第二章

早川家の恥

「お前は早川家の恥だ」


 滅多に口を開かない厳格な男である早川聡の父、早川誠のその言葉が早川本人に対しての言葉なのか、それとも早川の生みの親である早川千尋に対しての言葉なのか、それは言葉のニュアンスだけでくみ取ることは出来なかった。


「すみません」


 早川の仏壇に向かう誠の背中に、千尋は頭を下げる。しかし誠はそんな千尋に何も言わない。それは最愛の子供を亡くした夫婦の空気感ではなく、まるで粛々と進められてきた仕事のプロジェクトが些細な失敗で全て水の泡になったかのような、全てが業務的なものであった。


 誠は立ち上がりその場を後にする。まだ頭を下げ続ける千尋の目からは涙が零れ、床に敷かれた畳の上に落ちた。子を亡くした母親の心中は察するに余りある。

 

 誠のせいで、一般的な母親よりも子供を育てる責任が必要以上に肩にのしかかっていた千尋は、自責の念と償いきれない罪の意識を誰にもぶつけることが出来なかった。


 誠は大手企業の重役で、一人っ子である早川は必然的に良い役職を得る立場にあった。だからこそ千尋は早川をそんな役職を担える人間に育てなければいけなかった。それこそが早川家の妻という立場を守るため、母として成さなければならない千尋のミッションだ。


 ミッションを達成しなければ自分の居場所は守れない、そう思った千尋は早川の行動を束縛し、偏見を押し付け脅し、自分に従うように育てた。


 しかし早川は成績も振るわず運動神経も良くなく、見た目もさえない。千尋は決して早川を自慢の息子とは思えなかった。


 そんな母親の想いを察してか、親子関係は歳を重ねるごとにギクシャクしていった。大学進学をきっかけに家を出た早川はろくに実家にも帰省せず、いざ帰って来たと思ったら変わり果てた姿で、息もしていない。


 自分の正義を疑わない千尋は、一体自分はどこで間違えたのだろう、そう嘆きそして生きる気力も死ぬ気力も失われた。一番恐れていた軽蔑の眼差しを向けてくる誠に、千尋は震えあがり食事も喉を通らず物音一つにビクついている。


 自殺ということは伏せよう、という話になったが情報が筒抜けな現代社会ではその秘密は守られるわけもなく、早川家の息子は自殺したのだ、と世間に慈悲の痛々しい眼差しを向けられる羽目になってしまった。


 元々少ない千尋と誠の会話はさらに減り、千尋のストレスは溜まる一方だった。ママ友、なんてものを作ることを誠から許されていなかったため千尋は本当に一人ぼっちで、心根を話せる人がいない。


 仕事もしていない、友達もいない、人生をかけて育ててきた息子は自殺、そんな状況下で千尋の気は狂ってしまいそうだった。生前早川が使っていた部屋の片づけをしていても、不思議なことに千尋の目から涙は出ない。息詰まる心地がして、一時間もその部屋に居続けることが出来なかった。


 早川の使っていた机にはたくさんの疵がある。それは無意識のうちに生活するうえでついた傷なんかではなく、彫刻刀で意図的に付けられた傷のように見えた。


 千尋はそれらには触れず、ただ物を捨てる作業を毎日少しずつ行っていた。その様子があまりに無味乾燥な情を感じさせない動作に見えて薄気味悪い。


「私は間違えていたの?」


 ポツリと呟く千尋。しかし誰も何も返事をしない。当たり前だ、千尋は一人ぼっちなのだから。


「ねぇ、答えてよ」


 闇雲に彫られたはずの机の疵が殺意の名残の匂いを漂わせ、千尋の鼻腔に届く。この机の血生臭さに、今初めて千尋は気が付いた。


「さとしっ……――」


 生きている者のエゴというのはどんな結果を産んでも薄汚く、見てられないものだ。自分の教育が間違っていたと疑わず、子の裏切りを報復とも思えず、ただ自分の悲劇に嘆き悲しむ千尋の姿は、悲惨を超えて滑稽である。

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