第22話

 しばらくして描き上がると、私は詰めていた息を吐き出した。と同時に、後ろから似たようなため息が聞こえる。

「薫子ちゃんって絵が上手いのねえ」

「本当に」

「え、うわ」

 振り返ると郡司さんと八重さんがいて、私はもし叔母様が聞いていたら叱られそうな声を上げた。

「特徴をよく捉えていますよね」

「画家先生から見てどう?」

 円城寺さんが私の絵を見ながら言って、その横で郡司さんが有馬さんに意見を求めた。

「えー…… うーん…… わかりやすい絵だとは思う……」

「ちゃんと教えてやってんの?」

「いや、俺はべつに教えられる側の人間じゃないし、批評されこそすれ、批評する立場でもないし」

 だいたい、と有馬さんは続ける。

「俺は自己表現の方法として薫子さんに絵を勧めたんであって、俺が批評するためとか、誰かに批評させるためではないから」

「そうなの? 薫子ちゃんはそれでいいの?」

「えっ」

 ふいに質問が飛んできて私は戸惑いの声を上げた。

「薫子ちゃんは、もっとこう、しっかり学びたかったりするんじゃないかなと…… ていうかそれ以前に、こんな男のところで絵描くの嫌じゃない?」

「そ、そんなことは」

「ひどい言いようだな」

 郡司さんの言葉に私が慌てて否定するすぐそばで、有馬さんが眉根を寄せつつ「いつものことだけど」と諦めたように言う。

「あの、本当に嫌じゃないです。ほかの絵を見させてもらうだけでもすごく参考になるし。あと、有馬さんは絶対嘘を吐いたりしないので好きです」

 初めは怖い人だと思ったけど、ということは言わないでおく。円城寺さんがすでに本人に話してしまっているかもしれないけれど。

「円城寺さんもですが、初めから…… 誠実でした。嘘は絶対に言わなかったし」

「つまり郡司は嘘つきで胡散臭いから嫌い、と」

「傷つく」

「いやっ、そ、そういう意味では……」

 私の言葉にすかさず有馬さんが割り込んできて、その上郡司さんがわかりやすく肩を落としたので私はまたしても急いで否定した。その光景を黙って見ていた八重さんが私の向かいでくすくすと笑っている。

「ふたり、いつも仲良しね」

「ええ」

「でもなんだか有馬さん、いつもより楽しそう」

 どうしてかしら、と八重さんが言い、円城寺さんもさあと答える。

「なにか、いいことでもあったのかも」

「だといいけど」

 私にはいまいち違いがわからない。有馬さんをちらりと横目で見つめ、あんまりじろじろ見たら失礼かなと思い視線を戻すと、円城寺さんと目が合う。

「薫子さん、次に描く絵はもう決めているんですか?」

「次?」

 不意の質問に私は思わず聞き返した。

「あ、もう描く気はないとか……」

「いえ、描く気は、描きたいとは、思っています」

 円城寺さんにそう返しながら、私は続ける。

「実はさっきまで描いていた絵を描き終える前から次はこうしようとか、こういう絵を描きたいなっていうのはずっと考えてて」

「いいじゃん、描けば」

 横から有馬さんが割り込んできて言った。

「好きな場所でも物でも人でも、描きたいのを好きなだけ描けばいい」

「…… できれば、勉強も忘れずにしてください。わかってるとは思いますが、一応大人として」

「でないとこういう大人になるからね」

 やや控えめに、遠慮するように円城寺さんが進言して、さらに郡司さんが被せるようにして言ってくる。それを八重さんがまた笑う。ここまでがもうお決まりの流れのようだ。八重さんがひと笑いした後、「それで」と再び私に向かって尋ねてくる。

