第16話
「いってまいります」
出かける直前、一応声をかけるが反応はない。机に向かってなにか書き物をしているみたいだった。まさか、これを一晩中?
ますます彼に対しての謎が深まる。
いったいなにをしてる人なんだろう。
なぜかふいに、昨日の有馬さんの言葉を思い出した。
―― あんたさ、和彦のこと好きだろ。
正直なところ、謎が多すぎて好きも嫌いもわからない。悪い人ではないと思うが。好きな人と言われて最初に思い浮かぶのは、父、母、それから。
(―― 綾乃ちゃん)
ひどいことを言って、逃げるようにその場を去ってしまってから二日が経とうとしている。私はどうしたらいいんだろう。どうするのが彼女にとって正解なんだろう。
私は綾乃ちゃんが好きだけど彼女の方はそうでもなかったら、私だけがみっともなく傷つくことになる。
『恥ずかしい思いをするのはあんたなんだから』
わかってる。
わかってるけど。
でも、それって。
「…………」
―― でも、少しくらい変わっていた方が素敵。
『あんたのことなんか、誰も』
――…… 心配しました。
『好きになんか』
ぱしゃ、と水面に叩きつけた小石が川のなかに沈んでいった。
じゃあなんでいなくなったの?
怒り、ではない。悲しみとも少し違う。
投げ込んだ石のせいでできた波紋を、特に意味もなく眺める私の後ろに誰かが立って、影ができた。有馬さんかな、と思って振り返ると、そこには予想外の人物が立っていた。
「―― っ、あ……」
言葉が喉に張りついて、うまく声が出ない。
「綾乃ちゃん……」
私は重くなった喉でそれだけやっと声に出した。綾乃ちゃんはいつもより不器用に唇の端だけをぎこちなく持ち上げ、「久しぶり」と言った。
「っていうほど、久しぶりでもないかしら。…… ここ、座ってもいい?」
綺麗な黒髪を風に揺らしながら尋ねてくる彼女の方を見ないまま頷けば、綾乃ちゃんは私から少し離れたところに腰を下ろした。そして、私と同じように川を見つめたまま黙ってしまった。どうしてこんなところに来たんだろう。私に会ったのはたまたま? 学校は? 私になにか言いたいことがあるの?
聞きたいことがたくさんあるのに、だからこそか、喉で言葉たちが渋滞を起こしてうまく言葉が出てこない。
「いつもここにいるの?」
「…… うん、まあ…… 昨日くらいから」
そう、と綾乃ちゃんの小さな声が風に流されていく。
本当なら私の方からなにか言わなければいけないのに、なにも口にすることができない。私と彼女の間で、なにかが変わってしまうのが怖かった。
よわむし。
心のなかで自身をなじる私の後ろで、ばさばさと紙のようなものが落ちていく音がした。同時に、ああ、と誰かの失態を犯してしまったような声がする。整えられた土の上を滑ってきた紙を追いかけてきた男性の顔を見て、私は少しほっとしてしまう。
「悪い……。邪魔するつもりはなくて」
「そんな、邪魔なんて」
居心地悪そうに謝罪する有馬さんに私は手を振って答えた。あのままの状態で、私の方から何か話せたとは思えない。そう考えてからふと気づいて綾乃ちゃんを見た。彼女の方はもしかするともっと言いたいことがあったかもしれない。
私は私と有馬さんのやりとりを静かに見守っていた彼女に向かって口を開いた。
「綾乃ちゃん、あの、こちら円城寺さんのお友達の有馬さん。有馬さん、前に話した…… と、同級生、の綾乃ちゃんです」
「どうも」
「…… はじめまして」
綾乃ちゃんは眉間に皺を寄せて有馬さんを見た。それはそうだ。大事な話の途中で突然知らない人を紹介されたら私だってこんな顔になる。有馬さんは有馬さんで、依然居心地悪そうな顔で綾乃ちゃんから視線を逸らした。なんだか申し訳ない。
「有馬さんは、お仕事はなにをしていらっしゃるんですか?」
「一応画家をしてます」
「えっ、そうなんですか」
綾乃ちゃんに聞かれてそう返事した有馬さんに、私はつい驚いて声を上げた。
「なんであんたの方がびっくりしてるんだ……。ていうか和彦に聞いてなかったのか」
「はい……」
「じゃあ俺のことなんだと思ってたんだ」
「…… なんか、その辺をふらふらしてる人だと―― あっ」
質問についうっかり正直に答えてしまい、さすがに失礼すぎたと口を押さえて有馬さんの表情をうかがう。案の定有馬さんは渋い顔をして私を睨んだ。かと思えば、その顔を一瞬にして和らげた。
「いやまあ、合ってるけどさ」
初めて笑った顔を見た。笑い方が少し、円城寺さんに似ているかもしれない。
「そういや昨日の話、和彦にしたか?」
「いえ、まだ……」
ふと思い出したように変えられた話題に、私は首を振った。
「昨日円城寺さんが帰って来られた時に伝えようと思ったんですけど、なんだか集中してて私の声が耳に入ってないみたいで。今朝も…… 昨晩からずっとかもしれないんですけど、熱心に書き物をしてらして」
「…… へえ」
私が昨日の円城寺さんの様子を言うと、有馬さんは意外そうな反応を漏らして黙り込んだ。どうしたのだろう、と有馬さんを見つめる私の裾を、綾乃ちゃんが横からついと引いた。
「昨日の話って?」
尋ねられ、完全に彼女を蚊帳の外に追いやっていたことに気づく。
「あ、えっと…… 昨日ね、有馬さんが私に絵を描いたらって勧めてくださって」
「すごい。薫子さん絵を習うの?」
説明した途端、綾乃ちゃんはぱっと顔を輝かせた。そこへ有馬さんがいやと慌てた様子で割り込む。
「俺は教えることはできないし、才能もないから」
「え、てっきり教えてくださるものだと」
「無理。道具と場所ならいくらでも貸すけど」
そうだったのか。それだとなおさら難しいかもしれない。有馬さんは大したものなど描けなくてもいいと言ってくれたけど、せっかく道具を貸してくれるのに、ただ目的もなく下手な絵をだらだら描くなんて許されないと思う。
「私、薫子さんの描いた絵が見たいわ。ねえ、ほんの少しでも描いてみない?」
思わぬ人物に口説かれて、私は困惑する。なんで私は今絵を勧めてくれた当人ではなく、たまたまここにいた友達にこんなに熱心に口説かれているのだろうか。
「で、でも私絵なんて描いたことないし、上手に描ける自信もないし……」
「関係ないわよそんなの」
いまだにぐだぐだと尻込みする言い訳を探している私に綾乃ちゃんはきっぱりと言い放つ。
「芸術において大切なのって、上手い下手なんかじゃなくて、どれだけ自己を表現できているか、それだけだわ。私、どんなに下手でも、どんなに変でも、薫子さんの描いた絵が見たい」
私の人生において、これだけ熱く説得されたのは初めてのことだった。彼女の熱に気圧された私はつい、「わかった、描く」と、気づいた時にはそう口にしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます