エロチシズム

「いらっしゃいませぇ!」


 活気の良い店員の挨拶が響き渡り、打って変わって静かな口調で井上は二名で、と端的に店員に伝える。


「二名様ご来店でぇす!」

「いらっしゃいませぇ!」


 一人の店員の掛け声に厨房から返事をするかのように声が聞こえてきた。二人は個室に案内され、簡単に店のシステムを店員から聞くとメニューを開く。


「滝川さん、お酒は飲む?」

「先輩が飲むなら。」


 井上はじっとひばりを見つめた。店の前でのやり取りがどうも気になり、万が一に備え井上は酒の一覧を元の場所に戻す。


「今日はやめておこうかな。」


 ひばりはニコッと笑い、井上と同様酒の載ったメニューを元の場所に戻す。そしてメニューからある程度料理を見繕い注文を済ませた。


「さっきの話なんだけど。」


 店員が居なくなるや否や、早速井上はひばりに詳細を聞こうと口を動かし始めた。


「最近見られているって感じがするの?」


 ひばりは頷いた。


「元々大学内で視線を感じることはあったんですが、最近外出先でも視線を感じます。」

「何か危害を加えられたりはした?」


 ひばりは首を横に振る。


「特に何もされていません。でも、暗い夜道を歩いていて近づいて来る足音がすると怖くて。この間も怖くて小走りしたら、誰かが追いかけてくる足音がしました。」


 自分の身体を抱きしめながらひばりは言った。


「そうか・・・。」


 そのタイミングで店員はソフトドリンク二つとサラダを持って来た。井上はドリンクを持ち上げ、二人はグラスを軽くぶつけて乾杯をする。


「とにかく、身の安全を守らなきゃな。ご両親は近くなのかい?」

「地方の田舎出身なので、こっちに来てもらうのも申し訳なくて・・。」

「なるほどなぁ。」


 ひばりは話しながらサラダを皿によそい、井上に渡す。お礼を言って井上はそれを受け取った。


「じゃあ、夜遅くなる時は俺が滝沢を家まで送ろう。」

「そんな。」


 自分の体の前で手を振り遠慮するひばりの頭に、井上は手を伸ばした。


「俺じゃ心細い?」


 ひばりは下唇を噛んで首を横に数回振る。


「じゃあ決まり。遅くならない時も家に着いたら俺に連絡すること。分かった?」

「はい。」


 ひばりはまるで、井上の気にかけられていることに喜んでいるかのように思わせる笑顔を浮かべた。ひばりの思惑にまんまとひっかかり、井上はひばりの笑顔に夢中だ。


「今日も送っていくから。もし何かされたらすぐ俺に言うこと。証拠はちゃんと残さなきゃな。」


 ソフトドリンクをぐっと飲み干し、井上はちらっと腕時計を見た。


「そういえば、これからバー行くって言っていたよな。どうする?」

「あー。」


 ひばりはスマホの画面をちらっと見る。時刻は20時30分を回った。大学生にはまだまだ遊び足りない時間ではあるが、ひばりの言うストーカーというものが本当に存在するとしたら、外をほっつき歩くには不安な時間帯だ。


「また、今度にしてもいいかな」


 ひばりの言葉に井上は頷いた。


「その方がいいな。いい子は帰って寝る時間だ。」


 店員が残りの注文の品を全て持ってきた。二人は仲良くそれらを分け合い、30分程度で食事を済ませた。


「ご馳走様でした。」


 意地でもひばりから金を受け取らなかった井上に、ひばりは深々と頭を下げた。


「いいよ。これぐらい気にするな。」


 井上はひばりの手を取って歩き出す。


「滝川さんの家ってどこにあるの?」

「ここから5駅ぐらいです。」

「そっか、じゃあこっちの道で合っているね。」


 道を窺うふりをして、井上は辺りを見渡す。


「どう?まだ視線感じる?」


 ひばりは小さく首を横に振った。


「ごめんなさい。もしかしたら気のせいかもしれないのに。」


 繋いでいない方の手でスカートをギュッと握るひばり。


「それなら一緒に居る時間が増えるだけってわけだ。それは俺にとってラッキーだよ。」


 ひばりの心中を悟り、井上はひばりの手をギュッと強く握った。


「あ、そう言えば・・・。」


 今思い出したかのようにひばりは声を上げる。


「どうした?」

「そう言えば、今日差出人の書いていない手紙が届いていたんです。」

「内容は?」

「時間がなくて開封してきませんでした。」


 そんなの、嘘っぱちだ。ひばりはその手紙を読み、インクの匂いまでしっかりと嗅いだ。


「もしかしたら、ストーカーからの手紙かもな」


 ひばりはピタッと足の動きを止めた。それに気が付いた井上も足を止め、ひばりの方へ振り返る。


「どうした?」


 何かを言いたげで、けれど勇気が出ず躊躇している可愛い女を演じることにひばりは非常に長けていた。


 そしてそんな雰囲気を察知することに、井上は悲しい程に長けていた。言葉を何とか発そうと恥ずかしさを押し殺すひばりを、井上はじっと見ている。


「良かったら、これから私の家に少し来ませんか?」

「え?」


 聞き返されると恥ずかしくて堪らないのだ、そう言いたげなひばりの様子を見て井上は聞き返したことを少し後悔した。


「あ、いえ・・・。」


 甘いパンケーキのように、腹に溜まる重さの空気が二人の間に流れる。


「ご、ご迷惑だったら全然いいんです。」


 パッとひばりは井上から目を逸らし、頬を桃色に染める。


「その・・。手紙を一人で読むのが怖くって・・。」


 ひばりはひとしきり言い訳を呟いたのち、この空気に耐えられないと言わんばかりに井上を潤んだ瞳で見上げた。


「滝川さんがいいのなら、お邪魔するよ。」


 据え膳食わぬは男の恥、そう言わんばかりに井上は笑みを浮かべてひばりの提案に乗った。可愛い女の誘いを断って恥をかかせるなんてとんでもない、と紳士気取りな井上はひばりの手を引き、また歩き出す。


「ありがとうございます。」


 井上から少し遅れて歩き出したひばりの表情は薄暗い街頭に照らされ、恋する乙女とはかけ離れた極悪非道なものであった。事が全て自分の想定通りに進むことに快楽すら覚えているようだ。


 この快感はひばりにとって、きっとこの後繰り広げられる営みの何十倍もエロチシズムであった。

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