第19話
すべてを終えて円城寺さんの家に戻ってきた私は、なかば茫然としながら玄関で靴を脱いだ。
「…… もう、休みますか?」
疲れたでしょう、と円城寺さんが私に気を遣ってか尋ねてくるが、まともな返事をすることができない。
円城寺さんから電話が来てすぐに私は警察署に向かった。周りの大人たちに促されるまま、もうなにも言わなくなった母の姿を見た。長かった髪を肩までばっさり切られ、全身ぐっしょりと濡れて皮膚の色も変わっていて、なんだかべつの人みたいで、それでも確かに母だった。
親が亡くなったときは、もっとたくさん泣くものだと思っていた。けれど実際は涙すら出なくて、まるで実感がない。
暗い部屋に布団を延べて仰向けに寝転がって天井を見上げる。
どうして母は髪が切られていたんだろう。警察の人は髪切り男の件が絡んでいる可能性も考慮して捜査を進めると言っていた。だけど、なにかが引っかかる。なんとなくもやもやする。なぜ? 死に方が普通じゃなかったから? 父がまだ見つかってないから?
水の中に沈めた石や生き物を見た時に似ている。水に沈んだそれらの影は、水の中に入った途端にゆらゆらとかたちを曖昧なものにしてしまい、この手で取り上げるまでどんな形状だったかわからなくなる。
落ち着かなくて、私はせっかく入り込んだ床からそろりと脱け出した。水でも飲んでこようと立ち上がった瞬間、腹がきゅうと空腹を訴えて音を鳴らした。台所になにかあるかな。とはいえ、お茶菓子を勝手に食べたら怒られるだろうし、この時間にご飯を炊き始めるわけにもいかない。冷やご飯でもいいからなにか残っているといいのだけれど。
台所に向かう途中、物音が聞こえた気がして足を止める。円城寺さんがまだ起きているのだろうか。音は台所から聞こえる。普通に考えたら円城寺さんで間違いない。だってこの家には私と彼しかいないのだから。でも、違ったら?
例えば、泥棒。大の男に攻撃されたら太刀打ちできない。
例えば、お化け。これもこの世のものではないために太刀打ちできない可能性が高く、なんなら恐怖で腰を抜かしてしまう可能性だってある。
私は空腹のまま床に戻るしかないのだろうか。そう考えつつ、いやまだそうと決まったわけではないのだしと自身に言い聞かせて台所にそっと忍び寄り、中をのぞく。
その時だった。
中にいた人物が長い前髪の隙間から爬虫類のように鋭い瞳をぎろりと動かしてこちらを見た。
「だっ……!」
驚いて体を退けた拍子に柱に後頭部を激しく殴打してしまい、意図せず声が上がる。
「―― 薫子さん?」
しゃがみこんでぶつけた箇所を押さえながら痛みに耐えていると上方からやや驚いたような声が聞こえてくる。
「大丈夫ですか、今わりとすごい音がしましたけど……」
正面に円城寺さんが屈みこんでくる気配がする。と同時に、私が手で押さえている箇所に自らの手をあててくる。
「こぶになる前に冷やした方がいいのかな…… でも今氷が…… ちょっと待っててください、今――」
立ち上がりかけた円城寺さんの着流しの裾を、私の手がぐ、とつかんで引っ張る。円城寺さんの腰と連動して一瞬持ち上がった膝が、どん、と鈍い音を出して再び床についた。私の突然の行動に、円城寺さんの手が目の前で戸惑うように上下に動いている。
でもきっとそれ以上に、私の方が混乱していた。
「…… お…… おばけかとおもいました……」
私の瞳からは次々と熱い液体があふれ出していて、自分でもわけがわからなかった。それほどまでにお化けが怖かったわけではないし、そんなものはたったさっき驚きで吹き飛んだはずだったからだ。
「………… あ――、すみません。びっくりさせてしまいましたか」
円城寺さんはばつが悪そうに言うと、私の頭をぽんぽんと撫でた。子どもをあやすようなその仕草に、私はどうしようもなく安心していた。
「お化けは、私も怖いです。もしかしたらどこかにいるかもしれないし、絶滅した種族とかはべつとして、存在しないことの証明は存在していることの証明よりも難しいといいますから」
妙に理屈っぽい説明を聞いて徐々に落ち着いてきた私に円城寺さんは大丈夫ですよ、と声をかける。
「南先生には昔とても世話になったし、その時からあの人は自分になにかあったら娘をよろしく頼むと言っていたので。…… お化けが出ても、最低限自分の身と薫子さんのことは守れるように善処します。…… まあ、お化けと戦ったことがないのでなんとも言えないですが……」
「…… 父をご存知なんですか?」
突然聞かされた事実に、私は思わず食いついた。が、円城寺さんは私の質問にあれ、と首を傾げた。
「言いませんでしたっけ。見合いの時に」
