一生寝てろ
ひばりの家に上がった井上が他愛のない話に費やしたのは、ほんの数分だった。ひばりから受け取った手紙は未開封のように綺麗で、ひばりのまだ読んでいない、という言葉を井上は少しも疑心を持たず信じた。
手紙に目を通し、そして考え込むように斜め上を井上は見上げる。
「先輩?」
内容を知らないと装うひばりは、井上の表情が何を意味しているのか分からないと言いたげな声を上げる。
「早川とは、仲良くしていた時があったのか?」
流石の鈍い井上もひばりに少しの不信感を抱いたようで、そうひばりに問うた。早川、その名に一種の興奮を覚えていながら、井上の意図が読めないふりを容易に出来てしまうひばりの冷静さは、真実を知っている者の目から見れば異常だった。
「早川って、サークルで一緒の早川さんですか?」
井上は黙って頷く。白々しく記憶を辿るふりをするひばりの様子を、井上はじっと見つめていた。その眼差しは疑いを持っていると言うよりも、魅入られていると言った方が正しいようだった。
「確か少しだけ話したことはあったけれど、お友達とは言えないかなぁ。」
遠慮がちに自分の中での早川の存在感の薄さをひばりは主張した。
「そうか。」
そんなひばりの演技にまんまと騙され、井上はひばりと早川の関係を疑うのを止めた。そしておかしいのは、何の関係も築いていないひばりにこんな手紙を寄越す早川なのだと決めつける。
「もしかしたら、最近滝川さんが感じていた視線の正体は早川かもな。」
井上はひばりに手紙を渡し、ひばりはその手紙を初見であるかのように読んだ。そしてひばりは早川の書いた文章の内容は身に覚えがないもので、その逸脱した内容に嫌悪感を抱いていると表現するために口元を抑える。
そんなひばりの様子をくみ取り、井上はひばりの肩を抱いた。
「ストーカー気質の男の想像力は逞しいな。」
恐怖に震えるひばりの上目遣いを合図に、井上はひばりの身体を抱きしめ、その際ひばりのうなじの匂いを嗅ぐことを忘れなかった。抱きしめられたひばりの表情を想像することすら忘れ、井上はその匂いに興奮と歓喜を感じる。
「大丈夫。俺がちゃんと守るから。」
「すみません。」
井上はひばりの身体を離し、ひばりの顎を持ち上げた。そしてひばりの顔に自身の顔を近づける。抵抗する素振りを見せないひばりの頬を、井上は手のひらで包み込んだ。
「抵抗しなくていいの?」
余裕がある大人、それを装うために井上ははにかみそんな言葉をひばりに向ける。ひばりは先輩の服の裾をギュッと握った。
少しでもどちらかが動けば触れ合う唇。井上はひばりの豊満な唇から目が離せない。スゥっと息を吸うために開いたその唇に自分の生気も吸い取られそうだ、と井上はひばりの放つ官能的な雰囲気に心地よく溺れていた。
「嫌って言ったら、やめちゃうの?」
その時あまりにもタイミングよく、ひばりの手は先輩の胸元に置かれた。そしてそのまま井上の首筋に、その手は滑らかに動く。
この心理戦は、圧倒的ひばりの勝利だった。ひばりの誘い文句で井上の理性は何の効力も持てず、雄としての本能に抗うことを忘れる。メラメラと燃える欲望の焚火にひばりは、ガソリンを投げ入れることに成功した。
「やめない。」
その言葉を言い終わる前に、井上はひばりの唇に噛みつく。いつの間にか頬から腰に移動していた井上の手がひばりの身体を這い始める。
始まれば終わったも同然、ここまでが楽しいのだ。ここからは、ありふれたシナリオ通りだ。
一匹のオオカミに捕食される自分の様を大きな鏡でただ見ていたひばりは、本日二回目の営みに嫌気がさした。幸い井上は女慣れしていたため行為は楽なものだったが、少し荒っぽい方が早川を思い出すにはちょうどいいのに、とひばりは内心ため息をつく。
「好きだよ。」
行為を終えると井上はそう言ってひばりを抱きしめた。それを受け取るひばりの表情は、寒いジョークを聞かされ相手を軽蔑しているかの様だ。
「ひばり?」
突然下の名前で呼ぶ独占欲の権化にひばりは何も答えず、目を瞑り寝たふりをし始める。
返事がないのが寝てしまったせいだと勘違いした井上は、ひばりの頭を撫でて身体を抱きしめた。それにひばりは身を預け、そしてどうしても思い出せない早川の声を懸命に脳内で探る。
井上が寝たことを確認し、ひばりは井上の腕から脱して床に散乱していた下着を身に着けた。
「もうちょっとかな。」
ひばりはある一報を、今か今かと待ち侘びている。洗面所に行って舐め回された顔面を洗い、汚い物を弄り倒した手も洗った。
そして濡れた手を拭かず井上の近くに行き、微妙に残った手の水分を井上の顔面に弾きかけた。
間抜けな寝顔はそんないたずらにも気が付かず、幸せそうに眠っている。
「一生寝てろ。」
間抜け面を鼻で笑い、床に落ちている早川からの手紙を拾い上げて、ひばりはそれをまじまじと見る。
「早く私の物になって。」
手紙にそっとキスをして、死の匂いに自分の身体の奥が疼くのを感じると、ひばりは丁寧に便箋を封筒に入れた。
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