第13話

 ず、と未だ鼻水をすすりあげる私の目の前にオレンジジュースが置かれる。続けて給仕の女性は有馬さんの前にはコーヒーを置いていく。

「和には一応聞いてんだ。あんたのこと」

「かず……」

「和彦」

 そういえばそんな名前だったような気がする。というのも見合いの時も、伯母さまが見合いの話を持ってきてくださった時も私はぼんやりしてあまり聞いていなかったのである。名字だけは、伯母さまが何度も円城寺さんと口になさるので覚えてはいたのだが。

 そこで私はふと思い出した。

「このまえ円城寺さんが有馬さんのこと、ふみ、って」

 私が言うと有馬さんはああ、と少し笑った。

「ガキの頃からの渾名なんだ。俺もあいつも友達がいないから、もうお互いしかこんな呼び方する奴いないけど」

「なんか、かわいい。女の子みたいで」

 私が思わず口にした感想に、有馬さんは今度は眉をひそめた。

「いやもうこんななりしてそんな呼び方やめてくれって言ってるんだけど、もう十五年以上呼び合ってるからまあ無理だろうな。今更変えるのなんて…… あんたも学校にそういう相手がいればわかるだろ」

「学校には…… 田舎から伯母のところに引っ越してきたので」

「あ、そうか」

 そういやそんなこと言ってたな、とコーヒーを飲みながらこぼす有馬さんを見ながら、私はでもと続ける。

「小さい時に帝都に引っ越してしまった友達がいて、その子とは今も……」

 がたっと目の前で有馬さんが大きな音を立てて腰を浮かせた。その姿に私はようやく自分の目が再び熱くなっていることに気づく。

「…… いまは、もう……」

「あー泣くな泣くな無理に話さなくていいから泣くな!」

 必死に涙を止めようとするがうまくいかない。せめて突然泣き出したことに対して謝りたいと思うが話そうとすると先に涙があふれてきてしまって言葉にならない。途方に暮れていると、店の扉が開いてドアベルが鳴った。と同時に、目の前で中途半端に腰を浮かせて慌てていた有馬さんが動きを止め蒼褪める。足音はつかつかとこちらに向かってくる。

「ちょっとごめんね、二人でなんの話してたのか、お巡りさんに教えてくれるかな?」

「友達に職務質問をするなよ」

 聞き覚えのある声に私は振り向いた。

「いや職務質問するだろこんなん…… 非番でもつい声かけるくらいの犯罪の臭いがしたよ」

「誤解だ」

 犯罪、という言葉に身がすくむ。このままでは私のせいで有馬さんが犯罪者の汚名を着せられてしまう。私は慌てて声を上げる。涙はいつの間にか引っ込んでいた。

「あのっ、あの、違うんです。ただその、有馬さんの渾名が女の子みたいでかわいいって話をしていただけで……」

「おいもういいだろその話は。俺が泣くぞ」

 有馬さんを守るつもりで言ったのに、当の有馬さんに止められる。そのおかげで有馬さんはますます郡司さんから疑いの目を向けられてしまう。どうしよう、と私が必死に有馬さんを助け出す方法を考えるそばに、誰かがすっとかがみこんだ。

「こんにちは。あなたが薫子ちゃん?」

 長い髪を結いあげた綺麗な女性だった。

「私、郡司の妻で八重って言います。ずっとお会いしたいと思ってたの」

「あっそうだ八重さん、おはぎありがとう。いつも悪いな」

 有馬さんが無理矢理話題を変えて椅子に座り直す。郡司さんが渋い顔をしつつもとりあえず引き下がることにしたのか、怪しむような視線を有馬さんに向けつつも隣に座る。

「あれ、ていうか薫子ちゃん、今日学校は? 休みじゃないよね」

 郡司さんの口調はけして責めたてるようではなく、むしろ雑談のような流れであったのに、後ろめたさを感じている私は思わず胸元を押さえた。言いよどむ私の目の前で、有馬さんが「いいだろべつに」と口を挟んだ。

「誰だって学校に行きたくない時くらいあるさ」

「そうなの?」

 再度尋ねられ私はうつむいた。説明したらたぶん、円城寺さんにも伝わってしまうだろう。面倒な子、と思うだろうか。そう思われたら今度こそ離縁されるか、女学校を辞めることになるかのどちらかだ。その方がいいのかもしれない。せめて休学ということになれば、綾乃ちゃんと会わずに済む。彼女だってきっと、それを望んでいるだろうし。

「…… と…… 同級生と、喧嘩をしたんです。…… と言っても私が一方的に悪くて…… 傷つけてしまったので、行きづらいんです。今日は、円城寺さんにも今日から学校へ行くと言って来たのに、嘘を吐いてしまいました。…… わざわざ、大通りまで私が登校するのを見張っていたというのに」

 その場に沈黙が落ちた。不安になって大人たちの顔を見ると、彼らはこぞって神妙な顔で互いの顔を見ている。しばらくすると、郡司さんが「あのさ薫子ちゃん」と三人を代表するように言った。

「和彦、たぶん君のことが心配なんじゃない? 実際その場にいたわけじゃないから断言はできないけど……」

「心配……」

 私は郡司さんの言葉を反芻した。


『薫子のことが心配で言ってるのよ』


 同時に、かつての母の言葉を思い出す。心配、というのはもっと別のものじゃなかっただろうか。

「あいつ、わかりにくいから。嬉しい顔も楽しい顔も苦手だって前に自分で言ってたし。友達もいないし」

「でも……」

 血のつながった家族でもないし、なにか彼の役に立てるわけでもない。家事はやらなくていいと禁じられているとはいえ、なにもできない私を円城寺さんが心配してくれる理由がまったくわからない。

