第25話


 和彦は、玄関の前の床に座り込んでいた。がむしゃらにあちこち走り回ったが、薫子はどこにもいなかった。つい、桜子のことを思い出してしまって、自分を責める。今考えなければいけないのは薫子のことなのに。自分は、この期に及んで、まだ。

 あれこれ考えていると、玄関の引き戸ががらりと開いた。

「おまえ、なにしてんだよ。そんなとこで」

 有馬はぎょっとしたような顔で幼馴染を見ると、その憔悴ぶりに眉をひそめる。

「一応おまえが行ったのと反対側の通りと土手の方も見てきたけどいなかった。だから――」

 家の奥から電話の鳴る音が響き渡った。有馬は言葉を止めて和彦を見るが、出られるような状態でもなさそうなのを見て靴を脱ぎ居間まで駆け込んだ。居間から有馬が受話器を取る音、相手と会話する音が順に聞こえてくる。しばらくすると受話器を置く音が聞こえて、それから有馬が「和」と居間から出ながら言った。

「薫子さん、郡司のとこにいるって。とりあえず今日は泊めるから心配しないようにって…… おい、聞いてんのか」

 有馬がそばへ膝をついて顔を覗き込んでくる。この幼馴染はいつもどこか和彦に対して心配性というか、時には度が過ぎるほどに過保護だ。―― それは多分、桜子に対してもそうだった。

「………… あの子のことを考えていた」

 ぽつりと漏らすと、有馬がひくりと反応した。

「あの子って………… あの子か?」

 和彦は頷いた。

「馬鹿だろ。この期に及んでまだ、あの子のことを考えてる。あの時みたいに、あの日みたいに、突然、急に…… ふいっと、いなくなってしまったら。あの子みたいに、帰ってこなくなったら…… って」

「それは」

 あの子のことじゃない。薫子さんのことだ。

 有馬は言おうとして、口を噤んだ。あの日から、どれだけ言葉を重ねて、どれだけ衝突してきたか知れない。どれだけぶつかろうと、傷つけようと、あの子は帰ってこなかった。

「あの日から、毎日のように考える。今日、急に帰ってくるかも………… 帰ってこないかな、とか…… 目が覚めたら全部夢で、起きたらまたあの子が……」

 その先は飲み込まれたか、宙へと消えたか。尻すぼみに言葉を失った和彦はゆっくりと頭を垂れた。

「…… このままじゃ、彼女に向き合えないって思うけど、でも……」

 和彦は、そのままぎゅっと目をつむった。何かに耐えるように、手と手を握りしめながら、強く。

 有馬にはこの男の気持ちが痛いほどわかった。目の前のこと、今起きていることに誠心誠意向き合わなければいけないのはわかる。だけどそれをしたら、前を向いてしまったら、あの子のことを忘れたら、それは、あの子に対するひどい裏切りであるような気がしていた。妹を喪った哀しみの中にいる親友に対しても、また。

「―― 今日はもう、飯食ってクソして寝ろ。そう難しく考えるな」

「…… おまえが言っても説得力がない」

「殴られてえのか」

 真面目な顔で喧嘩を売ってくる親友を立たせて、有馬は彼を部屋へと促した。

 なんとか食事を摂らせたあと、安眠できるような気分じゃないという和彦の横に有馬はもう一枚布団を延べて横になった。なんだか懐かしい。桜子が亡くなったときを思い出す。当然今の方が程度は柔らかいものの、和彦はちょうどこんなふうになにも食べたくない、眠くないの一点張りで使用人ではどうにもならず、有馬は彼の世話に追われたのだった。

「…… 鳥のヒナのようなものだと思うんだ」

 和彦は布団に横たわった状態のままぽつりと言った。本に埋めつくされた狭い部屋では場所がなく、夫婦かというほど布団同士をくっつけて寝ることになる。この家はもともと彼の母方の祖父母の家で、以前は彼の祖父の部屋だった。彼の祖父も彼と同様、本が好きだったので似たような部屋の有様だった。

「もし、もしも、あの時見合いをしたのがふみだったら、薫子さんはおまえに懐いていたと思うんだよ…… というか、今だっておまえのことすごい気に入ってるみたいだし」

「なにをこないだから拗ねてんだ、おまえは」

「べつに、拗ねてるわけじゃあない」

 言いながら、和彦はごろりと向こう側を向いた。拗ねているじゃないか。有馬は少しだけ苛つきながら自身も和彦とは反対側に寝がえりを打った。

「その話の後半の真偽は別として、まあ、言いたいことはわかる」

 有馬は、過去に自分のことを好きだと言ってくれたたった一人のことを思い出していた。

「あの子も…… たぶん、俺しかいなかったんだろうなと、思うよ。あのときも思ったし。…… 消去法ってわけじゃないけど、身近な年上の人間に憧れる年頃ってのは、誰でもあるだろうし」

