2F 背の低い先客3

 意味が分からなかった。

 いじめられている現状をどうすればいいかを悩むことは不必要なことなのだろうか。

 そう聞くと少女は「違う」とかぶりを振り、私の肩の上に手を置いた。


「ここから飛ぶか飛ばないか。その悩みよ」


「え?」

「答えは出てるじゃない」

 したり顔の少女に、私は首をひねる。

「よく、わからないです」

「調子がくるうわ……」

 少女は機嫌きげんを悪くしてしまったのか、長い黒髪を掻きむしった。あぁ、こういうところなのだろうか。私がいとわれるのは。


「聞くけど、あなたの逡巡しゅんじゅんはどうしてうまれたの?」

「しゅんじゅんってなんですか」

「ためらいってことよ。飛び降りることへの、ためらい。さっき勇気がなかったからと言っていたけど、違うんじゃないの? あるいはそれが本当だとしても、私はあなたの逡……ためらいは、それだけが原因とは思えない」

「……」

「まだわからない?」

 ごうを煮やしたような台詞。しかし、私にももう、彼女の言わんとすることはわかっていた。


「お母さん……」


 自分でもほぼ無意識につぶやいていた。

 思えば、私がどんなにつらくてもここまで生きてきたのは、家に帰れば必ずむかえてくれる人がいたからだった。「おかえり」、「ただいま」を言い合える人がいたからだった。

 何一つ希望はないのに学校に通い続けたのも同じ理由だ。母を、父を、家族を悲しませたくなかったから。いじめられているとうったえなかったのも、同じ。

 本当は、既に気づいていたのかもしれない。

 さくの前で躊躇ためらって、すぐに飛び越えることができなかったのは、そのせいなのかもしれない。


 夕方六時のチャイムが響いた。同時に、グギュルルルルと呑気のんきにおなかが鳴いた。私は慌ててお腹を押さえる。

「まだ、ここに居場所を求めるのは早かったんじゃない?」

 笑いをこらえながら、少女が言った。

「で、でも、無理です、もう。私は、これ以上」

「だったら辞めればいいじゃない学校なんか」

「そんな、簡単に言いますけど……」

「確かに人生は変わると思う。けれど、終わりはしないわ。でも、ここから飛んだらすべて終わりよ。あなたの人生も、家族もね」

「……」

 そう言うと少女は立ち上がり、スカートについた砂粒すなつぶたたき落として、歩き出した。

「どこ行くの?」

「もう大丈夫でしょ。だから帰るの」

「ま、待って! 私まだ……」

「ここから先は、あなたが一番信用できる人に話しなさい。きっと、真摯しんしに向き合ってくれるから」

 キィィィとドアがきしむ。少女は、ただ一言そう言っていなくなった。


 私はしばらく、さび付いたその扉を見つめていた。

 陽はもう落ち切ったらしい。雲に隠れていた月が、かすかに光り始めていた。

 足を伸ばし、手を広げて寝転がる。


 れていた服は、ずいぶんかわいていた。私を取り巻く現実は、何一つ変わってはいない。しかし、なぜかほほには笑みが浮かんだ。

「おなかすいたな」

 よいしょと体を起こして、私はかばんを持った。


 背の低い私だけれど、気持ちは少しだけ大きくなった。そんな気がした、ある日の屋上だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る