第23話

 有馬は幼い頃から何度も訪れている友の部屋を開けると、ひとつため息を吐いた。

「少しは片付かないもんか」

 この家はもともと、和彦の祖父母の持ち家だった。十年ほど前に二人ともこの世を去ってから、妹―― 桜子と二人で暮らしていた。

「これでも片付いてるんだ」

 机の前で、客に背を向けたまま和彦は言った。部屋の惨状は以前来た時とほとんど変わっていない。積み上げた本の上に和彦と桜子、有馬の三人で取った写真があるのも変わらない。よくもまあこんな昔の写真を飾っておけるものだと思うが、自分は懐にしまっている手前、何も言えない。

「薫子さんの部屋、あの子が使ってた部屋じゃないんだな」

「ああ、うん。向こうの部屋の方が広いし、知らない男とひとつ屋根の下で暮らさなきゃならないうえに部屋も近いなんて気が休まらないだろうと思って」

「ふーん…… なに書いてんの」

 原稿用紙の束の上で何度もこつこつと万年筆を鳴らしているのが気になって尋ねれば、和彦はいやと後ろめたそうに視線を逸らした。

「……おまえが思って…… 待ってるようなのじゃない。…… ほんの、落書きだ」

 和彦のなかば言い訳のような口調に、有馬はふっと噴き出した。

「いや、おまえ、一番最初に話を書いた時にもそう言って俺に見せてきたなと思って」

「………… そんな昔の…… いや、これはおまえには見せない」

「いいよべつに」

 言って有馬は部屋の空いている場所に腰を下ろした。そして、たまたま手元にあった本をぱらぱらと手持ち無沙汰にめくってみる。窓の外から、雀の鳴き声が聞こえてくる。この部屋に日は差し込んでこない。本が日焼けしないように、あえてそういう部屋を選んでいるのだろうが、暗い部屋では気分も自然と落ち込むものだった。

「何年前だっけな、あれは」

「あれ?」

 ひとりごとのように有馬がぽつりと口にした言葉を和彦が拾い上げ、有馬はやや言いにくそうに「ほら、あの……」と言葉を選ぶ。

「郡司の」

「ああ」

 濁して伝えれば和彦はすぐに察したらしく宙を振り仰いだ。

「四年…… 五年?」

 たしか、桜子が亡くなって間もない頃だったと思う。郡司がいつの間にか交際している女性がいるというので和彦も有馬もたいそう驚いて、それから結婚して間もなく子どもができてまた驚かされたのだった。

「―― ちょっと意外だったんだ」

「結婚が? でもあいつ、結婚は早めにしたいって大学の時からずっと――」

「そうじゃなくて」

 自分に背を向けて話す友に、有馬は首を振った。

「…… そうじゃなくてさ…… あいつ、ああいう時に泣くんだと思って。…… なんか、俺の勝手な印象なんだろうけどさ、あいつがあんなふうに泣くのがなんか、意外っていうか、信じられないというか」

「泣くさ。そりゃあ」

 ふたりの間に子が産まれて、ほんの数か月後のことだった。子どもは、あっさりと亡くなってしまった。流行り病だった。ひょっとすると、そのときにも彼は泣いたのかもしれない。

「…………」

 そうなのだろうか。

「俺も、桜子が死んだときは泣いたよ」



 女学校から帰ると、ちょうど有馬さんが円城寺さんの家から出てくるところだった。

「あ…… こんにちは」

「今帰ったのか。―― 和、なんか部屋で書き物してる」

 有馬さんは家の奥を顎で指し示して言った。

「書き物?」

「よくわからんけど」

 そう言うと有馬さんはいつもの猫背で帰っていった。

 書き物ってなんだろう。

 私は首をひねりつつ家の中に入って、あ、と思い至る。小説、だろうか。もしかして。そこでふと、有馬さんが前に私に言ってくれた言葉を思い出す。

 ―― あんたみたいなのは絵を描くといい。

 実際、絵を描くと普段内に溜めていたごちゃごちゃしたものがすっきりと整理されていくような感じがした。それは有馬さんもそうなのかもしれないし、ひょっとすると円城寺さんにとっての小説もそういうものなのかもしれない。

 そう思うと、今までずっと遠くに感じていた円城寺さんとの距離がぐっと近づいたような気がして嬉しかった。

 なんだか、この間から変だ。あまり近づかないでほしい、と思うのに、もっと近づきたいと思う。遠くから見ていたいと思うのに、もっと近くで見たいし、見ていてほしいとも思う。その一方であまり見られたくないと思うときもあって―― 自分でも、自分のこころがぐるぐると回って、正直わからない。

「ただいま帰りました」

 居間の前を通って円城寺さんの部屋の前で言うが、返事がない。まさかまだ文字を書き連ねているのだろうか? そう思ってそっと部屋のふすまを開けてみるが、彼の姿はない。どこかへ出かけたのか、それとも庭にでもいるのか。机の上に乱雑に置かれた原稿用紙が目に入る。


『このごろスズメは以前よりも自由に動くようになった。なにかやりたいことができたのか、あるいはそれをまさに探している最中かは飼い主ですらない小生にはわかるはずもないが、どちらにせよ良いことである。小鳥というものは地面を歩いている姿もたしかに愛おしく感じるものだが、空を飛ぶ姿もまた好いものである――


 前に書いていたものの続きだろうか。あれ、でも前に書いていたのは後半が黒く塗りつぶされていて……。

「あっ」

 首を傾げていると後ろで声が上げられた。振り返ると探していた人物が立っている。彼はつかつかと歩み寄ってきたかと思うと、私が手にしていた原稿用紙をぱっと取り上げた。そのとき、紙が私の親指の腹をさっと駆け抜けて、血がにじんだ。

「すみません」

 私が気づくより先に、円城寺さんが謝ってきた。それから私の手を取るが、それからどうしたらいいのかわからずもたもたしている。円城寺さんに握りしめられているせいで指が圧迫されて、傷口からぷくりと血が浮かんでいる。

「…… それ、小説ですか?」

「え? ええ、まあ……」

 尋ねてみるが、円城寺さんの返答はなんとなく歯切れが悪い。

「それって、あの――」

「あなたには話さない」

 続けて訊こうとした声に被せるように言われたのは、そんな台詞だった。

「あなたには関係ない」

 強い、拒絶のようだった。

 そう思った瞬間にはすでに部屋を飛び出していた。彼の手を振り払い、私は夜の闇の中へと駆けだした。



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