巫山雲雨

 それから暫く後のこと。塾での学習を終えて退出した僕は、肩をいからせながらずんずんと歩き、ある場所へと向かった。

 それは、あのぼろぼろの掘立小屋であった。外から覗くと、むしろの上に横たえらた稔と、例の男の薄気味悪い笑みを見ることができた。

 僕は手袋をはめた右手をポケットに突っ込み、そっと金槌を取り出して固く握りしめた。専諸せんしょ荊軻けいかのような古の刺客たちも、きっとこんな気分だったのだろうか……彼らの決心のほどは並大抵のものではなかっただろうが、今の僕もそれに比肩しうる決意を胸に秘めている。

 僕はそっと戸を押した。男は行為に夢中で、背後から忍び寄る僕に全く気づいていないようだ。二人の声がよりはっきり聞こえてきて、僕は耳を塞ぎたくなった。

 僕は息を殺して近づき、ついに男の頭を射程に収めた。意を決した僕は、無言で金槌を振り上げた。

 正義の一撃が、男の後頭部に直撃する。言いようもない不快な衝撃が僕の右手に響いてきて、まるでこの手が僕のものでないかのような不思議な感覚に陥った。男はぎゃっ、と一声発しただけで、ふらふらと地面に倒れ伏した。反撃を恐れた僕はそれから二回、三回と立て続けに追撃を加え、確実に息の根を止めた。


「……ありがとう。僕、ずっと怖くて……でも誰にも言えなくて……」


 円らな瞳に涙を溜めた稔が、声を震わせながら抱きついてくる。僕は何も言わず、彼の細い体をひしと抱き返した。何も言わなかった、というより、何も言えなかった。これまでろくに言葉を交わして来なかった相手にかける言葉など、すぐに見つかるはずもない。


 それから、僕と稔は二人して穴を掘り、男の死体を埋めた。掘立小屋の周囲には人気ひとけが全くない。だから見られる可能性は低いだろう……といっても、万が一目撃されでもしたら、その瞬間に全てが終わってしまう。僕は冷え冷えとした汗をかきながら作業していた。


***


 後日、某大手電子機器メーカーの重役が行方不明になったことがニュースで報じられているのを見た僕は、自らの心臓が大きく跳ねるのを感じた。稔を凌辱し、僕が正義の一撃を加えた相手は、思ったよりもずっと大物だったのだ……テレビ画面に映し出された重役の顔は、僕が手にかけたあの男そのものだった。

 そのようなことがあった後でも、僕は平静を装って普段通りの生活を続けた。当然、あの塾にも通っている。稔もまた、何食わぬ顔で塾に姿を現した。


晋太しんた


 隣から、僕を呼ぶ声がする。ガラスのように透き通った声でありながら、どこか粘質の、媚びるような声色を帯びている。


「あ、ああ……」


 僕はどぎまぎしつつ、声の主である稔に返事をした。


「行こう」


 稔はそれだけ言って、塾を退出した。僕も慌てて荷物を鞄に突っ込み、稔の後に続いた。彼の誘いに乗らないという選択は、僕の中に存在していない。

 僕たちがたどり着いたのは、今はもう使われていない、所有者もよく分からないぼろ小屋であった。近くに雑木林があることから、昔は薪取りなどのために使われていたのだろうが、もう放棄されて久しいようで、外からでも年季の入り様が一目で分かる。

 その中に入った僕は、彼に誘われるまま、忘我悦楽のひと時を過ごした。彼によってもたらされた快楽に、僕はたちまち病みつきになった。

 僕と稔の関係は、依然とまるで変わった。稔はあからさまに僕を誘うようになり、僕らは人目につかない場所を見つけては、例の行為に耽った。稔の艶っぽい誘いに抗うことができない僕は、全く中毒者の様相を呈していた。

 僕の拙い殺人など、いずれは白日の下に晒されてしまうだろう。そうなれば、もう何もかもがおしまいだ。そうした懊悩呻吟おうのうしんぎんを忘れるには、稔の誘いに乗るより他はなかった。稔の長い髪の香が、細い首が、熱を帯びた息遣いが、僕に殺人の咎をほんの一時いっときだけ忘れさせてくれる。稔が与えてくれる悦楽に、逃れられようはずもなかった。


 それから暫く後のこと、例の電子機器メーカーが、別の国内大手に吸収合併された。行方不明になった重役は、どうやら強硬な合併反対派であったらしく、彼の行方不明によって重しが取れ、合併に至ったのだという。

 ……もしかしたら、一連の出来事は、全て大企業の間で繰り広げられていた政治劇の一環だったのではないだろうか。稔は吸収した側の会社の手駒で、反対派の重役を葬り去るために重役を誘惑し、僕を利用して始末させた。そうした謀画ぼうかくに、僕はまんまと利用されてしまったのではないか……これは妄想に過ぎないが、しかしそれらしいエピソードが組めそうな出来事が揃いすぎている。

 それを知った日も、僕は稔と例の小屋で行為に勤しんでいた。


「晋太、どうした? 難しい顔して……」


 僕に覆いかぶさられた稔が、下から見上げながら尋ねてくる。


「あ、いや……何でもない」


 そう言って、僕は言葉を濁すより他はなかった。彼との行いの最中に、水を差すようなことはしなくなかった。

 

 いずれ、僕は咎を受ける身なのだ。それがいつになるかは分からないが、その時にはもう、稔と一緒にはいられなくなる。だから、だからこそ、せめてその時まで、稔とのひと時を噛み締めていたかった。そうでないと、僕は罪を裁かれる前に狂を発してしまいそうだから……

 

 小屋の外から、寂しげな雨音が聞こえてくる。巫山ふざんにたなびく朝雲は、暮雨をいざない僕を濡らす……

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巫山の雲に誘われて 武州人也 @hagachi-hm

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