死人に口なし

「よく来てくださいました」


 千尋は早川の仏壇の前に、聡の友人だったと名乗る男を案内した。


「失礼します」


 その男は喪服を身にまとい、仏前の座布団に腰かける。そしてりんという仏具でチーンと一回音を鳴らし、顔の前で手を合わせた。 


 一分ほど男は黙祷し、顔を持ち上げ仏壇をまじまじと見た。漆の光沢が美しく、生前の早川の覇気のなさが忘れ去られるほど、その仏壇は堂々たるものだった。


「ありがとうございます。聡もきっと喜んでくれているでしょう。貴方は?」

「井上春樹と言います」


 そう言って深々と頭を下げたのは、ひばりに騙され早川を死に追いやった井上だった。 


 勿論その事実を千尋は知らない。


「井上さん、ですか」

「僕はサークルの先輩で、生前仲良くさせていただいていました」


 井上がこの早川家に来た理由は他でもない。自分が早川を死に追いやったことが早川の両親に知られていないか調べるためであった。幸い千尋はそんな事実を知らない。罪悪感で心を痛めながらも、井上はほっとした。


「そうだったの。あの子、学校のことは何も話さないから」


 千尋は悲しい笑みを浮かべ、井上をリビングに案内する。


「僕はこれで.......」


 一安心した井上がもうこの家に留まる理由はない。井上は千尋の勧めを断ろうと後頭部を掻いた。


「そんな、せっかく来てくれたのに......」


 千尋は井上を引き留めようと椅子を引いた。


「ケーキもあるの、紅茶と一緒に食べたらきっとおいしいわ」

「でも、悪いです」

「お願い」


 千尋は井上の服の袖をぎゅっと掴んだ。旦那にも相手にされず、友人もいない千尋にとって今日のような来訪は願ってもいない出来事だった。千尋の上目遣いに、自分の母親と同じぐらいの年齢にも関わらず、可愛らしさとエロティックな寂しさを見出した井上は、出口の方に向けていたつま先を千尋の方へ向ける。


「少しだけですよ」


 井上のその言葉に、パッと表情を明るくした千尋。


「今紅茶淹れて来るわね」


 千尋は嬉しそうに両手を合わせて、パタパタと台所へと向かっていく。自分が殺めたも同然の人間に手を合わせ、その生みの親に歓迎されお茶を出される気分はいかがなものか。井上は椅子に座り、仏壇があった部屋の扉をまじまじと見た。


「死人に口なし、か」


 井上はか細い声で呟き、紅茶を淹れケーキを皿に乗せそれらを台に載せて持って来た満面の笑みの千尋に笑みを返す。


「ショートケーキとチョコレートケーキ、どちらが良い?」


「僕はどちらでも。お好きな方をどうぞ」


 千尋は机の上に紅茶を置きながら少し考えた後、チョコレートケーキを井上の前に置いた。


「苺がお好きなのですか?」


 椅子に腰かける千尋に、井上は聞いた。


「今日は、苺の気分なの。チョコも好きよ」

「僕も好きです」


 ピタッと千尋は動きを止めて、顔だけ井上の方を見上げる。好き、という言葉の響きに千尋は心をときめかせたのだ。今は亡き自分の息子と一歳しか変わらない男、少し見てくれがいいだけの男のはずなのに、夫に相手にされない哀れな熟女はたったそれだけで心を奪われそうになる。


 そんな千尋の弱さを、女を読み解くことに慣れている井上は察知した。


「どうか、しましたか?」


 井上は白々しく千尋の顔を覗き込む。


「い、いいえ」


 パッと井上から顔を背けた千尋を舐めるように見つめる井上。


「旦那さんは、何時ごろお帰りに?」


 ケーキの透明なフィルムをはがしながら井上は聞いた。


「一昨日から出張でアメリカに」


 一口紅茶を飲み、喉の渇きを潤す千尋。


「アメリカですか。そう言えば聡は御曹司だと噂で聞いたことがあります」


 いただきます、と両手を合わせて呟いた後井上はチョコレートケーキを一口、口に運ぶ。


「そうねぇ」


 千尋は広いリビングを見渡した。


「御曹司、まさにその通りだわ」


 井上は静かに千尋の話を聞いている。


「でも、この家には愛がない。あったのは見栄とプライド」


 情けないわね、千尋は呟いてまた紅茶を啜る。


「見栄と、プライド、ですか?」


 カチャッと控えめな音を立てて千尋はテーカップを机に置いた。意味ありげな微笑を掲げ目を逸らす千尋の、一瞬だけ向けた自分への熱い視線を井上は決して見逃すことはない。


「ええ。まぁそんなもの何の価値もないの。だって今私、一人ぼっちだし」


 年齢が皺となって刻まれ現れた手の甲を、千尋は撫でる。


「俺がいますよ」


 井上は躊躇なく千尋の手を取り、ぎゅっと握る。井上の表情を伺い、千尋は眉をハの字に動かした。


「何言っているの」


 千尋は井上から感じた情欲が自分に向けられていると察していながら、冗談だと自分に言い聞かせた。


 こんな若い男が自分なんかを――。そう思わなければいけないような気がしていたのだ。


「俺じゃダメですか。俺じゃ、貴方の寂しさを埋められない?」


 ここでどんな返答が帰ってきても自分には不利益がない、井上はきっとそんな軽薄な考えを持って千尋を口説いていた。それはあまりにも千尋の闇の深さを知らなかったからこそ犯せた過ちだった。


「そんなことないわ、そんなことは......」


 世間を知らずで押しに弱い千尋は、井上の言葉にノーとは言えない。井上は千尋の手をパッと離し、椅子から立ち上がった。そして向かいに座る千尋の元に行き、背後から千尋を抱きしめる。


「な、なにするの......?」


 井上を止める気のないその千尋の言葉は、すぐに井上の唇で塞がれた。井上は千尋の頬を親指で撫でる。


「好きです、奥さん」


 久しぶりの人との熱い交わりに、千尋は拒む気力も正常な判断を下す能力も失う。ただ井上からの熱烈なアプローチに心地よく流されるだけだった。


「奥さんなんて、言わないで」


 額を当て、数センチの距離で千尋は呟いた。


「なんて呼んで欲しい?」


 思惑通りことが進み、すっかり気を良くした井上は千尋を立ち上がらせ机の横にあったソファーに押し倒した。


「千尋って呼んで」


 覆いかぶさる井上の背中を千尋が撫でた瞬間、事の始まりを知らせるゴングが井上の脳内に響き渡る。


「千尋、大好きだよ」


 まるで昼ドラのような出来事、けれど見てられない程醜悪な関係は、ここで築かれお互いを鎖で繋ぐ。井上にとっては、いい拾い物をしたぐらいだったかもしれない。しかしこの二人の関係が後に起こる展開のトリガーとなる。


 相手にされない寂しい女の底力を、井上は未だに知らない――。

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