第20話


 さすがに立ち入りすぎたな、と思いながら翌朝目覚めた私の耳に、電話のベルが聞こえてくる。しばらく鳴り響いたかと思うと止んで、ぼそぼそと話す声がする。

「薫子さん」

 自分の部屋から顔だけ出して様子をうかがっていると、居間から円城寺さんが出てきて私を呼んだ。

「南先生が…… 見つかったみたいなので、警察署に行ってきます」

 彼のややためらうような口調で、父は無事ではないのだと知った。

「私も行きます」

「…… 大丈夫ですよ。本人確認は…… 私も、あなたの伯母さんもできる。この家にひとりで待つのが嫌なら人を呼ぶし――」

「行きます」

 円城寺さんの話を遮って、なかば押し切るように言うと私は部屋に戻って急いで着替えた。



 連れて行ってはくれたものの―― 正しくは無理矢理ついてきたという方が合っているのだが―― 円城寺さんは父に会わせてはくれなかった。彼はときどき、頑ななところを見せる。いや、初めからそうだったかもしれない。

 そんなことを思いながら円城寺さんを待っていると誰かがこちらへ近づいてくる。そちらを見ると、伯母さまが来るところだった。

「円城寺さんは」

「あ…… 今、確認を」

 短く尋ねられたことに答えれば、彼女はそう、と口にして私の隣に腰かけた。その横顔は少しだけ父に似ているような気がする。

「…… どうして、私を円城寺さんのところへ嫁がせたんですか」

 思ったよりもきつく問い詰めるような言い方になって私は内心焦った。しかし一度口にした問いかけを今更なかったことにもできず、黙って返答を待つことになる。少しの間私の隣で私と同じように黙り込んだあと、伯母さまは口を開く。

「先に、とある企業の経営をなさっている年配の男性から結婚の申し入れがありました。でもその方は…… あなたには相応しくないと思った。とはいえ仕事や家同士の繋がりもある以上、きっぱりと断ることもできず――、そういう時でした。あの方が現れたのは」

「…… 相応しくないというのは?」

「…… あなたには言わない」

 伯母さまは昨夜の円城寺さんのような口調でぴしりと言うと、再び黙り込んでしまった。二人とも、目の前で勢いよく扉を閉めるみたいな、そういう断ち切り方をする。

「彼と、うまくいっていませんか?」

 かと思えば、まるで私を心配しているような問いかけをする。私はそんなことは、と言いかけて口を噤んだ。どうだろう。一般的に言えば良くしてもらっているのだろうけど、一般家庭の夫婦像からはひどくかけ離れている気がする。少なくとも父と母はああいう風ではなかった。

「あなたの両親が、あんなことをしなければこんなやりかたをせずに済んだのだけど」

「…… それは……」

 二人を非難するような言い方に、私は思わず声を上げた。

「ふたりとも、理由があって――」

「でもあなたを置いていなくなった。私はそれが絶対に許せない」

 わからなかった。ついこの間まで互いの存在すら知らなかったはずなのに、そんな相手に対して彼女がここまで声を震わせる理由が。

「どんな理由があったとしてもまだ十五歳の子どもを置いて消えていいはずがない。それなのにあなたに対する責任を全部捨ててあの人はまたいなくなった。二十年前と同じように」

 伯母の声は固く、しかし静かに震えていた。



 父も母もまだ警察の方で色々と調べなければいけないことがあるらしく、葬儀はまだ先になりそうだった。私は真っ赤な夕日の降る街並みを、円城寺さんと歩いていた。円城寺さんの家までの道のりはもうずいぶんと見慣れてしまった。反対側から袈裟を着た男性が歩いてきて、すれ違いざまに円城寺さんが軽く会釈をした。たぶんこの近くにあるお寺の人だと思う。円城寺さんの家には仏壇があるし、いつもあの人にお経をあげてもらっているのだろう。

(…… なんか、変だな)

 ふたりがいなくなったあとは、色んな大人が来て私になにか聞いていったり、家の中を調べられたり、それから伯母さまのところへ行ったり、そのために荷造りをしたりで忙しなくて悲しんでいる隙がなかったせいだと思っていた。でも違うみたいだ。

 こんなに穏やかな時間が流れているのに、なにも込み上げてこない。

 いつもみたいに、頭や胸の中がごちゃごちゃと騒がしいわけでもないのに、なんだか心が静かだった。言ってみれば、白一色、みたいな。黒一色かもしれない。あるいは両方かもしれなくて、赤とか青とか、もっと他の色かもしれなかった。

