第21話
筆は思うように動かない。私の唇のように。
色は思うように乗らない。私の表情のように。
それでも必死に動かして、色を重ね、なんとか形にしていく。有馬さんは絵の描き方を、道具の使い方を除いてはまったくと言っていいほどなにも教えてくれなかったので、描けば描くほど、線や色を重ねれば重ねるほど不安になる。まるで、先の見えないくらい穴の中を、明かりも持たずに進んでいるみたいに。
穴の中は先があるかもわからない上に、進めば進むほど狭くなるし、どういうわけか後戻りはできなくて、時々手を止めてしまいそうになるけど、でも――。
「それ、完成か?」
手を止めてぼんやりとキャンバスを見つめている私の背後から有馬さんが聞いてくる。
「…… はい。たぶん」
私が頷くと、有馬さんは私の絵をじっと見て、「綺麗な色だな」とだけ言った。
「和彦が迎えに来るまでまだ時間あるな。あんた、紅茶飲める?」
「あ…… 飲んだことないです」
貸してもらった私には大きすぎるエプロンを外し、有馬さんと並んで廊下に出る。
「実家から飲みきれないからってたまに送られてくるんだけど、俺も嫌いだから全然減らないんだよなぁ」
円城寺さんと同じ猫背で私の数歩前を歩く有馬さんはぐるりと首を回し、それから肩も動かした。長いこと入り浸っておいて今更だけど、本当によかったんだろうか。あまりにも私がじろじろ見ていたのを不審に思ったのか、有馬さんが「なんだよ」と怪訝そうな顔で聞いてくる。
「いえ…… その」
私は一瞬口ごもったが、自分の中のいいから言ってしまえ、という声に押されて口を開く。
「有馬さんにとって私ってすごく邪魔なんじゃないかと思って……」
「邪魔ぁ?」
何言ってるんだこいつ、とでも言いたげに有馬さんが片眉を上げて言うので、私は思わず身をすくませる。有馬さんはそんな私の様子を気にしていないのか、あるいは見ていないのか、呆れたように「逆だよ」と口にした。
「だいたいあんただって好きでこうなったわけじゃないんだろ」
「そうです、けど、でも」
私はもう、あの人にたくさん救われてしまっている。父のこととか、母のこととか、今の自分の境遇とか、そういうの全部抜きにして。そういうことがなくても、あの人のそばにいたいと思ってしまった。
客間に入るとすでにお茶が用意されていた。この家は円城寺さんの家に似ていて、衣食の世話をしてくれる使用人の方がいるはずなのだが、その姿どころか気配すらまるで見ない。
「…… あのな」
見たくないのか見せたくないのか、どっちだろうと考えていると有馬さんがふと口を開いた。
「あんた、和の妹の話ちょっとは聞いた?」
「…… いえ」
彼の問いに、私は否定の言葉を口にする。
「そのひとが…… 亡くなられてから、有馬さんが前とは違う絵を描かれるようになったということくらいしか」
有馬さんはそうかと短く呟いて息を吐くと、重く降ろされたカーテンを持ち上げて隙間をつくり、そこから外を見た。そして再び椅子に背中を預けると、また寂しげな声で言った。
「あいつ、俺のこと恨んでないか? あんたから見てでいい」
どう見える、と尋ねられ、私は首を傾げる。
「少しも。…… 私にわからないだけかもしれませんけど、円城寺さんはたぶん、有馬さんのことすごく好きだと思います」
思った通りに言うと、有馬さんは驚いたような顔で私の方を見た。
「…… あんたになにがわかる?」
その声はけっして私を責めるようではなかったし、怒るようでもなかった。ひそめられた眉はどこか悲しげで、寂しそうでもあった。彼の表情でなんとなく、有馬さんにとっての彼女がすごく大切な人だったのではないかということがわかった。
有馬さんは私のことをじっと見つめたあと、悪い、と小さく謝った。
「あんたを糾弾しようとしたわけじゃないんだ。―― むしろ、俺は……」
そこまで言うと、有馬さんは口を閉ざした。しばらくの沈黙の後、有馬さんは再び口を開く。
「…… 好きだって言われたんだ」
小さく、か細い声でなかば懺悔のように口に出されたそれは、主語がなくともその対象を察することができた。
「俺にはもったいないくらいのいい子で、縁談が来たときは本当に良かったと思った。もう、俺なんかに不毛な気持ちを募らせることももうないんだと思うと、心底安心した。…… けど、それは自分のためだったのかもしれない」
額をこぶしで押さえながら話していた有馬さんはふと顔を上げた。
「和彦があんたになにもさせないのは、あの子がそれで死んだからだよ」
言われた言葉に、頭が真っ白になった。その言葉の意味はわかる。でもそれを望まない自分がいて、けっして受け入れようとしない自分がいて、言葉を噛み砕くのを必死に拒んでいた。
「と言っても俺たちも…… 和だって人づてに聞いた話でしかないけど。―― あの子は、嫁入り先で女中同然の、どころか奴隷のような扱いを受けて、食事も寝床も十分に与えられないで……」
死んだんだ、とは口にしなかった。できなかったのかもしれない。
有馬さんの突然の告白になにも返せないでいると、家の中にチャイム音が響き渡った。私が思わず音のした方へ視線を送ると、有馬さんが「勝手に入ってくるだろ」と投げやりに言った。しばらく待っていると有馬さんの言った通り足音が近づいてきて、開け放たれた部屋の敷居をまたぐ円城寺さんの姿が見えた。
