賀の愉悦に塗れた表情が頭からこびりついて離れない。脳の奥が憎悪で焼ききれそうだった。


 だが確かに俺は分かっている。理解している。俺には選択肢がないという事実を。


 そんなことを取り留めもなく考えていると水は首を伝ってあっという間にシャツごと水浸しになった。


「あっ……」


 完全な不注意だった。慌てて胸のポケットを探るとエクスタシーの錠剤も水浸しになっていた。


「ああっ……ああ……ああ……」


 奴にもらったこんな錠剤なんてどうだっていいはずだ。だが反射なのか何なのか、感情が真っ黒に染まっていくのを止めることはできなかった。


「あっ…あああああああああああああああああ……あああああ……」


 俺の喉から堰を切ったように呻き声が漏れ出てきた。うめき声は嗚咽に変わり、俺はしばらくその場で涙を流した。


 世間からの遠巻きの視線を感じながら俺の脳内はMDMA抜きでは余りに醒めすぎていてどこまでも惨めだった。この世界は遍くクソだ。

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