「今度はどんな絵を描くの?」

 そんなものはたくさんある。知らない感情が次から次へとあふれ出して、内に留めておくことだけで今は精一杯だ。

「…… さっきまで描いていたのは、なんというか…… 自分のなかに、内に向かっているような絵だったので、次はもっと、こう…… 外に、というか」

 言葉だけで表現することを難しく感じながら、私は一生懸命合う言葉を探した。

「明るい絵、が、描きたいです。とりあえずは」

 言うと八重さんはいつもの笑顔でいいわね、と言ってくれた。

「明るい絵といえば私、有馬さんのあの、桜の並木道の絵がすごく好きなの。あの絵を見ると、ああ、次の桜も皆で見に行けたらいいなあって思えて、毎日が楽しくなるのよ」

 そんな絵があっただろうか。もしかすると、ずっと昔に描いた絵なのかもしれない。

「毎年みんなで行くんだよな。俺は仕事で行けない時もあるんだけど。―― そうだ、今年はさ、薫子ちゃんも一緒に行けたらいいね」

「どんどん賑やかになるな、この会……」

 有馬さんの言い方に私が首を傾げると、隣で円城寺さんが補足する。

「前は私とふみ、ふたりだけだったんですよ」

「厳密に言えば最初は俺ひとり」

 さらに有馬さんは不満げに言う。

「あら、じゃあこれ以上増えたら有馬さんは来てくれないかしら」

 八重さんが少しおどけた様子で言うが、その意味がよくわからず、有馬さんだけでなくその場にいた全員が首をひねる。

「今年の秋か、冬になるかしら。家族がひとり増えそうなの。来年はその子も一緒に桜を見られたらいいのだけど」

 あまりに唐突で、私は一瞬言葉を失う。なかば混乱気味でいると、

「それは、おめでとうございます」

と円城寺さんが言って、慌てて私も続いた。

「お、おめでとうございます」

「よかったな、郡司…… 郡司?」

 郡司さんは奥さんである八重さんの方を向いたまま目を見開いて呆然としていた。有馬さんが声をかけてもぴくりとも動かないのを見て、八重さんがごめんなさい、と口を開く。

「あなたには一番最初に言わなきゃと思っていたんだけど、ちょうどいい機会がなくて……」

 その時、郡司さんの頬をすうっと透明ななにかが伝い落ちていった。それが涙であるということに、私はすぐには気づけなかった。それがぼろぼろと顔中からあふれるようにこぼれていき、隠すように郡司さんが謝りながら顔をふせてようやく、それがそうなのだとわかった。

 私はずっと、男の人というものは―― 否、男も女も関係なく、大人というものは涙など流さないと思い込んでいた。大人になれば涙などどこかへ消えてしまうのだと、そういう勘違いを心のどこかでしていたのである。




「―― 私、どうしたらいいかわからなくて。男の人が…… ううん、大人が泣くのを見たのって初めてだったから」

 翌日、女学校でほんの一部をかいつまんで話すと綾乃ちゃんはまあたしかに、と顎にその白く細い指をのせた。

「私もなんとなく、大人は泣いたりしないものだと思ってたわ。特に男性は…… そうね、たしかに。その方って涙もろい方なの?」

 郡司さんの名前は伏せて話したし、綾乃ちゃんは彼に会ったことがないからわからないのも当然だ。私はううん、とかぶりを振って答える。

「いつも気さくで明るい方だから、私も驚いてしまって。普段から、奥さんもだけどにこやかというか…… 親しみやすい雰囲気で素敵な、お似合いの夫婦なの」

「なんだ、奥様がいたのね」

 綾乃ちゃんはそう言ってなぜか安心したように息を吐いた。なにか心配をかけるようなことをしただろうか。

「薫子さん、以前よりも男性とお話しする機会が増えたでしょう」

「え」

 意図のつかめないふいの質問に、私は首を傾げた。でも、言われてみればたしかにそうかもしれない。円城寺さんに始まって、有馬さん、郡司さんと、人数にしてみればたった三人だが、今まで同年代の男の子どころか、女の子ともろくに話してこなかったことから考えればすごいことだ。

「うん…… そうかも」

「楽しい? 年上の男の人とお話しするの」

「う…… ん…… 少し緊張はするけど、三人ともいい人だし。…… あ、でも」

 私は有馬さんのことを思い出した。昨日、円城寺さんの妹さんのことを話すあの人はすごく苦しそうだった。まるで、海で溺れてもがいているみたいに。

「なに?」

 私が口ごもったのを見て次は綾乃ちゃんが首を傾げた。

「…… 綾乃ちゃんは」

 ゆっくりと口を開けば、目の前で彼女は頷いた。その時に彼女の長い睫毛が上下して、私はああ綺麗だな、かわいいな、と毎度のことながら思う。

「私の好きな人が、女の人だったらどう思う?」

 その瞬間、綾乃ちゃんの手にしていた本や教本の類がばさばさと床に落ちた。大丈夫? と問いかけて拾うのを手伝えば、彼女は

「…… びっくりした」

と心の声を漏らすような小声で呟いた。

「薫子さん、急にそんなこと言うんだもの」

「ご、ごめん、でも仮の話っていうか」

 さすがに話が突拍子もなさすぎたな、と反省しながら私はあらためて質問を考え直す。

「たとえば―― たとえばだけれど、綾乃ちゃんがずっと長い間欲しくてたまらなかったものが、あるとするじゃない? それがもし、そのものをそこまで好きじゃない人に買われたら、すごく嫌でしょう?」

「…… すごい話ね」

「うん…… あ、でもこれも例え話で」

 私が付け足すと、綾乃ちゃんはそうね、と視線を宙に浮かべながら言った。

「私なら、はらわたが煮えくり返っちゃうかもね」

「…… は…… はらわたが……」

 ことさら穏やかにさらりと言われて、私は背筋がさあっと冷えていくのを感じた。私がよほどひどい表情をしていたのか綾乃ちゃんは「冗談よ」と笑いながら言ってくれるが、まったく安心できない。

「これもたとえばだけど、その欲しかったものが大切にされているなら、手に入らなかった方の人も多少は救われるんじゃない?」

「そ…… それは、そうかもしれないけど、それ以前にそういうのってなんか平等じゃないし、公平性に欠けるような気がして――」

「その人が後から、自分も実は欲しかった、とでも言ったの?」

 私はごくりと唾を呑んだ。

「それってずいぶん自分勝手なんじゃない? 手に入れた経緯にもよるけど、さっさと手を伸ばさなきゃ誰かに取られるってことくらいその人だってわかってたはずでしょ」

 いつになく辛辣かつはっきりとした彼女の意見に、私は黙った。

「手に入れた方にできるのは、手に入れたものを精一杯大事にすることだけなんじゃないかしら」

 綾乃ちゃんはどこか、自分に言い聞かせるような声でそう言った。

「ねえ、それより絵の話だけど、週末に見に行ってもいい?」

「あ…… うん。じゃあ、有馬さんに伝えておくね」

 言いながら私は、彼女の言葉の意味をずっと考えていた。


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