もっと欲しいの

 九時ちょうどに、ひばりは集合場所である最寄り駅に到着した。その駅はひばりが通う大学近くの駅で、男とひばりは合流するとすぐに手を繋ぎどこかへ歩き始めた。


「今日も可愛いね」


 そんな甘い言葉を囁くひばりの隣に居る男は、そんなロマンティックな雰囲気を醸し出すには少し覇気が足りないのでは? と思うほど細く、弱々しい男であった。


 黒のスキニーと少しダボッとしたTシャツを身にまとう眼鏡をかけたその男は、理系男子という言葉が非常にしっくりくる、陰気な男だ。


「この服ね、この間みっくんがデートの時に可愛いって言っていたお店のお洋服なんだよ」


 あざとくスカートの裾を軽く持ち上げ、脚を露わにするひばりからあからさまに男は目を逸らす。


「こういう所では、そういうことはしたら、いけない」

「そういうことってどういうこと?」


 首を傾げて男の顔を覗き込むひばり。都合よく潤むひばりの瞳で上目遣いの破壊力は増して、今度は男の目を逸らさせない。もしかしたら、今男は犬の糞を誤って踏んでしまっても気が付かないのではないかと思うほど、男の視界にはひばりしか映っていない様だった。何とも、恋は盲目である。


「いや、なんでもないよ」


 二人は他愛もない会話をしながらとあるカフェに入った。


 そして男はブラックコーヒーを、ひばりはカフェモカを頼み、その際のひばりの愛想の良さはこの店にいる女の中で一位に君臨していた。笑顔と穏やかな口調、そしてお礼を述べる姿は例え注文を受けた店員が女だったとしても、容易くひばりは優しい人間なのだと騙されてしまう。


 店員にも気が使えて場を和ますひばりを阿婆擦れ女だと見破ることが出来るのは、彼女との関係を終えた者だけだ。いや、関係を終えたとしてもひばりの本性に気が付ける者はなかなか居ない。皆ひばりとの恋愛をひと時の楽しい夢として胸に仕舞い、その夢を与えてくれたひばりに感謝さえしだす。


 時たまひばりはハズレくじを引き、今朝の手紙を寄越すようなひばりにも自分にも陶酔しだす男と関係を築いてしまうこともある。しかしその関係を崩して楽しむのも又、一興。サクサクなミルフィーユをフォークで崩し粉々にしてから、ちょっとずつ口に運んで弄びながら食べるのも美味しいミルフィーユの食べ方だ。


 ひばりはカフェモカを一口飲み、面白くもない男の話に頷いて優しく微笑む。それに飽きたひばりは、中指でテーブルの上に乗っている男の手の甲を撫でた。それを皮切りに織りなされる二人の雰囲気や、混じり合う視線は寝起きの口内ほどにねっとりとしていた。


「どうしたの?」

「ん? ウフフ」


 まるでこんな瞬間が幸せだと言わんばかりに笑顔を作るひばり。本当は手紙の差出人が命を絶つことを心待ちにしている、悪魔のような女であるのに。


――一体どんな方法で命を絶つの?

――私の前で? 私も一緒に? それとも……?


 ひばりは両手で男の手に触れて、男の手のひらと指をいじり出す。そして自分の人差し指を、男の親指と人差し指の間から伸びる生命線を辿らせて手首まで運んだ。


「生命線、短いのね」


 ひばりは男の脈が動くのを手首で感じながら、そう呟いた。


「そうなんだよ、手相が薄くてね。でもこの間占い師の知り合いに見て貰ったんだけど、大器晩成型で若い時は苦労するけど絶対に成功者になれるって……」


 男は自分の話題になると意気揚々と口を動かし始める。そのあまりにもくだらない内容の話のせいで、いつしかひばりは意識を遠く彼方へ飛ばしていた。


「ひばり?」


 自分の話がつまらないとは死んでも思わない男は、ボーッとしているひばりの様子に暫くしてから気が付いた。


「ん?」


 ひばりは意識を取り戻し、男の方へ視線を戻す。


「大丈夫?」


――お前の頭こそ、大丈夫?


「うん、大丈夫だよ」

「良かった。大器晩成って言葉の意味が分からなくてキョトンとしちゃったのかと思ったよ」


 可愛いね、と呟いて男はブラックコーヒーを啜る。


――さっさとこの男を渦で飲み込んでしまえ。


 表情を見られないようにひばりはカフェモカを一口飲んだ。


「この後はどうする?」


 男はひばりに下品な笑顔を向けた。


「いつものところでいいんじゃない?」


 ひばりは男に求められている回答を、求められたとおりに返した。手の届きそうな卑猥な未来に舌なめずりした男は、ブラックコーヒーを一気に飲み干した。


「行こうか」


 伝票を持って立ち上がる男にばれぬよう、ひばりはため息をついた。まだ半分もカフェモカはコップの中に残っている。


「どうしたの?」


 立ち上がろうとしないひばりに、早く来いと言いたげな影を持つ言葉が男から放たれる。


「いや、なんでもない」


 ひばりの不快感はあからさまなものであり、このまま帰ってしまっても何の不思議も無い。しかしひばりは不快感を飲み込んだ。

 

 ここまで身なりを整え時間を過ごして何もせぬまま帰るわけにはいかず、それに今日のひばりにはどうしても男に抱かれなければいけない理由があった。


 ひばりは立ちあがり千円札を男に差し出した。


「いや、ここは俺が出す」


 男はそれを制し、会計を済ませた。


「ごめんなさい、ありがとう」


 店を出てひばりは男にそう告げた。


「いや、これぐらい気にしないで」


 ひばりの手を取って男は目的地に向かって歩き出す。


 そして二人はいつものホテルへと入って行った。


 一体ひばりの肩にある痕はどれほどの爆発を引き起こし、どれほどひばりは快楽の波にのまれたのだろう。


 独占欲を駆り立てた男に強く抱きしめられたひばりの脳内には、手紙の差出人との熱い夜の記憶が蘇る。


――嗚呼、死ぬ。あの男は私を想って死ぬ。なんて、なんて気味の悪い愛だろうか。


「もっと、もっと欲しいの」


――愛が欲しいの。


――まぁ、貴方の愛は要らないけど。

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