第15話
私は今日もまた、学校に行けずにいた。また円城寺さんに嘘をついてしまった。
罪悪感はあれど心は昨日よりもずっと穏やかだ。ずっと、あの家での自分の価値がわからずにいたけれど、答えがわかれば楽だった。身の処し方さえわかってしまえば、もう不安はない。
昨日八重さんと話しをした、土手の勾配のある部分に座り込んで、私はぼんやりと向こう岸を眺めていた。
ぼうっとするのは得意だ。母に叱られているときだとか、仕事や読書に没頭している父がふらりと散歩に行くのをひたすら待っているときだとか。
「―― 薫子さん?」
後ろから名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせた。
「なにしてんの、こんなとこで」
「…… あ、有馬さん……」
円城寺さんかと思った。あ、でも有馬さんに見つかってしまったということは円城寺さんにもこのことが知らされてしまうのか。完全に昨日の二の舞である。学習能力がなさすぎて悲しくなってくる。なにを言われるかと思っている私の右斜め前の少し離れた場所に、有馬さんは荷物とともに腰を下ろした。有馬さんの手元には大きな板があって、その上に紙が敷いてある。状況が理解できずにいる私をよそに有馬さんは紙に鉛筆を滑らせる。すでになにか描いてあるみたいだけれど、ここからはよく見えない。
「その本、読んだことある」
有馬さんが手を動かしているのをなんとなく見つめていると向こうからそう話しかけられる。
「和彦の妹がよく読んでた。ちょうどあんたくらいの時に」
「ご存知なんですか?」
「普通に仲良かったからな。幼馴染ってやつだよ。―― 郡司は違うけど」
そうだったのか。じゃあ、もしかすると先日からふたりが会うとどこか険悪そうに感じるのは、その妹さんがらみのことなんだろうか? そこまで考えて、私はいやいけない、と首を振った。円城寺さんが私を引き取ってくれた意味がわかって、そこでおしまいにしなきゃいけない。こんなのは。円城寺さんが私に踏み込まないと言ってくれるのなら、私の権利を侵害しないと言ってくれるのなら、私も彼にそうしなければならないはずだ。
「あんたさ、和彦のこと好きだろ」
またもや唐突な問いかけに、その意味を理解できなかった私はついぽかんとしてしまう。
「…… いい人だとは思いますが」
好きか嫌いかで言えばまあ好きな部類だ。少し、いや大分変わっているとは思うが、基本的にはいい人だと思う。私のあいまいな答えに不満なのか、それともさほど興味がないのか、有馬さんは表情を変えないまま「ふうん」と口にした。そしてまた、紙に向かって手を動かす。
「…… 私と、その人、は…… 似ているのでしょうか」
「俺はそうは思わない」
対象をぼかして尋ねたにもかかわらず、有馬さんはきっぱりと答えてくれた。
「でもまあ、そういうつもりではあるんだろうな。―― 俺の、憶測でしかないけど…… あんただって、それ聞くってことは薄々気づいてたんだろ?」
そうは言っても、円城寺さんの妹さんの存在を知ったのすらつい昨日の話だ。あいまいに頷く私に、有馬さんは続ける。
「嫌なら出ていけばいい。あいつは止めないだろうよ」
「そんな、出ていくなんて」
有馬さんの言葉に、私はとっさに言った。
「…… 行くところが、ないので。むしろ、そんな理由でも置いてくれるのはありがたいんです」
「―― あ、そ」
有馬さんは短い吐息を漏らしながら紙に向き直った。たぶん呆れられたんだろう。紙の上にはいつの間にか絵らしきものが出来上がっている。全体的に黒いのと、距離があるのと、あとはたぶん角度的な問題か、有馬さんの背中がちょうど妨げになってよく見えない。
「あんた、絵を描くといいよ」
「え?」
また唐突だ。返答に困る私に、有馬さんが続けて言う。
「あんたみたいなのは絵を描くといい」
「はあ……」
「筆と絵の具なら使ってないのを貸してやるし、和には俺からも言っといてやる」
話が唐突すぎて、私は黙り込んでしまう。その様子に有馬さんは「あんまり興味ないか」と手を動かしつつ言った。
「いえ、その…… 私、絵を描いたことなんてないですし、わざわざ有馬さんに道具を貸していただくなんて、ちょっと申し訳ないです。それに、私が描いたところで大したものもできないと思うし」
「そりゃそうだろ」