「…… あ」

 びしゃ、と音がした時にはもう遅かった。履き物はもちろんのこと、足袋や着物のの裾にまで水溜まりのなかの泥水が滲んでいる。

「大丈夫ですか」

 立ち止まって振り返ってくる円城寺さんに私は頷く。

「少し濡れただけです」

 家まであと少しだし問題ないと、泥で濁った水溜まりを見つめながら思った。水溜まりをほんの数秒ほど見つめて、それから気づく。たしか、有馬さんの描いた絵のなかにこんな絵があったはずだ。描きたい絵はいまだに思いつかないけれど、有馬さんの絵はもう一度見たい。…… でも、有馬さんは嫌かも。ふと、先日のやりとりを思い出すが、でも来いって言ったのは有馬さんの方なのにとも思う。

「円城寺さん、あの」

 私のふいの呼びかけに、円城寺さんは一瞬どきりとした様子で振り返る。

「また、有馬さんのところへ行ってきてもいいですか?」

「―― ふみの?」

 円城寺さんの意外そうな問いかけに私は頷く。

「絵が…… もう一度見に行きたくて」

 有馬さんの絵がもう一度見たい。

 それが、それだけが両親を失った私のなかにたったひとつ湧いたたしかな感情だった。

「なにか気に入った絵がありましたか?」

「…… どれかひとつがということはないんですけど、なんとなく、どの作品も雰囲気がこう…… 繊細で、綺麗で、少し怖い絵もありましたけど、見ていてどこか安心するような……」

 言っていることがめちゃくちゃな気がして、私はうつむいた。でも安心したのと、もう一度見に行きたいと思ったのは本当だ。

「有馬さんて、絵を描かれ始めて長いんですか?」

「まあそれなりに…… 私が知っている限りでは少なくとも二十年は」

 二十年。私が生きているよりも長く続けていることがあるなんて、想像できない。

「仕事にしてもう、十―― 四、五年になるかな」

「すごい……」

「すごいですよ。あいつは」

 私がぽつりと漏らした言葉に、円城寺さんは言った。

「喜びも、哀しみも――…… 絶望も、表現できないものはなくて。昔は天才だとか騒がれていましたね」

「今は違うんですか?」

「今も騒がれてますよ」

 過去形だったのを不思議に思って問えば、そんな答えが返ってくる。

「でも、一時期描けない時期があったんです。世間の注目もどんどんなくなって、本人はかなり苦しんでいましたよ」

「…… でも、今は……」

「そう。今は違う」

 円城寺さんの声はどんどん硬くなっていく。初めてお見合いの席で会った時に、私を愛することはないと言った時の声に似ている。

「桜子が亡くなってから、あいつはああいう絵を描くようになって、また売れるようになった」

 妹さんの名前だ。

 私はすぐに思い至って、前に有馬さんが口にしかけたのを思い出した。あれは妹さんの名前だったのか。

「ああいう絵が、必要な誰かもいるっていうのは十分わかっているんだけど、でもふみは…… 違う絵も描けるのにと思って…… 今まで別段見向きもしなかったくせに、とまあ、要は嫉妬したんですね」

 そこで私は、なんとなく悟ってしまった。

 円城寺さんは、有馬さんのことが好きなんだ。私なんかよりもずっと。あたりまえだ。私はなにを期待していたんだろうか。

 有馬さんの描く絵の話をする円城寺さんは、父の話をする母と同じだった。盲目的で、尊敬というよりは心酔とかそういう方向に近い。

 ふたりは、他殺なんかじゃないんじゃないかと思っている。なんとなくの、勘でしかないけれど。父は本当に、猫みたいな人で、ふらりとどこかへ出かけては母に心配をかけていた。特に行く場所も帰る時間も決めずにいなくなるので、私も度々あの人はあのまま帰ってこないのではないか、という不安に駆られることがあった。

 そしてあの日、あの人はほんとうにいなくなった。

 あの人がなにを思って私たちの前から消えたのか、私に対してなにを思っていたのか、もう誰にもわからない。二度とわからない。

 沈みかけた夕日が、狭い玄関のなかを真っ赤に染め上げていた。私は振り返る。

「―― 死んだんですね。…… 父も、母も―― ふたりとも」

 迫りくる夕闇に、肌の先から飲み込まれて消えてしまいそうだった。

「…… そうですね」

 私の呟きに円城寺さんが小さな声で返した。

 赤い地面。暗い玄関。行き交う人々。しかし、そこには私の求める人は誰も、誰もいないのだった。

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