1F 三つ編みの先客5


「ふぅん、なるほどね。全部俺が悪いってそういうことだったのか。つまり、自分に好きな人が出来たから、いや、違うか。その友達の話が本当なら、絶世の美女に告白されたから」


 隣の少女は足を崩して淡々たんたんと言った。


「運命の人だって、ずっと信じてた。ずっと一緒にいるんだって、疑わなかった」

 しかし現実は非情だった。

 私がぼんやりしている間に、ろくに知りもしない誰かに、彼はかれてしまった。


 あの後、彼と北条さんが歩いているのを見かけた。別れた日の無表情が嘘かのように、彼ははにかんでいた。


「好きだったのに……。好きでいてほしかったのに……」


 二度と会えないくらいの運命の人。そんな彼の隣にもういることができないというなら、私はここにいたくない。

 空は藍に染まり始めた。無駄に視界がにじむ。

「納得してくれたでしょ? だからもう、ほっといてここから……」


 そう言うと、隣の少女は、私を鋭く睨みつけた。そして、今までのどこか飄々ひょうひょうとしていた語り口から一転、小さい、しかし筋の通った声で言った。





「ふざけんな」

















 呆気あっけに取られていると、少女は立ち上がって私の両腕りょううでを柵に押しつけた。

「何っ!?」

「あなたが感じた絶望は確かに小さくはないかもしれない。でも、だからって自分の存在する理由をすべて失ったって考えるのは間違いでしょ」

「な、なにが間違いなのよ……」


「あなたの居場所は、彼の隣にしかなかったの?」


 あわれむように、彼女は私を見下ろしてくる。

「何を言ってるの……?」

「まだわからないの?」


 声をあらげた少女は次の瞬間、私の腕を放して置きっぱなしになっていた靴を私の方に蹴飛けとばした。横に倒れた靴から、もう必要ないと入れていた携帯電話がカタカタと音を立てて転がる。


「つけて」

「えっ」

「いいから、携帯つけて」

 言われるがまま電源を入れる。すると着信音と共に次々とメッセージが表示された。

「これ……」

「あなたは本当に居場所を失ったの?」



『なんか今週元気なさそうだったけど大丈夫かー?』

『おーい』

『寝てんのか』

『はよ見てよー』

 そう送ってきていたのは実里みさとだ。

明日暇ひま?』

『暇ならちょっと映画見に行かない?』

『突然でごめんよ』

 夕子ゆうこはスタンプ付きで送ってきていた。


「ほかにもメッセージあるじゃない。今週のあなたの様子がどれだけおかしかったのか、話を聞いてただけの、赤の他人のわたしでもわかる」


 夕子や実里以外にも、クラスの何人かから『大丈夫?』、『みんな心配してたよ』などというメッセージが届いていた。

「……」

「まだ飛び降りたい? それなら」

 言葉の途中で、私は嗚咽おえつじりに首を横に振った。

 点いたままの携帯電話を胸に握りしめる。携帯電話の機械的な温度が、今の私にはとても温かく感じた。同時に、今まで私が抱いていた懊悩おうのうがなんとも些事さじなものに感じる。こんなことで命を捨てようとしていたなんて。


 私には、まだ居場所があるんだ。生きていく理由があるんだ。


「そう」

 少女は落胆らくたんするでも喜ぶでもなく、その一言だけを残して、柵を乗り越えた。

 私と同じ長いスカートを穿いているのに、彼女は一切てこずる事もなく器用に柵の向こう側に立った。


「じゃあね」

 たったそれだけを言ってきびすを返しかけた少女に、私は涙をぬぐって言った。

「ありがとう」

「ん?」

 私の方に向き直った少女は、不思議そうなまなざしを私に向けた。

「あなたに話したおかげで、すごく楽になった」


 少女は一瞬、まゆを寄せて、しかしすぐに声をかけてきた時のような冷笑を浮かべた。


「それはどうも」

 そして、くるりと私に背を向けて、いなくなった。

 残された私は脱ぎ捨てた靴下を穿きなおし、靴を持って立ち上がった。

 

 間もなく夜になる。

 空は雲に覆われて月も星も見えない。反面、地上はビルや車の群れや家々の明かりできらめいていた。

 携帯電話のカメラを起動して、地上の景色を写真に収める。まだしばらくは、ここが私の居場所だ。


 晩春ばんしゅんの風が吹く。落花らっかとともに、些少さしょうな思い出は置いていこう。


 屋上の端に、小さい頃からつけていた三つ編みのヘアゴムをそっと置いて、私は踵をめぐらせた。


 

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