第26話(終)


 散歩と呼ぶにはやや速すぎる速度で和彦が歩いていくのに、郡司は顔色ひとつ変えずについていっていた。むしろ、和彦の方が疲れて息を切らし、そしてとうとう足を止めた頃、郡司は眉をひそめた。

「君、また体力が落ちたんじゃないか?」

「…… うるさいな」

 一年中家に籠りきりであることを責められそうな気配に、和彦は顔をしかめた。しかし郡司は、そういえばと話題を変える。

「薫子ちゃん、土手の方回ってくるってうちのと話してたからこのまま向こうへ行ってみ―― おい、ちょっと」

 郡司の言葉を聞いて即座に進む和彦の肩を逃すまいと郡司の大きくがっしりした手がつかむ。

「べつに薫子ちゃん、君のこと怒ってなんかなかったぞ。むしろ、君の言ったひとことにひどく傷ついているみたいだったから、はやく会って――」

「…… だからだよ」

 和彦は道の途中でうつむいて立ち止まったまま言った。手持ち無沙汰に袂へ手を出し入れしながら、下駄を履いた自分の足元を見つめる。

「ふみにも話したけど……。彼女が俺に懐いているように見えるのはたぶん一種の暗示のようなもので…… たとえば、もし仮に郡司が先に彼女と出会って結婚していたら、ひょっとすると彼女は君を好きになったんじゃないかと思うんだよ」

 隣で、はあーっと深く長いため息を吐く音が聞こえた。

「どうしてそういう考えになるんだよ、君は」

 呆れているようではあったが、郡司の声は特別責めるようではない。和彦は黙ったまま、友人の言葉にはなにも返さずに歩き出した。

 しばらく歩くと、すっかり散った桜の木がちらほらと見えてくる。もうすぐ桜の季節も終わりだ。

「…… 彼女が普通の、ごく普通の―― せめて、ただ親から見合いを勧められただけの子であればよかったさ。でも彼女はそうじゃないだろ」

 地面には幾ひらもの桜の花びらが散っている。

「…… 俺には、好きな人と一緒にいられて嬉しいって気持ちでいっぱいの、ただそれだけの子に見えたけどね」

「だからそれが勘違いかもって――」

「勘違いし合うくらいがちょうどよかったりして」

 少し笑いながら言った郡司を、和彦はじとりと睨みつける。

「…… なんか段々面倒になってないか」

「今更だな」

 なかば八つ当たりのように尖った態度を見せると肩をすくめてあっさりかわされた。

「和彦が面倒なのは別に今始まったことじゃないよ。有馬もだけど」

 思い当たる節がありまくるせいでなにも言い返せない。正直言って、郡司がいなかったら有馬との関係は桜子が亡くなってから間もなく破綻していたのだろうと思う。

「………… 帰る」

 絞り出すような声でやっとそう言えば、郡司がさっきよりはいくらか和らいだ声で「そうしな」と言った。



 帰ってきてしまった。

 私は円城寺さんの家の玄関の前で扉に手をかけた状態で立ちすくんでいた。

 だってこんなの、まるで子どもだ。自分の立場も考えず、勝手な理由でやきもちを妬いて困らせた。どの面を下げて帰ればいいというのか。こんなことなら八重さんに家の前まで一緒に来てもらえばよかった。無駄に格好つけて途中まででいいなんて言うからこんなことになる。できるだけ音を立てないように戸を開ける。玄関には円城寺さんの下駄はなく、代わりに革の靴が置いてある。…… 誰だろう。たぶん有馬さんか郡司さんだけど、じゃあ円城寺さんは? ひょっとして、私が戻ってくるのが嫌で出て行ったとか―― それはないか。私が嫌になったなら、私を追い出せばいいだけの話だし。

 だって円城寺さんは私を愛さないと言った。あの人は嘘なんて吐かない。

「なにしてんだ、そんなところで」

 あれこれぐるぐると考えていたところに突然声をかけられて、私はびくりと肩を跳ねさせた。

「いや、人の気配がしたから……。和彦は散歩」

 私の驚きように逆に驚いたのか、有馬さんはややたじろいぎつつ教えてくれた。そして私と入れ替わるように「俺もそろそろ帰ろうと思ってたんだ」と玄関にあった革靴を履きながら言った。

「え、か、帰るんですか」

「俺がここにいたってしょうがないだろ」

「…… そんなの」

 引き留めようとする私をあしらうように言う有馬さんに、思わず反発するような声が出る。こんなの八つ当たりだ。

「そんなの私だって」

「ここはあんたの家だろ」

「………… 頷く権利は、私には……」

 とすんと頭に軽い衝撃が与えられ、そのせいで言葉が遮られた私は頭を抑えながら顔を上げた。有馬さんが私の頭に手刀を振り下ろした状態のまま私を見ていた。

「あんたがどう思ってようが、それでもここはあんたの家だ」

「でも―― でもっ」

 淡々と告げられて、私は自分でもわからないままにすがるような声を出していた。

 あの人は私を愛さないと言いました。

 言いかけて、口をつぐむ。

 この家を自分の家だと言う権利なんて私にはない。たしかにそうだ。でも……―― でも、私の気持ちは?

