3F 黄色いカーディガンの先客2


「なんでここに来たか、わかったでしょ」

 絶望の浮かぶ表情にしては高い、あざけりを含んだ声だった。

 わたしはこくりと頷いて、恐る恐る、腰を下ろした。


何怯おびえてるの」

「別に、怯えてなんかないわ」

「じゃあ、どうして震えてるの」

「っ……!」

 あわてて腕を抑え、震えを打ち消そうとする。

 しかし、消えてはくれなかった。


 少女はじっとわたしを見つめてくる。汗が一筋、ほほつたった。

「いいよ。話してあげる」

 わたしがうながすでもなく、彼女は言った。完全に彼女のペースだったが、わたしには何も言えなかった。ただ、頷くしかできなかった。

 吹きつける風は、初夏とは思えないほど冷え切っていた。


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 父と母が離婚した。始まりはそんな些細ささいなことだった。親の離婚を些細ささいというのはおかしいかもしれないが、正直、予兆よちょうはあった。むしろ、最近までよくもったと思うくらいだ。


 だから、悲しくはなかった。あの喧嘩けんかの声を聴かなくていいと思うと、むしろ安心したくらいだった。


 けれど、母が再婚した後、私は、地獄だと思っていたそれまでの生活が、どれほど生易なまやさしいものだったかを知った。


 継父けいふと名乗る男は、初めは私に無関心だった。私も彼に無関心だった。しかし、ある時から執拗しつように私を殴打おうだするようになった。抵抗すると、私の手と足をなわしばり付けるようになった。それでも動き回ろうとすると、さらになぐられ、られた。

 私は涙と吐瀉物としゃぶつと、酷い時には赤黒い血にまみれて、度々たびたび気を失った。


 まずは母にうったえた。この頬を見ろ、この背中を、腹を見ろと。しかし母は言った。

「そんなことあるはずない。彼がやったという証拠を見せなさい」


 次に、教師に訴えた。助けを求めた。しかし、眼鏡の教師は微笑をたたえて、あたかもこれこそ最善策であるかのように言った。

「そういう専門の機関があるから、そこに相談した方がいいと思いますよ」

 言われるがまま、私はその施設に行き、窮状きゅうじょうを訴えた。しかし、手ごたえはなく、帰るしかなかった。


 私に残された道はもう一つだけしかなかった。


 傷を隠すためにカーディガンを羽織り、マスクをして、県外に引っ越していた実父の家を訪問した。

 一緒に暮らしていた時には、どうしようもない人だと見下していた父親だったが、最早もはや頼れるのは、血のつながりのある父親だけだった。

 カーディガンをぎ、セーラー服さえも脱いで、私はこの現状を訴えた。


 しかし。


「悪いけど、俺にはどうにもできない」


 父はあわれむような視線を見せながらもそう言うだけだった。

「相談所とか、学校とか、いろいろあるだろ。そういうところに行くのが一番いいだろ」



(行ったよ。もう。でも、どうしようもなかったからここに来たんだよ)



 その瞬間、私は、誰も信頼できなくなった。

 大人たちの言うことは、円環えんかんをなしていた。


 扉の閉じる音。その日、私は希望を失った。しばらく家の前で立ちくしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。

 降り出した小雨こさめの中、失望を胸に、しかたなく帰宅し玄関の扉を開けると、私はいきなり胸倉をつかまれ、廊下にたたきつけられた。 


 彼はひとしきり私の顔を、腕を、腹を、背中を、殴り、蹴ると、言った。児相じそうが来た。お前が呼んだんだろ、と。

 彼は私を問い詰めた。緊張と痛みと恐怖とで、気を失いそうになると平手打ちが飛んだ。


(あぁ……)


 心の中の、やけに冷静な自分が呟いた。


(結局、だれも助けてくれないんだ)


 全てが空回りだった。逆効果だった。私にはもう、どうすることもできなくなった。

 何笑ってんだ、と恫喝どうかつの声。絶望の奈落ならくに落ちた私は、何故か笑っていたらしい。それに余計腹を立てた男の、鬼のような形相ぎょうそうと巨大な手。ここで死ぬのかな、という、どこか他人事ひとごとな感情は、瞳を閉じるとともに消え失せた。




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