共依存
千尋と井上の関係は、誠の目を忍びながらも続いた。誠が家を空ける時千尋は井上を家に招き、二人は何度も体を重ねる。寂しさは免れているはずなのに、千尋から漂う哀愁はいつまでもこげ茶色に色付いたままだった。
わが子を亡くし、そのわが子とほぼ同じ年齢の男と体の関係を持ってしまったことを後悔しているようにも思えた。
千尋を都合の良い女として見ていなかった井上は、次第に千尋の異常さに気が付き始める。
「春樹は何故大学を辞めたの?」
事後の布団の中で千尋は井上にそんな問いをした。チクリと胸の痛みを覚えながらも、井上は素知らぬ顔でタバコを吸い灰色の煙を吐き出す。
「色々あったんだ」
それ以上、井上は千尋に話しをしようとはしない。きっと千尋はいつものように優しく「大変だったね」と言ってくれるだろうと井上は思い込んでいた。
「大学辞めて一体何ができるって言うの?」
しかし千尋から出た言葉そんな冷淡で無知な言葉であった。
「え?」
「この世の中、大学に出ていなくては使い物になんかならないじゃない」
千尋は少しの躊躇もなくそんなことを言っていた。
「大学が全てじゃない」
気を悪くした井上は荒々しく言葉を吐いた。
「全てに決まっているじゃない。大学出なきゃなんの仕事するの?」
「資格が要らない仕事? 例えば、アパレルとか?」
千尋は唖然としたのち、大きな声で笑いだした。井上を馬鹿にした千尋の態度はあからさまで、井上は自分と千尋の価値観の違いを見出してしまった。
「アパレルなんて馬鹿がする仕事じゃない」
優しいと思っていた千尋の口から飛び出したその言葉に、井上は驚き過ぎて言葉も出なかった。
「人間として落ちぶれすぎよ、そんなの。下品で自堕落でお粗末な人たちがやる仕事よ。貴方には合わないわ」
未だに千尋は井上を馬鹿にしてクスクスと笑っていた。
「お金なら出してあげるから、大学に行きなさい」
千尋はそう言って井上の肩にキスをする。
「勿論、出世払いしてもらうからね」
千尋は井上に密着して目を閉じた。
自分の偏見を押し付け拒否権を与えず見返りを求める、そんな親の元で育ったから早川は陰険な雰囲気を持っていたのだ。井上は初めて千尋という人間の恐ろしさ垣間見て、手を出してはいけない人に手を出してしまったんだとようやく気が付いた。しかし離れるには手遅れであるほど、千尋は井上を気に入っていた。
千尋から距離を取るため千尋の家に行く回数を減らした井上は、一日中千尋からの電話の音に苦しめられた。出会ったばかりの時、住所を教えてしまったばかりに家にまで手紙をよこし、千尋本人が家に乗り込んで来ることもあった。
「旦那なんて気にせず家に来て」
井上が自分と距離をとりたがっているなんて想像すらしていない千尋は、そんな言葉を悠々と言っていた。
距離を取ることはなんの効力も待たないとわかった井上は、何とか千尋との関係を終わらせようと試行錯誤した。そうこうしているうちに、千尋の元に一通の手紙が届く。
それは早川から千尋に送った遺書ということになっている、ひばりが千尋に送った手紙だった。その内容を涙ながらに語る千尋から聞いた井上は、真実がばれないか恐れるあまり更に千尋の元を去ることが出来なくなった。
遺書に書かれた女を見つけ出したいと暴れる千尋を必死に抑え、自分がその役割を担うと誓う井上。
「千尋、落ち着いて。相手の女を俺は知らないけどきっと凶悪な奴だ。安易に接近してはいけない」
会う度に鬱憤を言語化し自分にぶつけてくる千尋を、井上は強く抱きしめる。けれどそれは包容などではなく、臭い物に蓋をして暴れ馬を抑え込む、優しさなんて存在しない行為だった。
「嫌よ、私の子を苦しめて自分の容姿で相手をたぶらかすなんて最低!」
子を想う母として、ではなく美しいと称されたひばりに対しての嫉妬心が千尋をそうさせているように見えた。
「俺がその女を探してくるよ」
「この間もそう言って何の成果もなしじゃない!探し出す気がないんでしょ? いい加減にしないさいよ!」
ヒステリックになった千尋は何を言っても聞かない。落ち着くのを待って機嫌を取るしか井上には術がなかった。
「ごめんね、怒っちゃって」
苛立ちが収まり落ち着くと千尋は必ずそう言う。千尋の機嫌を取ることに疲れ果てた井上は、それに対し怒る気力も残っていない。
「いいんだよ」
そう言って千尋の身体を抱きしめる。そんな日々を過ごし、次第に二人の関係は共依存と陥る。
毎日毎日、千尋が真実を知るのではないかと恐れる井上と、自分の息子を苦しめた女への恨みを増大させていく千尋。
時が経つにつれ千尋から離れるためではなく、自分の罪を知られることを避けるために井上は行動し、何とか千尋の意識を復讐ではなく恋心に向けさせたいと企て、日々千尋に接していた。
そんな井上の努力の甲斐もあり、千尋は段々と早川のことを忘れ始めたように見えた。しかし井上が安堵したのはほんの束の間だった。
「ねぇ、春樹」
「どうしたの?」
誠が家に居ない間、間男としてのうのうと過ごしていた井上に千尋は言った。
「貴方、家の養子にならない?」
「え?」
思いがけない千尋の提案に井上は虫唾の走る思いをした。
「私と貴方の関係は当然旦那に隠して、貴方を大学に行かせるの。貴方さえ頑張れば旦那に貴方が認められて、跡継ぎになれるかもしれない」
目を輝かせて千尋は話すが、井上はその千尋の言葉に震えあがる。千尋の言葉は、自分に一生言う事を聞く人形になれと言うことであり、真実が知られることを恐れて千尋と一緒に居るだけの井上には肩の荷が重すぎた。
「旦那さんが俺のことを気に入ってくれるとは思えない」
井上は千尋から目を逸らし拒否する姿勢を見せた。
「あら、大丈夫よ。今夜旦那に話してみるわ」
井上は上着を着て、返事をしない。
「帰るの?」
「うん」
リビングの出口に向かう井上の背中に千尋は抱き着く。
「大丈夫よ、心配しないで。私が上手くやるから」
井上は真正面にあるドアの鏡に映った自分の情けない顔を見た。未だに消えない恐怖心が沸々と湧き上がり、井上は自分の未来を案じた。
「分かっているよ」
井上は振り返り、千尋の唇に一つキスを落とす。
「またね」
そう言って井上は家を後にした。
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