「信じられないなら、和彦に直接聞いてみるといい」

 家まで送っていくからと立ち上がりながら言われて、私は渋々席を立つ。そんな私の態度になにか感じ取ったのか、八重さんが私の顔をのぞきこんでくる。

「あまり、気が進まない?」

 帰らなきゃいけないのはわかる。だってほかに帰る場所などないから。でも円城寺さんがどんな顔をするのか、こんな私をどう思うのかが怖くて足がすくんでしまう。

「だったら、私と少しお散歩していかない? 帰るか帰らないかはそれから決めたらいいわ」

 ね、そうしましょう、と押されて、私は断ることができなかった。帰らなくていいというのが、あまりにも魅力的だった。



 郡司さんは有馬さんと一緒に円城寺さんへこのことを伝えに行ったので、私は八重さんと文字通り二人きりになる。

 郊外へ出て、土手を二人で歩いた。

「風が気持ちいいわね」

 春の風だわ、と八重さんが言って土手の向こうを見つめた。その先には老夫婦が歩いていて、仲良さげに笑い合っている。

「…… お散歩、あんまり好きじゃない?」

 私がずっと黙っていたので八重さんが心配そうに聞いてきた。私は首を振って答える。

「歩くのは好きです。…… でも、帰りなさいって言われると思っていたから」

「帰る場所があるのはいいことだわ」

 帰る場所、と私は彼女の言葉を反芻した。真っ先に頭に浮かんだのは実家のことだった。ある日帰ったら、父がいなかった。その晩、母も私の寝ている間に姿を消した。あれからずっと、心の中が休まらない。まるで、知らない街で迷子になった子どもみたいに。

「帰ることができるだけじゃなくて、帰らないということさえも自由で、どちらも選べるってことだもの」

 私たちのすぐそばを女性がひとり、自分の子らしき男の子と一緒に歩いていった。

 母に会いたいのか、会いたくないのか、自分でもよくわからない。あるのは、二人はいなくなってしまったのだということと、私は置いていかれたのだということの、ふたつの事実のみである。

「八重さんは、もう選べないってことですか?」

 口にしてしまってから、無神経なことを言ってしまったことに気づいた。慌てて口を押さえる私を、八重さんはにっこり笑って振り返る。

「今はもうあるわ。あの人のおかげ」

 八重さんの笑顔があまりにも幸せそうで、無関係な私まで嬉しくなってしまった。初対面で彼女のことをまったく知らないのに、なんだか不思議だった。

 私の知っている夫婦とは違う。

 少なくとも父や母にとって、お互いが「帰る場所」などという、いわゆる心の支えなどではなかった気がする。母に至っては、父のために命さえ捨ててしまいそうな、そういう予感さえあった。お父さんはお母さんがいないと駄目なのよ、とよく言っていた。

 ―― じゃあ、私は?

 家はあそこしかなかったけど、でも、帰らないなんて選択肢はなかった。家には帰るものだと思っていたから。でもある日突然、それはほかでもない両親によって打ち砕かれた。帰る場所はなくなって、今まで会ったこともない伯母のところへ行くことになって、よく知らない人のところへ嫁ぐことになった。

 そして今、私が帰ることができるのはあの家しかない。

 本当に?

 本当にそれだけだろうか。

「疲れちゃった? 少し休みましょうか」

 八重さんの言葉に、私たちは土手の斜面に並んで腰かけた。

「学校はいつも何時まであるの?」

「三時までです。でも今日は午前で終わりで……」

 土手を顔見知りが歩いてくるのが見える。女学校の聖都だ。顔は知っているがたしか別の学年で、向こうも私のことは知らないだろうとは思うが、つい顔をふせてしまう。

「学校、あまり楽しくない?」

 八重さんが聞いてくるが、すぐには答えられない。

 勉強は、おもしろい。わからないことを少しずつ減らしていく作業は好きだし、裁縫や礼法も嫌いじゃない。

「…… 大事な人を、傷つけてしまいました。私が卑屈なせいで。彼女はこんな変な私に気を遣って、時間を割いて、優しくしてくれたというのに」

 八重さんは黙って聞いてくれていた。

「その子は美人で頭もよくて、私よりずっと友達も多くて、下級生にも人気で…… 嫉妬する隙間もないくらい、すごい女の子なんです。私よりも仲良くすべき相手はたくさんいるのに、いつも私のような、…… 変な人間に時間を取らせてしまっているんです」

「すごくいい子なのね」

 私が話し終えると、八重さんがぽつりと言って、私は頷いた。

「どうして自分が変だと思うの?」

「え……」

 ふいの質問に、私はまたしても言いよどむ。が、答えはひとつしかない。

「お母さんが、そう言ったから……」

「あら、一緒だわ」

 私も言われたわ、と八重さんに言われて、私はぽかんとした。

「え、でも」

 八重さんは美人だし変なところなんてひとつもない。友達だってきっとたくさんいるはずだ。この人が変なはずがない。

「自分だけじゃなくて、自分の大事なひとがひとりになるのも怖いのね、みんな」

 彼女の穏やかな口調に、いつかの円城寺さんの言葉を思い出した。

『おかしい、というのは個人の主観でしかないし――』

 円城寺さんは、私を否定も肯定もしなかったのだった。

「でも、少しくらい変わっていた方が素敵」

 無表情で、無感情で。私になんの関心もなさそうなひと。自分でも干渉しないと言った。そのくせ、本を読むことを勧めてくれた。変な人だと思う。

「…… はい。私も、そう思います」

 生ぬるい風を受けながら、私はぼんやりと川の流れを見ていた。


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