有我

明丸 丹一

有我

       ○


 王子は不思議な子供だった。感性は王族というより神官に近く、武芸や政治についての話より、なぜ人は死ぬのか、なぜ人は生きるのかということを聞きたがっては家来を困らせた。その王子が近隣の国の姫との婚姻を断り出家すると言い出したとき、幼少のころから仕えていた者たちは皆、さもあらんとうなずきあった。

 止める者ももちろんあったが、王子の意思を変えることはできなかった。それはまた神官においても同じことが言えた。本来は神官に生まれついた者でなければ真理について学ぶことはできない。しかし王子の決意の固さと身分の力が功を奏したのか、結局それを許されたのだった。


       ○


 冬の日、ろうそくの火だけが照らす薄暗い部屋のなか、導師は弟子たちに向かって問うた。

「なぜ土地は国たりえるのか」

 王子は答えた。

「それは民がいるからです」

 導師は続けて王子に聞いた。

「では、なぜ小屋は家たりえるのか」

「住む者がいるからです」

 ふむ、と首を傾げた導師はしばらく考えてからもう一度聞いた。

「私と死者の違いはどこにある」

 王子は命のあるなしだ、と思ったが既に老年である導師にそれを言うのは恐れ多い気がして黙っていた。導師は他の者はいないかと弟子たちを見回したが、誰一人として答えようとする者は無かった。導師はひとつため息を吐くと自ら話し始めた。

「私と死者の違い、それは心があるかないかだ。なぜ小屋は家たりえるのか。それは家を見る者に心があるからだ。なぜ土地は国たりえるのか。それは土地を見る者、土地に住む者それぞれに心があるからだ。心。心だ。」

 そう言うと導師は、また新しい問いを発した。

「ここにひとつサラの樹が生えているとしよう。私たちはその樹をどうやってサラの樹だと識るのだろうか」

 この質問は例えこそ違うものの、かねてより繰り返されてきたものだったので多くの弟子が回答した。

王子は「私は見ることによってそれを識ります。サラの花の淡い黄色によって」と答えた。またある者は「私は風に揺れる葉音によって識ります」と言った。他の者も「緑の匂いによって」「樹に生っている実の味によって」「皮の硬い触り心地によって」識ります、とそれぞれが答えた。

「そうだ。すなわち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識によって樹がそこにあること、その樹がサラの樹であることを私たちは識る。ではその形が、音が、匂いが、味が、肌触りがなぜサラの樹のものである、と私たちは覚えているのだろうか。誰か分かる者はいるか」

 そういって導師は弟子たちを見た。王子は「それがサラの樹のものだからです」と言ったが、導師は首を振った。

「違う。サラの樹に形が、音が、匂いが、味が、肌触りがあるわけではない。そうではなく、我々がその絵や音をサラの樹のものだと意味付けているだけなのだ。つまり五識で感じられる、樹の実体そのものではないそれらの性質に意味を与えているもうひとつの識があるということだ」

 そこで導師は言葉を切って、弟子たちの顔を見回してから言った。

「これを意識という」

 王子はそれを聞いて質問した。

「導師。五識には眼や耳や鼻、舌や肌といった器官があります。意識はどこにそのようなものがあるのでしょうか」

「それはなかなかいい質問だ。しかしもう少し待ちなさい。その前に今までの話をまとめてしまおう」

 王子はうなずいた。

「私たちは普段ものを見るときには目を使う。音を聞くときには耳を使う。ある具体的なもの、例えば樹を見るとき、その形をもの自体と結びつけてその樹がサラの樹だと識る。このとき、樹の形を見ているのは目だ。これを眼識という。そして、樹の形をサラの樹だと結び付けているもの。それを意識という。

 さて、どこで意を識るかということだが……」

 導師は眉間のやや上、額の中心を指差した。

「ここだ。全ての意はここで識られる」

 王子は神の御姿が描かれた絵を思い出しながら言った。

「それは第三の目、ということですか」

「そうだ。五識で得られた形や音は、意識によって意味を与えられ心に届く。しかし第三の目を外から見ることは出来ないから多くの者は意識の存在に気付かない。気付かなくとも働いてはいるから普通に生活する分には支障ないがね。

