第三章
私には
「あら、来たの?」
井上はひばりの家からその足で千尋の家に行った。
「今日旦那さんいないって言っていたから。いい?」
千尋は微笑んで井上を家に入れる。そして二人はリビングに向かう。
「何か飲む?」
「うん、ありがとう」
井上はソファーに腰を下ろし千尋が来るのを待った。
「あの事旦那に話したの」
千尋は井上に紅茶を出し隣に腰かけながら言った。
「あの事?」
紅茶を啜り井上は聞き返す。
「養子の話」
井上はピタリと動作を止めた。
「なんて言ってた?」
「考えておくって」
「そう」
井上の動揺は幸いにも千尋には伝わっていない。
「俺思うんだ」
ティーカップを置いて井上は千尋の方を向く。千尋は何も言わず井上をじっと見つめていた。
「旦那さんは、異常だって」
「異常?」
千尋は聞き間違えかと思い聞き返した。
「そう、異常」
自分の耳は正しかったと思うと共に、千尋の脳内には家にいる時の誠の様子が映し出された。
「確かにあの人は仕事人間で、堅物だけど......」
「千尋のこと、全然大事にしてない。それにきっと――」
井上は言葉を詰まらせた。
「なに? ちゃんと話して。」
千尋は井上の顔を覗き込み言った。
「家族を大事に思っていなかったと思う。本当に酷い人だ」
井上はごめん、と呟いた。
ふぅっと千尋はため息をついて、井上の背中に触れる。
「いいのよ。あの人のことは私が一番よく分かっているから。貴方の言うとおりだわ」
妻として自分は苦労してきた、そんな意味合いを持つ苦笑を千尋は浮かべる。
「俺は旦那さんが嫌いだ、なんだか気に入らない」
「なに? 嫉妬しているの?」
フフッと千尋は声を漏らした。
「確かに、それもあるけど。やっぱり何故か嫌いなんだ。理由はあるはずなんだけど、明確じゃない」
千尋はキョトンとして井上をじっと見つめる。
「そう……。でもあの人は良く稼いでくるし、その面では困らないわ」
「そうだね」
井上は千尋の肩もとに頭をくっつけた。その頭を千尋は優しく撫でる。
「もう今更、貴方を母親とは思えない」
――自分には貴方に従う義務はない。
都合よく言い換えられた言葉は狙い通り千尋の元に届く。
「私も、息子なんて思ってないわ」
どちらともなく唇が重なり、二人の交わりが始まる。その様子が誰かに見られているとも、二人は知らずに。
「おかえりなさい」
疲弊した顔で千尋は誠に言った。
「ああ」
数時間前までは井上がいたソファーに誠は腰かける。
「ご飯にしますか?」
「いや、外で済ませた」
ネクタイを緩め誠はため息をついた。
「分かりました」
千尋の脳内は、井上が言っていた誠の悪口でいっぱいだった。その証拠に誠の背中を千尋は酷い形相で睨んでいる。
「そういえば、この間の話だが」
誠は立ち上がり千尋の方へ振り返った。
「井上春樹、とかいう奴はやめておいた方がよさそうだぞ」
「え?」
誠はカバンから数枚の紙を取り出した。
「調べてもらった」
千尋がそれを受け取り目を通すと、その紙には井上春樹について調べ上げられた内容が書いてあった。
「素行も成績も家柄も別に良いわけじゃない。特に見どころはなし、だ」
誠の言い方に苛立った千尋は、その紙を誠に突き返す。
「こんなもの、表面上しか見てないじゃない」
「お前だってこの男の表面しか見てないんじゃないのか?」
「そんなことないわ」
「ほぉ?随分深い仲なんだな」
誠は眉を吊り上げて千尋を見た。千尋は唇を噛み締め誠を睨む。
「別に、そんなことないわ。ただ聡と仲がよかったから」
「だから不安なんだろう」
千尋の言葉に被せて誠は言った。
「出来損ないの息子を跡継ぎにしなくてよくなったのに、また出来損ないの息子に似た奴を跡継ぎにする意味が分からない」
誠の言葉に千尋は驚いて、上手く言葉を発することが出来なかった。
「な、何言っているの?」
「お前が出来損ないに育てたと言っているんだ。出来損ないしかひきつけないお前に、私は呆れているんだ」
怒りを超え、憎しみを飲み込み最大の義憤が千尋の胸中に広がる。
「とにかくこの話はなしだ」
紙をごみ箱に捨て、誠は荷物を持った。そして何も言わずに二階の自室へと向かう。
「あんなに努力してきたのに――!」
怒りで千尋は震え、奥歯を噛み締めた。力
みすぎて眼が飛び出すのではないかと思うほど形相は崩れ、千尋は憎しみを力に変えていた。
「許せない!」
――家族を大事に思っていなかったと思う。本当に酷い人だ。
井上の言葉を千尋は思い出す。
「最低よ、あんな人に私は尽くしてきたんだわ」
拳を握り自分の太ももを叩き、必死に叫び声を抑える千尋。唇を噛み締め、それでも抑えきれなかった千尋の力は、机の上に乗っていた花瓶を地面に叩きつけた。
――千尋のこと、全然大事にしてない。それにきっと……。
「私のことなんて、愛していない――?」
千尋は床にへなへなと力なく座り込み、自分の身体を抱きしめた。
――俺は旦那さんが嫌いだ、なんだか気に入らない。
「もういや……。私、我慢できない――。」
床に向かって発せられたその言葉は、吸収されてこの家を腐らせる。そして微かに残っていた千尋の胸中の期待を、一気に腐敗させた。
「春樹……、春樹……」
千尋の脳裏に浮かぶ、自分の味方をしてくれる井上の笑顔を求めるかのように、千尋は顔を上げて辺りを見渡す。
「春樹……。そう、私には、春樹がいる」
迷いなど捨て立ち上がった千尋は、何も持たずに躊躇なく家を飛び出した。
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