言葉を重ねる私に、有馬さんが呆れたような声を出す。
「べつに、俺はあんたに豪邸が建つような値段で取引されるようなものすごい絵を描けなんてひとことも言ってない。軽い気持ちで始めてみたらいい。その本だって、なんか覚悟して読んでるわけじゃないだろ」
「…… え、でも……」
有馬さんの言い分に、私はひとつ引っかかってしまう。
「その、絵は、上手い人じゃないと描けないですよね」
私の質問の意図がいまいち伝わらなかったのか、有馬さんは手を止めてしまった。そして宙を仰いでしばらく考えると、私の方をゆっくりと振り返る。
「いや、筆さえ持てれば誰でも描けるだろ……」
まったく理解できない。彼の理論が通じるなら、二本の足さえ生えていれば速く走ることができるということだ。でも悲しいことに、人間は誰もがそうではない。
「まあその気になったら教えてくれ。学校帰りでも、週に一度でも、月に何回かでも。俺はこの時間は大抵このへんにいるから」
そんな有馬さんの提案をどうするべきかあれこれと考えながら、その日は昼すぎには帰宅した。玄関には円城寺さんの下駄がなく、出かけているのだとわかる。最近なんとなくわかり始めたことだが、平日の昼間はお仕事なのか基本的には出かけている。昨日のように在宅している時もあるので、いったいなんの仕事をなさっているのだろうとは思うが、なかなか尋ねる機会がない。もしかすると見合いの席でうかがったのかもしれないけれど、見合いの時にはいつも以上にぼうっとしていたせいもあって、なにを話したのかあまり覚えていない。
覚えているのは場違いなことを口にしたことと、みっともなくも泣いてしまったことだけだ。
そういえば、最近ぼんやりすることが減った。正確に言えば、ぼんやりすることはあるけれども、いなくなってしまった父や母のことを考える時間が減ったような気がする。二人がいなくなってしまう前によくしていたような「ぼんやり」に近い。
そんなことを考えながら円城寺さんの部屋に向かいかけて、はたと足を止める。そうだった、円城寺さんがいない時には部屋に入るのを禁じられているのだった。―― というかあの人、結局どうして私に部屋へ入るのを禁止していたんだっけ。まさか本当に上から本が落ちてくるのが危ないからというわけでもあるまい。少し考えてもわからなかった私は一旦さじを投げかけて、昨日目にした写真を思い出した。あれか。大事な妹と、気の置けない友人でもある幼馴染と、自分。そういう思い出の、大切な一枚をつい最近この家に来たばかりの、それも名ばかりの妻になど見られたくはないだろう。
ここへ来てからあてがわれた、私がひとりで使うにはあまりにも広い部屋で、彼に借りた本を捲りながらあれこれ考えていると玄関の戸が開く音がした。
この家の主人が帰ってきたのだ。
私は急いで立ち上がって玄関へ向かった。
「おかえりなさい。…… あの、今日――」
円城寺さんは本を片手に持ったまま玄関の戸を立てた。そしてそのまま本から顔を上げずに私の前を通り過ぎる。
(え、無視?)
私の視線に気づいているのかいないのか、真剣な顔つきで本に目を落としたまま彼は部屋に戻っていってしまった。というか、なんで本を読みながら普通に歩けるんだろう。あの状態で帰ってきたのだろうか、という私の疑問をよそに円城寺さんは本を読みながら器用に廊下の角を曲がり自分の部屋の戸を開け中に入っていった。
その日は夕食の時間になっても部屋から出てこず、ようやく出てきたかと思えば本を片手に食事をしてまた部屋に戻った。
「…… 円城寺さん」
部屋の入り口から控えめに声をかけてみるが、聞こえていないのか無視されているのか返事はない。本読み終わったから返したいんだけどな。あと、今日また嘘をついて学校を休んでしまったことだとか、土手で有馬さんに会ったこととか、その有馬さんに絵を勧められたことだとか、言わなきゃいけないことがたくさんある。
…… もしかして怒ってるんだろうか。
怒られて当たり前のことをしたのだ。私にされたことを後になってよくよくじっくり考え直してみたら、じわじわと怒りが湧いてきたのかもしれない。
翌朝も、朝食の席には来なかった。夜も遅くまで灯りがついていたし―― もしかすると寝てすらいないのかもしれない。
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