円城寺さんは部屋に入るとまず私の顔をじっと見つめてきた。なんだろう、なにか忘れていることでもあるだろうかと不安に駆られていると、
「それ、紅茶ですか?」
とおもむろに尋ねてきた。あまりに唐突な質問だったので私は反応が遅れてしまう。
「あっはい、そうです」
「薫子さん、紅茶お好きでしたっけ」
「俺が持て余して困ってるから出したんだよ。口に合ったら貰ってってもらおうと思って」
有馬さんの説明を聞いてなるほど、と頷きながら円城寺さんは私の隣の席に着く。
「で、どう? 合う?」
「ん…… うーん……」
「不味かったらはっきり言っていいですよ」
円城寺さんが私が返答に困っているのを口に合わないせいだと思ったのかそう促してくれるが、それでも私は少しの間考えをまとめるために黙った。
「口に合わなくは…… ないんですけど、なんていうか…… 初めての味というか風味がして、こう…… 美味しいとか美味しくないとかひとことでは言えない感じで…… すみません。はっきりしなくて」
私は謝罪しつつ、紅茶をもう一口飲んだ。緑茶に近いような気もするけど、鼻から抜けていく香りは全然違うようにも思える。口に合うようなら処分してほしいという名目で飲ませてもらっているのにもかかわらず明確な答えを出せないことを謝ると、横で円城寺さんが首を傾げた。
「それはどういう―― 複雑な味ということですか?」
「そういうことじゃなくて……」
「いや、わかるよ言いたいことは」
よくわかってもらえていないらしい円城寺さんに説明しようとすると、横から有馬さんが口を出した。
「合う合わないじゃなくて、初めて会うから好きとか嫌いとか判断しづらいっていうか」
「そ、そう、そうなんです」
有馬さんの言う表現がまさに言いたかったことにぴったりで、私は何度も頷いた。しかし、円城寺さんにはまったく伝わっていないらしく、彼は以前首をひねった状態のまま
「まったくわからない……」
と呟いた。それから、有馬さんの方をじっと見つめ、やがてため息を吐いた。
「なんだよ」
「いやべつに…… おまえはけっこう薫子さんと話が合うんだなと思って」
今度は私と有馬さんが首を傾げる番だった。
「いや…… 特別合ってるという実感はないけど…… なあ」
「はい…… そんなには…… 残念ですが、合っているとは、あまり……」
濁しつつ答えるがなんだか円城寺さんは納得いってない様子だ。いつも通りあまり変化のない表情だが、なんとなく面白くないような顔をしているような気がしないでもない。少しだけわかるようになったような気もするが、まだまだわからないときの方が多い。有馬さんなら簡単にわかるのだろうなと羨ましく思っていると、円城寺さんが口を開く。
「絵の方はどうですか?」
進捗とか、と問われ私は思い出した。
「一応完成はしました」
「それはよかった」
自分から聞いておいて関心があるのかないのか、素っ気ない返事に安心する。
「できれば明日にでも綾乃ちゃんに見せたいと思っています」
「じゃあ、ここへ連れてくるといいさ。絵が完全に乾くまでまだ時間がかかるだろうし」
有馬さんがそう言ってくれて、思わず表情がほころぶ。
「ありがとうございます。そうします」
私が礼を言うと、再び家のチャイムが鳴った。
今度は有馬さんも心当たりがないのか「誰だろう」と言いながら立ち上がる。そしていつもの猫背ですたすたと部屋を出て行って、部屋には私と円城寺さんが残る。
「お仕事関係の、人でしょうか……」
「どうでしょうね。たぶん違うと思うけど」
もしそうだったら私は邪魔なのではないか。不安になっていると、円城寺さんが言った。
「前に仕事関係の相手は朝か遅くても昼のうちに来るって言っていましたから……。あとこの家、客間はほかにもあるし心配いらないですよ」
ゆっくりしていきましょう、と言われ、少し安心しながら私は紅茶を啜った。そしてそこで、あ、と思い出す。
「ごめんなさい。私前に借りた本まだ返してなかったですね……」
「…… なにか貸してましたっけ」
「ほら、あの昔話の……」
「あ、あれか。べつにいつでもいいですよ」
私に本を貸したことすら忘れていたようだが、きっとまた有馬さんにも本を貸しているのだろう。というか、そんなふうに何人にも本を貸してわからなくなったりしないのかな。
「なにか気に入った話、ありましたか」
円城寺さんが貸してくれたのは日本の昔話がいくつか入っている本で、なかにはぞっとするような話もあった。が、その話の題名がどうしても思い出せない。
「えーっと…… 題名がちょっと…… なんだったか」
「どういう話でした?」
思い出そうとするのを円城寺さんが手伝ってくれるが、私自身さっきもそうだったように説明が下手なのでうまい言葉が出てこない。
悩んだのち、脇に置いた学校へ持っていっている帳面が目に入る。私はそれをめくって新しい面に鉛筆でその話の印象的な場面を描くことにした。
「なあ、郡司と八重さんが来――」
書いているとなにか聞こえた気がしたが、今は話の内容を思い出すのに必死でそれどころではない。横から覗き込む視線が円城寺さんのほかに何人か増えた気がするが、それも気にしている余裕はない。
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