巫山の雲に誘われて

武州人也

美少年

 塾の教室内で、僕は一人頬杖をついていた。まだ授業には時間があって、それでも空いた時間に自習をするような殊勝な心掛けは僕にはなくて、ただスマホを弄って友達とメッセージのやり取りをするのみであった。眠気にまとわりつかれた僕は、大きな欠伸を一つした。

 そうしていると、教室に誰かが入ってきた。講師ではない。背丈から察するに、大人ではなく子どもだ。僕はむくりと顔をあげた。

 その顔が目に入った時、僕に衝撃が走った。入ってきたのは、今までに見たことがないぐらいに顔立ちの整った少年であったからだ。僕の学校では見たことがない。きっと彼は新しい塾生で、僕とは違う学校に通っているのだろう。年の頃は僕と同じぐらいだろうか……

 彼は僕の隣の席に鞄を下ろすなり、文庫本を取り出して読み始めた。どうやらこの少年も、僕と同じで空き時間に自習するような心掛けはないらしい。文庫本は、宮城谷昌光という作家の書いた小説のようであった。

 僕の視線は、隣で本を読む少年に釘付けとなった。彼の容貌は、言うなれば少女性の愛らしさを備えていた。伏し目がちな目つきが長い睫毛をより強調させていて、それを見た僕は意に反してどんどん胸の鼓動を速めていく。僕は動揺を悟られぬよう、一つ大きな深呼吸をして、必死に心を落ち着かせようとした。

 結局その日はろくに問題を解けず、講師から「やる気が感じられない」というお叱りを受ける羽目になった。


 それが、僕とみのるの出会いだった。


***


宋人そうひとの苗のちょうるをうれえてこれく者有り」


 僕の隣で、稔は問題文の答えとなる部分を音読していた。渓流の水の如くに透き通った声が、教室の中に響き渡る。その朗声が、僕の頭にまとわりつく眠気をさっぱり覚ました。

 彼は僕と同い年の中学二年生であったが、僕が知り得たのはそれだけだった。僕が稔と席を同じくするのは、この少人数制学習塾の教室だけだ。彼の教室の外での姿を、僕は全く知らない。

 平生の奥手な性根が災いして、僕は彼を遊びに誘うことすらできなかった。僕は彼が好んで読んでいる宮城谷昌光の歴史小説を読み、その姿を見せることで言外に彼の気を引こうとしたのだが、それは全く無駄な行いであった。結局僕は時折、隣の席から艶々とした長めの黒髪を窃視せっしするに終始している。

 ああ、何と素敵な少年だろう……静脈が透けて見えるような白皙はくせきの美少年の姿に、僕の心はたちまちに虜囚と化してしまった。激しい慕情に身を焦がしたのはこれが初めてのことで、僕は煩悶に苛まれながら、鬱屈とした日々を過ごしていた。

 結局、この日も僕は彼に踏み込んでいくことができなかった。彼は足早に帰っていき、その後に僕も続こうとした。

 その時……彼の机に、洒落た色合いの青いハンカチが置いてあるのが見えた。


「これ……忘れ物か」


 この季節、彼は汗を拭うために時折これを取り出している。どうやら机の上に出しっぱなしのまま忘れていってしまったらしい。

 今ならまだ、そう遠くには行っていないだろう。持って行ってあげよう……そう思って、僕は青いハンカチを掴み、そのまま塾を後にした。


 日はすでに落ちかけていて、西の空から赤い光線が差している。僕は路地に入っていく稔の後姿を見つけ、その後をつけていった。

 稔は虚弱そうな見た目にもかかわらず、思いのほか歩くのが速かった。僕は必死で早歩きして彼に追いすがった。途中に曲がり角がいくつもあって、僕は彼を見失いやしないかと気が気でなかった。

 進んでいくごとに、どんどん風景は寂しくなった。次第に人家もまばらになり、道の左右には高い草の生い茂る広大な耕作放棄地が広がる場所にさしかかった。

 そうして彼は意外にも、蔓に覆われた、粗末な掘立小屋へと入っていった。僕は首をかしげた。彼はもっと育ちのいいお坊ちゃまで、実家は錦衣玉食きんいぎょくしょくの富豪であると勝手に思っていたからだ。

 まさかこんな所が彼の住まいではあるまい。僕は掘立小屋の外で様子を窺った。そのうち、木の板を繋ぎ合わせた壁にわずかな隙間があるのを見つけた僕は、草萊あれちを踏み分けて小屋に近づき、その隙間からこっそり中を覗いてみた。何だかいけないことをしているみたいで、僕の肩は強張った。

 中には稔以外にもう一人、体格の良い中年男がいた。男がにやにやを薄気味悪い笑みを浮かべているのを見ていると、何だか嫌な気分がしてくる。二人の間に流れている雰囲気が、何処かおかしい……

 その時抱いた嫌な予感は……程なくして的中してしまった。男は下を脱ぎ、稔は男の股に顔を近づけた。涼しい風が吹いているというのに、僕の首筋には汗が滝の如くに流れている。

 そこから先のことは、口にするのも憚られるような、風紀紊乱びんらんも甚だしい有り様だった。男の荒っぽい獣の息遣いと、まだ声変わり前の少年の嬌声が、粗末な小屋から漏れ出て僕の耳を苛んだ。

 このような光景を見た僕は、身を震わせるほどに嚇怒かくどした。今自分の手に銃でもあったら、立ちどころに僕はその火筒を男の頭に向けていただろう。それほどまでに、目の前で稔を凌辱している男を激しく憎悪した。けれども、僕の手に武器の類はない。流石に素手で立ち向かうような暴虎馮河ぼうこひょうがの勇などあるはずはなく、ただ僕は袖手傍観しょうしゅぼうかんするに留まっていた。


 やがて事が終わり、男が小屋から出てきた。僕は小屋の外に茫々ぼうぼう茂った秋草の中に身を潜め、その背をめつけながら男が遠ざかっていくのをじっと待った。ぎりぎりぎりという歯を噛み締める音が、自分の口の中から聞こえてくる。


「見てたでしょ」


 その声に、僕はびくっと背を震わせてしまった。いつの間にか、僕の左方に稔が立っていた。夕陽を背負って逆光になっていても、彼の明眸ははっきりとこちらを向いているのが分かる。稔の足元から伸びる長い影法師が、僕の方まで伸びて足首を捉えていた。


「……あれは誰?」


 この時の僕の声は、きっと震えていただろう。怒りからなのか、それとも恐れからか……恐らく両方だろう。

 

「……僕の父さんの会社の取引先の社長。あの人はこういう場所でするのが好きなんだ」


 答えた稔の声もまた震えていた。その声色に内包された怯えが、僕に確信させた。ああ……やはり稔は、無理矢理あのような行いをさせられていたのだ……。

 その時、僕の恐怖心は、すっかり憤怒に上塗りされた。


「僕が力になろう。君が苦しんでいるのを黙って見てはいられないよ」


 この前まで稔とろくに話したことがなかったのにもかかわらず、僕は少しの言い淀みもなくそう宣言した。力ない子どもに尊厳凌辱を働く醜類を、僕は決して許せない。相手はきっと金持ちで権力者だ。だから大人に相談したところで無駄なのだろう。子どもながらに、僕はそう直感していた。

 

「……本当?」

「ああ、約束する」


 涼しい夕風が蕭瑟しょうしつと吹き寄せる。稔の小さな白い手を、僕は固く握った。彼の手は細く弱弱しく、掌の皮膚は柔弱で、ペンより重いものを持ったことがないのではないか、と思わせるほどだった。

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