第24話
「あなたには関係ない」
そう、口にした瞬間だった。
しまった、と思うより先に手が振り払われて、次に顔を上げた時には薫子はいなかった。廊下を駆け抜ける音、玄関の戸が開く音がする。薫子が出て行ったのだと気づくのに数秒かかる。―― 追いかけねば。追いかけてどうする? なにを言う? まず違うんだと弁明して―― そもそもなにが違う? なにも違わないじゃないか。
机の上に目を落として、一枚の紙が目に入る。郡司が置いていった、警察からここ一帯に配られている不審者に対する注意喚起のチラシだ。薫子が、巷を騒がせている髪切り男の被害に遭ったのは記憶に新しい。そのときのことを思い出した和彦の背に、ぞくりと悪寒が走った。
急いで玄関の外に出るが、薫子の姿はもうどこにもなく、右へ行ったのか左へ行ったのかすらわからない。迷った末、暗く人通りの少ない方へ足を向けた。真っ直ぐだれも通らない道を走っていくが、薫子は見つからないどころか、だれともすれ違わない。
走っていくうち、見知った後ろ姿を見かける。
「―― ふみ、ふみっ」
背後から突然声をかけたためか、彼はびくりと肩を震わせながらこちらを見た。驚きに目を見開く彼にかまわず声を出そうとして、自分の息がすっかり切れてしまっていることに気づく。
「か―― 彼女、見なかったか。…… あの……」
「薫子さんか?」
息を切らしながら尋ねると、和彦が何度も首を縦に振った。
「いないのか」
ついさっき玄関先で会って少しだけ話したことを思い出して有馬は首を傾げた。
「家の中は探したのか」
まだ帰っていないということはあるまいと思い聞けば、和彦はゆるゆると今度は首を横に振った。
「…… おれが」
荒い呼吸を吐き出しながら和彦は話し出す。
「俺が、言わなくていいことを言った。…… 彼女の…… 彼女の話だったのに」
「…… 薫子さんが行きそうな場所に、心当たりは?」
和彦はまた首を振った。それから「わからない」と小さな声で口にして、顔を覆った。
「…… せっかく、たくさん話してくれるようになったのに…… 俺のところ以外、行く場所もないのに――、もしなにかこの前みたいに事件に巻き込まれていたら――」
有馬は肩を落とす友人の肩に手を置いて、「落ち着けよ」とささやいた。
「まだ起きてもないことを考えたって仕様がないだろ。人通りの少ない道は警察で重点的に見回りをするように指導してるって、前に郡司が言ってたからきっと薫子さんは大丈夫だよ」
「でも」
「いいから。…… お前は、向こうの大通りから学校の方まで歩いて探してこい。俺はこっちの道を探しながら行って、ついでに警察署に寄ってくる。保護されてるかもしれないし」
和彦をなだめつつ指示を出すと、彼はようやく大人しく頷いて大通りの方へ向かった。それを見て、有馬も反対側の道へと進み出した。
「―― 薫子ちゃん?」
八重さんは玄関に出てくるなり私の顔を見て驚きをあらわにした。気まずげに視線を逸らす私の横で郡司さんが口を開く。
「和彦と…… ちょっと揉めたっぽくて」
夢中で走っているうちに知らない道に入り込んでいたところを、見回り中の郡司さんに見つけてもらえたのは不幸中の幸いだった。内容をぼかしつつ主だった部分だけ告げた私を、郡司さんはひとまず自分の家に連れてきた。
うながされるまま居間に座ると八重さんがお茶を淹れてくれるが、全然飲む気になれない。出されたお茶にも口をつけず黙って座ったままなのは失礼だとはわかっているけれど、なにか話し出したらその瞬間から涙があふれてしまいそうでだめだった。
「一応、和彦のところにうちにいるって連絡してきた」
背の高い郡司さんが鴨居をくぐりながら部屋に入ってきて言って、私は「えっ」と思わず不安を声に出した。私があまりにもひどい顔をしていたのか、郡司さんが私の頭にその大きな手のひらを乗せてくる。
「大丈夫。あいつは君を無理やり連れ戻しに来たりしないよ。今そばに有馬がいるみたいだったしね」
心配いらないよと郡司さんは私の頭をぽんぽんと撫でると奥の部屋に引っ込んだ。郡司さんが着替え終わると八重さんは私のぶんも夕食を準備してくれたが、とても食べる気になれなかった。
「薫子ちゃん、今日泊まっていくでしょう?」
「え、それは」
八重さんの問いかけに私は慌てた。さすがに迷惑なんじゃないかと郡司さんを振り返るが彼は「泊まっていきなよ」と頷くのみだった。
「そのひと近所に年が近い友達がいないから、話し相手になってやって」
郡司さんが言うと、八重さんは照れたように笑った。
「そうしてくれると私も嬉しいわ。人が多い方がこの子も楽しいかもしれないし」
言いながら八重さんは自分のお腹に手をあてた。そこには新しい命が宿っているのだと、ついこの前教えてもらったばかりだ。
「…… はい。じゃあ…… お世話になります」
私が頭を下げると、八重さんはたちまち破顔した。
「本当? 嬉しい。お布団しいてこなきゃ」
「いいよ、それくらい俺が敷いてくるから君は座って薫子ちゃんと話でもしてて」
立ち上がろうとした八重さんの肩を押さえながら郡司さんが言って、部屋を出て行った。
「仲良いですね」
ふたりを見て思ったままを言えば、なぜか八重さんは頬を染めた。なにかおかしなことを言ったかなと不安になっている私の目に、部屋の隅に置かれた小さな飾り棚が目に留まる。正しくは棚ではなくて、その上に並んだ本の方だ。
和久井まどかというひとの本が何冊か並んでいる。
「…… 本、見てもいいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
名前になんとなく惹かれて、八重さんに許可を取ってからそのひとの名前が書かれた本のうち一冊を手に取る。
「やっぱり自分の旦那さんが書いた本は気になる?」
「はい…… え?」
八重さんの問いかけに一瞬頷きかけて彼女の言ったことをよくよく考え直して私は首を捻った。
「旦那さん……」
「円城寺さんの」
「円城寺さん……」
「が、書いた本、なんだけど…… もしかして、知らない?」
私の様子に八重さんは戸惑いをあらわにした。それから言ってはいけないことを言ってしまったとでもいうように口元を覆った。私は手元の本を見る。和久井まどか。何度見ても女性の名前だ。でも、私はごく最近これとまったく同じような現象に遭遇していた。
…… 有馬さんの絵を描くときの名前は、「椿原ふみ子」という。
有馬さんの場合、彼自身があまりにも有名すぎて本人が男性であるということは多くの人が知っているけれど。私はそれを聞いた時まっさきに円城寺さんが、円城寺さんだけが、あの人を「ふみ」と呼んでいることを思い出してしまった。なんというか、ふたりは幼馴染だというし、つい最近結婚した私よりずっと長い付き合いなのだから当然なのだろうけど、ふたりの間には、ふたりだけの、絆と呼ぶには生ぬるいようななにかがあって。隙間なんてどこにもなくて―― 私が、一生かかってもそこに入るなんてことはきっとできなくて。それが、私のこころをこれ以上ないほど寂しくさせたのだった。
八重さんに断って、最初に書かれたという本を読んだ。幼馴染の少年と、椿の花をめぐる日常のささいな出来事をえがいた話だった。当然そのなかに私はいなくて、彼の世界のどこを探しても私という存在がいないのだと再確認させられたようだった。
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