「…… 今度、俺の絵の展覧会があるから。あいつと来いよ」

 黙り込んだ私の前で有馬さんが言った。

「これ友人夫妻に対する招待とかじゃないからな。あれだ、絵の師からの命令だからな」

「…… えっ…… 有馬さん私に絵のことはほとんどなにも教えてくださらないじゃないですか」

「あんたも言うようになったな」

 ほぼ反射で言うと苦笑で返されて慌てて謝ろうとすると有馬さんは気にしていないとでもいうふうに手をひらひら振った。玄関の戸を開けて有馬さんは今度こそ帰っていった。玄関には私一人が取り残される。

 人の気配のない家の玄関。父と母がふいにいなくなってしまったあの日を思い出す。

 もう一度、帰るところをなくしたら、私はいったいどうするのだろう。

 ―― 円城寺さんが帰ってこなかったらどうしよう。

 私は履いたままの下駄の踵を返した。全身の内側に冷や水を流し込まれたようにぞっとして、そのくせどくどくと喉元が熱く脈動している。たった今有馬さんが閉めた戸に手をかけたその瞬間、がらりと向こう側から開いた。

「あっ……」

 開いた戸の向こうからのぞいた人影が、私とまったく同じ音を発して動きを止めた。

「…… おかえりなさい」

「―― お、おかえりなさい」

 円城寺さんが先に言って、私もまたまったく同じ単語を言った。それからしばらく沈黙が訪れる。沈黙を破ったのは円城寺さんだった。

「昨日はすみませんでした。…… 少しむしゃくしゃしていて」

 まさか彼の方から謝られるとは思っていなかったので私は戸惑った。

「いえ、私の方が。勝手にお部屋に入ったりして」

「いや、部屋に自由に入っていいと言ったのはそもそも私の方だし……」

「で、でも勝手なことをしたのは私で……」

 円城寺さんは本気で自分の方が悪いと思っているみたいだった。でもそれでは困る。だって昨日は、どう考えても私の方が悪いのだ。円城寺さんは私の顔を見て困ったように視線を動かした。

「…… では、お互い様ということで」

「………… はい」

 納得いかないが円城寺さんが引き下がってくれないのならどうしようもない。仕方なく頷いて、ふと円城寺さんの肩に桜の花びらがついているのが目に入る。

「…… 桜」

「え?」

「花びらが」

 指摘しつつ肩に手を伸ばすと彼はああ、と言って同じように肩に手を伸ばした。爪先同士がぶつかり、思わず体をこわばらせた私の手を円城寺さんがつかむ。そんなふうに突然触れられたのは初めてで、私は少なからず混乱した。言葉を失っている私の手のひらに、彼はなにかを押しつけてきた。

 ―― 桜の花だ。

 戸惑いつつ手を開いて渡されたものの正体を確認すると同時に円城寺さんが口を開く。

「押し花にしようと思って…… 作り方、知ってますか」

 やっぱり子ども扱いされている。悔しいが自信がないので「いいえ」と首を振って彼のあとをついていく。新聞紙ではさんだ桜に適当な本を乗せて顔を上げると、わずかに円城寺さんが微笑んだ気がした。

「展覧会の頃にはできるかな…… あ、今度ふみ―― 貴史の個展があって」

「あ―― 聞きました。有馬さんに」

「薫子さんと来いと言われて」

 それも言われた。

「たのしみです。展覧会、行ったことないし」

「たのしいですよ。あいつは風景画のほかにも色々描いてるから」

 そう言う彼の表情はさっきからあまり変わっていない。有馬さんならきっとわかるんだろう。私が黙り込むと、円城寺さんも黙り込んだ。しばらくして、円城寺さんの方が「薫子さん」と再び口を開く。

「あなたの家の、整理が終わりました。権利関係も…… 娘であるあなたに断らずにどうかと思ったのですが…… まあ家自体はいずれあなた名義にしてもいいしと思って」

 いったいなんの話をされているのかわからず黙って聞いている私の顔を、円城寺さんが正面から見つめた。

「…… あなたが望むなら、すぐにでも戻ることができる」

 私はまだなにも言えない。円城寺さんは続ける。

「すぐに決める必要はないですよ。ただそういう状況であるということだけ」

 ああそうか。前に何日か留守にしたのはそのためだったのか。端から徐々に噛み砕いていき、ひとつの事実にたどりつく。

「戻った方が…… ここにいない方がいいでしょうか」

 自分でもはっきりとわかるくらいに沈んだ声が出て、めずらしく円城寺さんが慌てたように姿勢を変えた。

「そういう意味ではなく―― というかさっき、展覧会に行く約束をしたはずです」

「約束……」

 私は円城寺さんの言葉を繰り返した。どうしてか、お見合いのときの彼のことを思い出す。妙に安心した。あんな場で、あんなことをいう人に。

 友人にまで、わかりにくいと評される彼に。

 私は顔を上げ、結婚したばかりの夫を見た。やっぱり表情は変わらず、よくわからない。

 でも、まあいいかと思う自分もいる。

 押し花の上に重ねられた分厚い本の表紙をなぞる。まだ読んだことのない本だった。現在の役目を果たしたのちにでも読むことに決めながら私がもう一度「たのしみです」と言うと、今度は彼の方も「私もです」と言ってくれた。

 窓から吹いてくる風から、青々と茂る緑の匂いがする。私が彼の気持ちがわからないように、彼にも私が今どれだけ明日が楽しみかなんてほとんど伝わっていないんだろう。でも出会ったあのときよりもほんの少しだけわかるようになった気がするように、明日、今日よりほんの少しだけわかるような出来事があるかもしれない。

 たのしみだ。

 私はもう一度本の上から押し花を撫でた。まだ見ぬ明日へ、淡い想いを馳せながら。


 ―― 余談だが、髪切り男は後日御用になった。



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私の夫はヤモリに似ている 水越ユタカ @nokonoko033

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