 だがもしこの第三の目を自由に開くことが出来たなら、また五識を自分の思い通りに働かせることが出来たなら。これがどういう意味を持つか分かるかね」

 王子はそのことが指す内容に興奮した。

「自分が見たいようにものを見、感じたいように感じることが出来るということですね」

 導師は何度もうなずきながら言った。

「その通り。その境地に達すれば、石は神となり、苦きは甘きとなり、災いは幸福となる」

「そのような高みに昇るにはどうすればよいのでしょうか」

 王子は聞いた。

「逸るな。若者よ。物事には順序というものがある。だれしも一夜にして家を建てることは出来ず、月がひと巡りする間に大木を育てることは出来ない。修行あるのみだ」

 そう言って話を締めくくった。


一息ついて、導師が口を開いた。

「しかしここは少し寒いな」

 導師はどこからか透明な赤い宝石を取り出した。

「この石は火の象徴だ」

導師はそれをろうそくの火に近づける。火は宝石を通して部屋を赤く照らした。そして火の神についての詩を一節吟じた。

「これで少しは暖かくなったろう」

 弟子たちは感動に震えた。実際に暖かくなった様に感じられたからだ。王子も、興奮している他の弟子たちを尻目に見ながらひとりいつまでも震えていた。


       ○


修行の基本は瞑想である。しばしば誤解されるが瞑想とは真理について考えること、ではない。それは真理を得る土壌を作るための基礎訓練だ。具体的には何かを見たり聞いたりしても、何も想起しないように、言い換えれば何も意識しないようにする。とはいえ、基礎つまり土台であるということは全ての技の基本であるということだ。そう簡単なものではない。

修行の監督をしている兄弟子にそう聞いてはいたが、王子は自分の才能の無さに失望を感じていた。王子は自分には何かを考える才があると思っていた。自分より頭の良い者や、計算の速いものはいくらでもいるだろうが、あるひとつの問題について考え続けるということに関しては自分に勝る者はいないだろう、とうぬぼれていたのである。それが仇となった、と王子は感じていた。王子にとって、何かを考えていないというのはつらいものだった。王子は自分のその欠点に気付いたが、だからといってすぐさま直せるものでもなかった。

ある日、いつもの通りの瞑想の時間に、占いについて疑問が湧いた王子である。そも、神官の行う仕事は祭祀である。それは主に卜占と儀式に分けられる。卜占とは、占象から神意の兆しを読むことである。修行において神とは第三の目を扱える者のことであり、昔の達人や真理を表していると考えられた。つまりそれは、神は人間であるか、架空の存在だということだ。しかし修行においての神と、占いのときにその意を問われる神の名は同じである。が、その内容が一貫していないのではないか。王子がそこまで考えていたとき、瞑想している弟子たちを見回っていた兄弟子に注意された。慣れれば瞑想をしている者と考え事をしている者を細かなしぐさで見分けることが出来る。

王子は意を決して修行と占いの神の問題について質問してみたが、兄弟子は今は瞑想の時間だと言って一蹴した。それよりも自分が注意したことを無視して質問したことを反抗的だと思ったようだった。

王子はその様子を見て謝ろうと思ったが、ぐずぐずしているうちにその兄弟子は行ってしまった。


その日は苦行をやることになっていた。王子は苦行をやる意味については大方理解していたつもりだった。苦行とは眼や耳などの五識を酷使、もしくは封じ、その分を心で補う修行である。

王子の目の前には熱した石が敷き詰められた道がある。そろ、と足をつける。じゅっと皮膚が焼ける感覚がして、王子は石の道から飛びのいてしまう。初めての者は足に水をつけることが許されていたので、王子はそうしながら石渡りを行う兄弟子や導師を観察していた。渡りきった者たちは皆ひとつの場所にとどまらず、すいすいと歩を進めていた。どうやら、一気に渡ってしまうのがこつらしかった。

そこに気付いても、王子が石の道を渡りきるのにはその後何回も挑戦しなくてはならなかった。とはいえ、弟子のなかには渡りきることが適わなかった者もいたので王子が特別不出来だったわけではなかった。

しかし王子はひとつ失敗した。

「素早く駆けて渡りきってしまうのは修行の本来の意味から外れているのではないか」

 と、そう近くにいた兄弟子に聞いてしまったのだ。そのうえ、その兄弟子は瞑想の時間に王子を注意した、あの兄弟子だった。兄弟子は激怒した。修行に身が入っていない、あまつさえ修行自体を疑う、それはあってはならないことだ。そういった意味のことを兄弟子は王子に言った。王子は兄弟子がなぜこれほど怒っているのか、よく分からなかった。


 導師は王子を呼び出した。そしてこう訊ねた。

「近頃、修行に身が入っていないようだな」

「はい……いいえ。道を究めたいという思いは変わりありません。しかし……」

王子は言葉につまって、うつむいた。

 「修行法について何か言っていたようだな」

 「はい。……導師さま、苦行は何のために行うのでしょうか」

 「苦行は識を封じ、識を自らのものとするためのものだ。知らぬわけではないだろう」

 王子ははい、と一度うなずいてから言った。

 「先日行われた石渡りでは、多くの人々がひとつの石に長くとどまらずに素早く渡りきっていました。私もそうしなければ渡りきることは出来ませんでした」

 「ふむ」

  導師は話を促す。

 「しかし、それでは石を渡るために渡っていることにはならないでしょうか。苦行本来の目的から離れてしまっているのではないでしょうか」

 「なるほどな」

 導師は納得した。

 「お前の言いたいことはよく分かった。しかしな、あの行は古来より伝わるものだ。おいそれとやめるわけにはいかん。それに、そうする必要もない。

それより問題は別のところにある。……第三の目について教えた日のことを覚えているか」

「はい」

「あのとき、最後に私が何をしたか、くわしく話せるか」

 王子はちょっと考えてから、とまどいながらも口を開いた。

「導師さまは袖のかくしから赤い石を取り出されました。その石をろうそくに近づけると、石の赤さが明かりに伝わって部屋を照らしました。その後、火の神の詩を吟じられて、最後に体を心持ちだらっとゆるませられました。そうすると皆は暖かくなったと……」

