2F 背の低い先客

 セーラー服にはバケツ一杯分の水分が染み込んでいる。

 ただでさえ重たい身体を引きずって歩く私は、気づくと屋上にいた。


 春の終わりの風は涼しいはずなのに、冬の木枯らしよりも冷たく感じる。

 耳の奥には、聞き慣れた甲高い罵声ばせいや絶え間ない嘲笑ちょうしょうが残っている。 


 もうえられなかった。


 学校の屋上。校庭側に背を向けて、陰になった駐輪場の方を向く。

 けれど、心の中には迷いがあった。

 ここから飛び降りて、楽になれるのか。それが正しいことなのか。最善策なのか。

 どの自問にも答えは出せない。しかし、否定もまたできない。これから先に希望があるとも思えない。


「でも……」


 踏ん切りがつかず、柵の前に立ち尽くしていると、背後、閉めたはずの扉が開く音がした。

「あっ」

 現れたのは私と同じ制服を着た少女だった。しかし、見覚えはない。違う学年なのだろうか。


 そんなことを考えていると、少女は冷たい眼差しを向けて近づいてきた。


「またか……」


 辟易へきえきしたように、ため息を吐いた少女は胸の前で組んでいた私の手を強引につかんだ。

「うっ……」

「何してるの?」

「いや……何もしてない……です」

「そういうのいらない」

 少女は私をさくに突き飛ばした。一昨日おとといられた背中ににぶい痛みが走る。


 私の前にしゃがみ込んだ彼女は、頬杖ほおづえをついて冷笑を浮かべた。


「あなたも飛び降りようとしてたんでしょ? ここから」

「え……いや」

「違うの?」

「いや、違くもないです、けど」

 すると彼女はどこか難しそうな表情をしてほほいた。

「あの……」

「話しづらいなぁ。あなた。背も、気も小さいの?」

「えぇ……」


 なんなのだろう、この人は。悪口は言い慣れているけれど、初対面の人にいきなり言われたことはない。


「とにかく、飛ぼうとしてたのは事実でしょ」

「はい、まぁ」

「どうして飛ぼうとしてたの? ま、見ればなんとなくわかるけど」

「……」


「いじめられてるのね」


 少女は一切いっさい躊躇ちゅうちょするそぶりもなく、ダイレクトにそう言った。初対面の私に対して気をつかう筋合いはないのだろうけれど。


「いや」

「いや、じゃない。水かぶせられるなんて普通ないわ。自分でかぶったって言うなら話は別だけど、違うでしょ?」

「……」

沈黙ちんもくは正解ととるわね。それで、ここから飛ぼうとしたけど勇気が出ないと」

「……」


 言葉にすれば、たったそれだけのことだった。

 いじめられている。それから逃れるために身を投げようとした。けれど、いざその場に立つと勇気が出なかった。


「心の内を語り尽くしてみなさい。どうせ誰かに相談することもできなかったんでしょ?」

 容赦ようしゃのない物言いだが、確かにその通りだ。私にはこの現状を打ち明けることのできるような人はいない。


「相談に乗ってくれるの?」

 そう言うと、彼女は「ふっ」と嘲笑を浮かべた。

「そんなんじゃない。あなたが望むならここから突き落とすことだってできるわ」

「えっ」

「わたしただ、いい加減な理由で飛び降りようとするのは許せないだけ」


 少女の言うことはよくわからなかった。ただ、飄々ひょうひょうとした言葉の裏には激しい感情があるような気がした。


 しかし、ぶっきらぼうな態度でも、知らない人でも、話を聞いてくれるというのは嬉しかった。

 夕方の緋色ひいろに染まる空のもと、うつむきがちに、私は話し始めた。


 


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