「桜子は誰でもよかったわけじゃない」

 和彦が噛みつくように言ってきて、有馬は振り返った。和彦は、少しも眠たくなどなさそうな目でこちらを見ていた。

「だからそれはわかってるって」

「わかってないだろ」

「わかってるわ」

「わかってない」

「表出るか?」

「…………………… いや、それは、いい。この時期まだ寒いし」

 一転して冷静な顔に戻って布団へ潜り直した幼馴染に、有馬はまた苛々を募らせる。

「初めて、会った時に」

 大人しく目を閉じて横になった和彦を見つつ、自身も横になろうとしたとき、ふいに和彦が口を開いた。

「あなたのことを愛することはこの先たぶんない、というようなことを、言ったんだ。薫子さんに」

「…… なんで?」

「彼女に対して、誠実じゃないと思った。すべてを取り繕って結婚生活を重ねていくよりは、その方がいいような気がしたんだ。…… 本当は、自分が楽になりたかっただけなのかもしれない」

 ―― 馬鹿というか、なんというか。

 昔からそういう男だったが、この男の馬鹿正直なところ―― よく言えば誠実な部分がこうまで悪い方向へ働いたのは有馬の知る限りでは初めてだった。本人もきっとそうなのだろう。だからこんなに戸惑っているのだ。柄にもなく。本当に、面白くない。

 彼が始めて書いた話は、幼馴染の少年と椿の花を主題にした日常を描いたものだった。そこには友情と呼ぶには深い、けれど恋とはかけ離れたものが繊細に描写されていて、有馬は嬉しい気持ちと同時に、哀しみにも似た苦々しさを覚えた。

「…… 今度、また個展があるからおまえも来いよ。薫子さん連れて」

 背を向けて布団を被る幼馴染に有馬は言ったが、返事は返ってこなかった。

 朝起きてまず見た男の顔に結局昨晩は一睡もしていないのだと知る。有馬はため息を吐いた。

 そんなにも不安か。彼女が帰ってこないかもしれないと言うことが。無意識に頭をかきむしったところで、玄関で声がした。

「和彦は?」

 訪問者は郡司だった。

「徹夜したせいでぼーっとしてる。飯も食わないし。薫子さんは?」

「おんなじだ。なんか食欲ないみたいで、昨日の夕飯も今朝の朝飯も食べてない。こっちは床が変わったせいかもだけど、あんまり眠れなかったみたいだし……」

 以前から感じていたが、あのふたりは案外似た者同士だ。郡司を連れて居間へ入ろうとするとちょうど、便所から和彦が出てきたところだった。

「なにも食ってないのに出すなよ、ただでさえ細いんだから」

「生理現象に文句言うなよ」

 有馬がからかうように言ってやると、和彦も負けじと返した。その様子に思っていたよりも大丈夫そうだと判断を下した郡司が口を開く。

「薫子ちゃん、多分昼には帰ってくるよ。うちのとその辺散歩して帰るって言ってたから」

「え」

 郡司の言葉に和彦は目を見開いて動きを止め、かと思えばじわじわと後ずさって柱に頭をぶつけた。それからしばらく視線をさまよわせて、なにか決めたように大股で廊下を進み玄関へ向かう。

「おい、どこ行くんだよ」

「―― さ、散歩」

「薫子ちゃんすぐ帰ってくるって言ってるだろ!」

「い、いやだっ……」

 出会った当時のような、ともすれば少年同士のような攻防を繰り広げながら郡司は和彦とともに外へ出て行ってしまった。

 有馬はまた苛々と後頭部をかきむしって、それから深いため息を吐いた。この間に薫子が帰ってきたらどうしようか。向こうの状態にもよるけど、向こうも和彦に会いたくないと思っていたら、やっぱり自分がなんとかするしかないのか……?

「…………」

 八重が一緒に来てくれていることを望むばかりだ。

 有馬は縁側に腰かけ項垂れた。わかってはいたが、なんというか、くるものがある。

 彼女が描いたあの夕日に心打たれたのも、彼女のおかげで和彦がまた書き始めたのもわかっているが。わかってはいるだけに。

 有馬はもう一度、長いため息を吐いた。

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