第12話

「それじゃ、行ってまいります」

「あ―― 薫子さん、ちょっと待って」

 翌朝、家を出ようとしたところで声をかけられ、私は立ち止まる。

「私も出るので、途中まで一緒に」

 ここに住み始めてから初めてされた申し出に、一瞬理解が追い付かなかった。というか、なんで今更? あ、つい先日まで迷惑をかけていたからか。見張りというか、牽制というか、ともかくそういう種類のものだろう。

 私は自身をそう納得させて、大通りまで円城寺さんと一緒に歩いた。

「じゃあ、私はここで。道中気をつけて」

「はい。円城寺さんも」

 円城寺さんが歩き出すのを見てから私も学校へ向かって歩き出す。しばらく歩いたところでふと振り返れば、円城寺さんも立ち止まってこちらを見ていた。

 私は慌てて彼から目を逸らした。

 正直もうわからない。

 干渉しないようなことをはじめに言ったくせに、こんなふうに関わってくる。どうして怒ってくれないんだろう。どうして見放さないんだろう。わざと問題を起こしたかもしれないのに。せめて問い詰めてくれれば。

(…… なに考えてるんだろう、私)

 円城寺さんはあんなによくしてくれて、親のいなくなった私にここまでの不自由ない生活をさせてくれるのに、なにが不満なんだ。

 ふと、父のことを思い出した。無口で、休みの日には基本的にいつも家にいて本を読むか、庭の草花に水をやったり、縁側でぼんやりしている。時折気が向くと私を誘って散歩に出かけてくれる。気まぐれな人だったと思う。

 その気まぐれに私がどれだけ振り回されていたか、その気まぐれが私をどれだけ喜ばせたか、あの人には一生わからないんだろう。

 ―― もう死んでるかもしれないけど。

 死んではいなくとも、もう二度と会えないのかもしれない。母と一緒にいるのか、それともほかの誰かといるのか、はたまたひとりでいるのかもわからない。

 なにを伝えることも、なにかを伝えられることももう、ないのかもしれない。

 ふいに胸のあたりがもやもやと疼いて、私は着物の合わせ目をつかんだ。

「薫子さん!」

 名前を呼ばれ、声がした方を見ると綾乃ちゃんが私のもとへ駆け寄ってくるのが見えた。

「今日から学校に来るって円城寺さんに聞いて…… ああ、でも本当によかった」

 綾乃ちゃんは私の手を強く握って瞳を潤ませた。

「熱以外はなんともないって聞いてはいたけど、実際に会ってみるまでは全然安心できなかったの」

 そう言ってことさらに私の手を握る手に力を込める綾乃ちゃんは、まったく嘘を言っているようになど見えない。だから、なおさら私はわからなかった。

「…… どうしてそんなに心配してくれるの」

「え?」

「綾乃ちゃんがそんなに心配する必要ないでしょう? だって綾乃ちゃん、私以外にも友達たくさんいるし、綾乃ちゃんとお話ししたいひとだってたくさんいるし…… 私がいなくても」

 そこまで一息に言って、私はようやく彼女の顔を見た。

「どうしてそんなことを言うの?」

 やってしまった、と思った。なにを、とは言えないが、彼女の今までに一度も見たことのないような表情に、とにかくやってしまったと反射で悟った。

「…… ごめんなさい」

「―― 薫子さ……」

「ごめんなさい」

 綾乃ちゃんがつかみ直そうとしてきた手を、私は強引に振り払った。普段はなにひとつ断ることなどできないくせに、こんなときだけはうまくいってしまうのだ。


『おかしな子ね』

『本当にあんたは』

『まったくもう』


 変な子だから。

 こういうときだけ、うまくいってしまうのだ。

 そのまま私は、彼女の顔を再び見ることなく踵を返した。振り返るのが怖くて、ひたすら歩いた。途中から、いつのまにか走り出していたことに気づいたが、どうしてか足が止まらない。

 いつもそうだった。

 おまえなんていても仕方ないのだと、取るに足らない存在なのだと、そういう態度で関係を切られてしまうのが怖くて、いつも自分から離れたり、傷つけたりしてしまう。

 最低だ。

 それならば最初からひとりでいたらいいのに。そうしたら誰のことも、自分のことも、傷つけずに済むのに。

 みっともなくて、馬鹿みたいで、耐えられない。

 消えてしまいたい。

「おっ…… と……」

 なにも考えずにただ直進していた私の鼻先に、角から飛び出してきたなにかがぶつかった。

「あれ、あんた、和の……」

 飛び出してきた障害物は、物理的な衝撃を受けてようやく停止することができた私を見て言った。

 かず? と私は首を傾げるかたわら、思いきりぶつけた鼻を押さえながら顔を上げた。

「あっ」

 障害物は有馬さんだった。つい先日危ないところを助けてもらったばかりの恩人と言ってもいいような人に私は今衝突したのか。一度ならず二度までも迷惑をかけてしまったことに申し訳なく感じて私は急いで頭を下げる。

「ごめんなさい。驚かせてしまって」

「ああ、まったくだ」

 有馬さんは顔をしかめ、居丈高な態度で頷いた。

「そんなふうにぼんやりしているからあんな被害に遭うんじゃないか?」

 まったくもってその通りだった。

 私はすべてにおいてそうなのだ。いつもぼんやりしていて肝心なときに重大な、あるいは取り返しのつかない失敗をしてしまうのだ。どうしていつもそうなのだろう。私がしっかりしていれば済むはずなのに、それだけで誰を困らせることも、母を怒らせることもないのに、それが私にはひどく難しいのだった。

「わ……」

「あっいやあんたを責めたかったわけじゃなくて―― いやっ今のはさすがに言い過ぎたな」

 耐えきれずにこぼれてくる涙を目にするや有馬さんは目の前で慌てふためき出した。そして懐からちり紙を取り出すと私の顔にやや強引に押しつける。

「ほら、俺が悪かったからもう泣くな」

 ごわついたちり紙は固くて拭われるとひりひりする。かけられる言葉は乱雑で、投げやりで、ちっとも優しくないのに、私はなぜかそこで安心してしまったのだった。


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