 導師は厳しい表情をしていた。

「しかしお前には感じられなかった。そうか」

問いかけられて、王子は首を縦に振った。導師はそれを見てため息をつく。

「本当はこういうことは言わないのだが。あの時の場合、赤い色や詩、体を弛緩させること。全ては暖かさを感じさせるものだ。うまくやれば自分はおろか他の者にもそれを感じさせることが出来る。しかし神官の技も言ってみればひとつの技術だ。効果は人によってゆらぎがある。効かない者、掛かりにくい者もいる。お前は他の者より多くのことを見通す目を持っているようだ。それは優れた神官に必要なことではあるが、神官になることには致命的に適していない。神官は疑問をもってはならないからだ。理が先行して実を見失うことはあってはならないが、実に囚われるのも問題だ」

導師はそこまで一気に言って王子を見据えた。

「道はひとつではない。お前はお前の道を行くのがいいだろう。何も破門する、というわけではない。先王には恩もあることだ。

とはいえ、このままここに置いておくわけにもいかない。お前には遊行に出てもらうことにしよう」

王子はその言葉を聞いて衝撃を感じた。しかしその感じ方は導師からすれば、やや的外れに思えたかもしれない。王子が考えていたのは、神官の技と教えが人によって向き不向きがあるようなものならば、それは唯一の正しいものなのだろうか、ということだった。


      ○


 王子は長年過ごした修行場を出た後、諸国を巡り歩いていた。聖人や賢者と呼ばれる人々を訪ねては教えを乞い、また問いを投げかけることを繰り返す毎日である。

 例えば、こんな問いがあった。

「神官の技によって思いのままに見て、感じたいように感じることが出来たとして、それは本当に正しいのでしょうか」

 それに答えて、東の聖者は言う。

「無論正しい。人が、自らの力で幸せになる唯一の方法だ」

 それに答えて、西の達人は言う。

「正しさなど関係ない。それよりまず出来ることの方が重要だ」

それに答えて、南の賢者は言う。

「なぜそのように考えるのか。神官の技ではなく君の方に問題があるのではないのか」

 それに答えて、北の哲人は言う。

「そもそも君の言う正しさとはなんだ。偽物ではない、ということかね」

 王子は続けて質問する。

「自分の見たいものだけを見て、感じたいように感じることが、ですか。自己満足に過ぎないのでは」

「自己満足でもよいのだ」「その通りだ。いけないのかね」「そうするのは神官に限らん」「真実はひとつではない。あるいは人の数ほど存在する。そういうことだ」

結局どの人物も王子の求める答えを知らなかった。彼らの多くは神官の技の実践者であって、理論の研究者ではないのだ。王子は神官の技に対して疑問を持ちながらも、むしろそのために深くのめり込んでいった。


      ○


 その日、王子は近くの川のほとりで休んでいた。木陰に座り、微動だにしない。瞑想ではない。目を閉じ、湧き上がってくる心象に思いを馳せていた。識を封じ、心で補う。修行の基本である。


      ●


このようなことを続けていて、はたして本当に真理に近づくことができるのだろうか。そもそも真理とはなんだ。――正しい教えと正しい生き方のことだ。では、正しさとは。神官の教えと技とはどういうものか。――それは感じたことが全てではないということ。自分が目で見て、音を聞いて、触れて感じているものが必ずしも真ではない。それ以外にも別の感じ方があるということだ。それを意図的に行うのが目を使う、ということ。私は目を使うことが出来るようになるだろうか。いや、私はまだ私ということにこだわってしまっている。到底、不可能だ。私。私。私。私は、私から抜け出ることは出来ない。私の目はあの赤い宝石だ。私が見ているものは私の目の色に染まってしまっていて、真の色を見ることは出来ない。他の者が見ればそれは青く、また他の者が見ればそれは黄色いのだろう。


      ○


王子は、唐突に気付いた。それは長年追い求めた問いの答えではなく、問いが含む構造そのもの。


      ●


だとしたら、見る者によって色が変わるのなら、真の色など無いのではないだろうか。本当は、全ては透明で――。

私は私の見る色を変えることは出来ない。それは私にとっては私の見えかたが真実だということ――。


それはどちらも真理だ。


であれば、眼を使う必要はない。ただ、見ればいいだけだ。自然のまま。


       ○


王子は目を開いた。

風が、王子の頬を撫でる。

ふと首を上に向けると、視界は青で埋め尽くされた。

空は澄み渡り、雲ひとつ無い。


                            了

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有我 明丸 丹一 @sakusaku3kaku

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