「…… すみません。お見合いの時は、ぼんやりしていて」
「あ、そうか……」
今度は私がばつの悪そうな顔をする番だった。しかし円城寺さんはなんでもなさそうに言うと「そうですよね」と納得したように頷いた。それから再び私の頭を撫でると今度こそ立ち上がった。
「腹、空いてませんか。確かここに饅頭があって……」
円城寺さんは戸棚のあちこちを捜索してそれを発見すると少しだけ嬉しそうな顔をした。最近、私の前で表情を変えることが増えた気がする。初めて会った時ではきっと想像もつかないほど。私の気のせいかもしれないけれど。
「私お茶淹れます」
「ありがとうございます」
こんな夜中に起きてお茶を飲もうとしているなんて、少し不思議な気分だ。周囲は暗く、光は燈台に灯した蝋燭の明かりのみである。
「…… 私が、作家を始める前、まだ学生の頃に知り合ったんですよ。南先生とは」
やかんの湯が沸くのを待つ間、円城寺さんがぽつりぽつりと話し始めた。正直作家をやっているなんて話も初耳だが、これもたぶん見合いの時にでも聞いたんだろう。今度は反応せずに、円城寺さんの話を静かに聞くことにする。
「私が、十四か十五か…… とにかくその頃だったと思いますが。少し歩いたところに、土手があるでしょう。夕方、学校から帰る時間になるといつもそこにいて、いつも違う猫ののみとりをしてるんですよ。明らかに大人の男がこんな時間になにをしてるんだろうと思って、ある日聞いてみたんです。そしたらね、この世の終わりを待ってるんだって言うんですよ。当時の私はまるで意味がわからなくて―― 今でもわかりかねますが、ともかくそれからよく話すようになって、作家になりたいんだと聞いた時から、なんとなく自分でも作家という職業を意識するようになったんです」
円城寺さんの言葉に、私は突然に過去の思い出を鮮明に思い出した。机に広がる原稿用紙。日がな一日机に向かう背中。
そうだ。父は作家だった。
円城寺さんの部屋ののぞいた時に感じた既視感の答え合わせがようやくできた。
沸いたやかんの湯で淹れたお茶を居間に運んで、それを飲みながら饅頭に手を伸ばす。
「…… そういえば、母は父の書いた話が好きみたいでした。父の本の話になると別人みたいに目を輝かせて、お父さんはすごいのよ、って言うんです。でも、私は読んだことがなくて」
「それはなぜ?」
お茶をすすりながら円城寺さんが聞いてくるが、あまり思い出せずに私は首をひねった。
「よく覚えていません。そもそも、父の部屋に入るのを禁じられていましたし、子どもが読む物ではないと思っていたのかもしれません」
言ってから私はそういえば、とひとつ思い出したことを口にする。
「いなくなる少し前から―― 徐々にですけど、父が部屋にこもる時間が減っていったような気がします。あれって……」
「書けなくなった、とか?」
私の声に被せるように円城寺さんが言った。その声は冷たく、静かで、いつも通りにも感じたけれど、いつも以上に冷淡だった。
「…… 私もね、作家とはいうけれど、もう五年も書けていないんです。昔書いた、言ってみれば貯蓄があるから今は本を出し続けてられるけど、それも尽きたら本当に終わりですね。誰も俺のことなど忘れてしまう」
「…………」
私はなにも返すことができなかった。終わり、とは一体どういうことなのか。
「あいつ…… 貴史みたいに、気持ちを全部紙の上にぶつけられたら良かったけど、俺にはできなかった。…… 筆を止めるというのは、あいつにとっては裏切りと同じことだったのでしょう。この前俺とあれが少しぎすぎすしていたのは、そういうことです」
薫子さん、気にしてくれていたみたいだったからと言うと円城寺さんは饅頭に再びかじりついた。
「…… 円城寺さん、今日はたくさん話しますね」
「…… まぁ、夜なので」
いったいどういう理屈なのだろうか。よくわからないけれど、今日の円城寺さんは饒舌で、なんでも話してくれそうだった。同時に、夜中といういつも話すのとは違う時間帯のせいもあってか、私もいつもは聞けないことを聞けそうな気がした。
「―― あ、あの」
お茶を飲み干し饅頭も食べ終えて立ち上がろうとする彼に慌てて問いかける。
「書けなくなったのは、妹さんが…… 亡くなられたからですか」
円城寺さんは立ち上がりかけた中腰の姿勢のままぴたりと動きを止め、私の方を見た。
「…… その話は、あなたとはしない」
はっきりとした拒絶だった。円城寺さんはそのまま「おやすみなさい」とだけ告げて部屋へ戻ってしまった。
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