第18話

 有馬さんにとっても、妹さんの存在はそんなにも大切なものだったんだろうか。

 ――  俺のせいなんだよ。あの子が死んだのは――

 あの子、というのはきっと円城寺さんの妹さんのことだ。円城寺さん本人の口からも亡くなったと聞いたから、まず間違いないと思う。俺のせい、というのはいったいどういうことなんだろう。手にかけた、とは考えにくい。物理的にではないのなら――。

 そこまで考えかけて、やめた。よくない。こういうのは。

 私はただ、有馬さんの家に行って絵を描く場所と道具を貸してもらうだけ……。

「あの話、どうなった?」

 教室の隅でいつものように悶々と思考を巡らせていると、これもまたいつものように綾乃ちゃんが私の顔をのぞきこんできた。

「あの方のところへ通うの?」

「あ――、うん、ひとまずは今週末から始めてみようと思ってる」

 彼女の声で我に返った私が説明すると綾乃ちゃんは少し悩んだ後おずおずと口を開いた。

「その…… 私から見たいって言っておいてなんだけど、親戚でもなんでもない男の人の家に通うのって、薫子さんは嫌じゃない?」

「え、ううんべつに」

 綾乃ちゃんの問いかけに私はすぐさま首を振って答えた。そんなことを言ったら今一緒に住まわせてもらっている円城寺さんだってもともと知らない男性だし、両親は親類とは離れて無縁の生活をしていたから伯母さまだって私からしてみればほとんど知らない人だ。

「大丈夫だよ。有馬さんは円城寺さんのお友達だし、悪いことするような人じゃないと思う」

「…… そう」

「うん。円城寺さん自身もすごく誠実な人で信頼もできるから、大丈夫」

 彼女に心配をかけないように繰り返すと、綾乃ちゃんはどこか暗い表情でうつむいた。なにかまた、間違ったことを言っただろうか。

「薫子さん、円城寺さんのこと好きなの?」

 かと思えば、突然そんなことを言ってくる。

「それ、有馬さんにも聞かれた」

「そうなの?」

 綾乃ちゃんの問いかけに「うん」と頷きながら私は答える。

「いい人だよ、円城寺さん。あと有馬さんも」

 安心させるつもりで言ったにもかかわらず綾乃ちゃんは眉間に皺を寄せた。

「…… 薫子さんは、…… 男の人とは、そんなにすぐに仲良くは慣れない人だと思ってた」

 ぽつりとそう口にして、綾乃ちゃんは前に向き直った。



 いったいなんだったのだろう。

 一瞬機嫌を損ねたのかと思ったが、あのあと普通に会話してくれたし、帰る時もいつも通り挨拶をした。

 先日円城寺さんも交えて決めた通り、私は週末に有馬さんの家を訪れた。有馬さんの家は立派な洋館で、こんなことでもなければ一生用はないようなお屋敷だった。私はその中の一室を借りて絵を描いている。―― というよりは、画材と戯れている。いや、戯れているのならまだマシで、画材に振り回されている、という方がより現状の説明としては適切だ。

 有馬さんは自分で言った通り教えてくれるつもりはないらしく、道具の使い方と隣の部屋にいることだけ伝えて引っ込んでしまった。

 部屋のなかにはいくつか有馬さんが描いたものらしい絵が棚にしまわれていたり、入りきらないものは壁に立てかけるようにして置いてあったりする。なんだか少し、円城寺さんの部屋に似ているような気もする。

 なんでも描きたいものを描くといいと有馬さんは言ったけど、その肝心の描きたいものがわからない。屋敷のなかは好きに歩き回っていいと言われたのでぶらついてみるが、何ひとつとして思い浮かばない。

 長い廊下には、所々に絵が置いてある。額縁に入ったのから、キャンバスをそのまま置いてあるもの、壁際を向いているのから正面を向いているのまでそれぞれだ。

 絵はどれも、全体的に暗い雰囲気のものが多かった。絶望や哀しみ、苦しみといった感情がキャンバスから今にもあふれだしそうなほどの激しさで受け手にそれを伝えてくる。それでいてどこまでも繊細で美しく、胸に空いた穴にそっと寄り添ってくれるような柔らかさも内包していた。そしてなぜか、どの絵も私と同じくらいの年頃の女の子がどこかに描かれている。

 ふと見上げれば廊下の壁にはガラス窓が取りつけられていて、そこから差し込んでくる日の光が冷たい床に模様を作り続けていた。窓と光が作り上げた模様を眺めながら歩いていると、それが途中で途切れた。私はゆっくりと顔を上げ、途切れた原因を見る。一室の扉が開いているのだ。

 私は誘われるようにその部屋に踏み入った。

 そして私は、言葉を失った。

 産まれて初めて、芸術品に圧倒された。

 縦長の、大きな絵だった。

 横幅に合わせて両手を広げてもまだ少し余るような大きさで、しかし額には入っておらず、板に張り付けた状態のまま窓の上から引かれたカーテンを上から押さえつけるように床に置いてある。作品を守るためか暗く保たれた室内で、その絵は異様な輝きを放っていた。輝き、というとやや語弊がある。でも、魅力などというちっぽけな単語ではこの絵を表現するのは不可能だった。この感覚を、感情を表現する言葉を、私はまだ知らない。あえてひとことで表現するなら「圧倒」が近い。私は改めてその絵を見つめた。

(これ、たぶん円城寺さんだ)

 今よりもずっと髪は短く、普段のような着流しではないけれど。

 くせ毛ぎみの髪と、薄い唇。角張った頬。切れ長の目。なだらかに落ちる肩。

 その人物を強く想って描かれたであろう姿が、木漏れ日の下で静かに微笑んでいる。描き手と、描かれた人と、二人だけの世界がきっとそこにはあって、私をふくめ無関係な他人が介入することがためらわれるようだった。

 先ほどの絵とは打って変わって、どちらかというと明るい雰囲気の絵だった。先ほどの絵は言ってしまえば好みがはっきり別れそうで、こちらの方が大衆受けしそうな感じではある。絵のことは正直言って詳しくないけれど。こんなところに額にも入れずに置いてあるということは、これは別に売るために描いたものではないのかな、と絵から顔を上げ周囲を見渡そうとして、部屋の入口に立つ姿に私はびくりと肩を震わせた。

 有馬さんは私の顔を見てにやりと笑みを浮かべると、扉横の壁にもたれた。

「…… これが、あんたの信じた男の正体だよ」

「え……?」

「自分の夫の絵を何枚も描いているような男の家には、通いたくなんかないだろう?」

 言われて、私はようやく周囲を見回した。部屋のなかは円城寺さんと思われる人物を描いた絵で埋めつくされており、そのどれもが対象者へのあふれんほどの想いを訴えていた。ひとつ言えば、明るい雰囲気であるのは最初に目にした一枚だけで、後の絵はすべて廊下に並んでいたような暗い雰囲気の作品ばかりだ。

「単なる純粋な友情だけじゃない―― それ以外の気持ちを持った人間が夫のそばにいるのは嫌じゃないか?」

 友情だけじゃない? どういうことだろう。

 有馬さんの言ったことの意味がまったくわからなくて眉をひそめる私の耳に、電話の鳴る音が聞こえてくる。しばらくすると、この屋敷の使用人だろうか、年配の男性がやってきて有馬さんに小声で何か告げた。

「電話だって。和彦から」

 促されるまま階下に降りて受話器を取る。そして、円城寺さんが言ったことに私は己の耳を疑った。


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