第11話
昔から、ほんの少しでも顔をほころばせると必ず周りの誰かが私を物珍しげに指差した。
―― 見て、薫子ちゃんが笑ってる。
そうすると皆が私を振り返って見るのだ。本当にやめてほしい。普段は私に見向きもしないくせに、こんなときだけ注目しないでほしい。
『皆嬉しいのよ。薫子が笑うと……』
なんで?
『それは……』
私を好きになってくれる人なんていないんでしょう?
お母さんがそう言ったんだよ。
ねえどうして?
『…………』
どうしてなにも言わないの?
お母さん。
…… なにか言ってよ。
「おか……」
ちかちかと視界の中でなにかが瞬いた。目蓋の隙間から入り込んでくる光は強引で、少し身勝手だ。私は眼の中に割り込んできた光に顔をしかめながらゆっくりと体を起こした。胸元に落ちてきた濡れた手拭いは、すっかり私の体温が移って温まってしまっている。
枕元には水の入った桶とお盆がある。お盆の上には、薬と水。
倒れたんだっけ。そういえば。
そう思って額に触れてみるが熱くはない。顔のほてりもない。もしかして、何日か寝込んでしまったのだろうか。数日寝込んでしまったことなら、幼い頃に一度だけある。八歳のとき、綾乃ちゃんが帝都に引っ越すと聞いて大泣きして、周りの大人をひどく困らせた。綾乃ちゃんのことが大好きだったということもあるけれど、当時も今と変わらず彼女以外に友達がいなかったからというのが泣いた原因としては大きいと思う。たくさん泣いて、彼女のいない学校に行きたくなくて、しまいには熱を出した。私はよく熱を出す子どもだったけれど、何日も寝込んだのはあれが初めてだったように思う。
熱を出したまではいい。ひどいのは、泣くほど別れを惜しんだ私に綾乃ちゃんは手紙を出し合おうとまで言ってくれて、私もこれには大いに賛成したはずであるのに、その約束は一度も果たされなかったことだ。綾乃ちゃんから手紙は来なかったし、私からも出さなかった。
あろうことか私は、熱が下がると彼女との約束のことなどけろりと忘れて学校へ行った。たしか、床に伏している私のところへやってきた父がなにか言って、それで私は学校へ行く気になったような気がする。でも肝心な部分、父からなにを言われたのかを覚えていない。
手紙のことを思い出したのは綾乃ちゃんが帝都へ行ってしまってからもう何か月も経ったあとで、私はなんとなく出しにくく感じて、結局一度も出さなかった。
だって、綾乃ちゃんからも来なかったし。たぶん怖かったんだと思う。この友情が、私だけが感じているもので、完全なる片思いだったら。綾乃ちゃんは優しいから、私のことを気にかけてくれていただけなのではないか。そういう馬鹿なことを考えた。今も考えている。
「あ、薫子さん」
起きたんですか、と言いながら部屋に入ってきたのは、名ばかりの私の夫だった。
「どうですか、体の具合は…… 一応熱は下がったようなので、まつさんは帰られました。なにか困ったことがあればまた連絡するようにと言っていました。あと、薫子さんによろしくと」
円城寺さんは部屋の入り口に腰を下ろすと必要事項を並べ立てた。
「それと、薫子さんのご学友の、四辻さんとおっしゃる方から昨日電話がありました」
「綾乃ちゃんが?」
私が驚いて言うと、円城寺さんが頷いた。
「ええ。ずいぶん心配していたみたいなので……。明日は学校に行けそうですか?」
「…… はい。たぶん」
「それはよかった」
私の答えに円城寺さんはどこか安心したように言った。
「でも、あまり無理はしないように。明日の朝やっぱり調子が悪いようなら無理せず休んでください。ぶりかえすといけないので」
なんだかいつもより優しい気がする。いつもの無関心かつ無表情な優しさじゃなくて、一般的に言われるような優しさの方。…… いや、違うか。単に面倒なことが起きないように最低限気を配っているだけだろう。ただでさえなにもできない居候なのに、熱を出して倒れるなんて、さぞ困らせたことだろうし、面倒に思われただろう。
「…… ごめんなさい」
私はぽつりと謝罪の言葉を漏らした。
「お部屋、勝手に入ったりして」
あんな簡単な約束ひとつ守れなかったのだ。切り捨てられても文句は言えない。そう思って円城寺さんの顔を見れば、彼はいつものような無表情で唇を開いた。
「いえ…… ただ、よくあのように上に積んだ本が落ちてきたり、あと床にある本につまづいたりするので、慣れるまでは私がいるときだけにしてください。危ないので」
「…………」
まさか許されるだなんて思ってもいなかったので、私はつい言葉を失くして黙り込んでしまった。
「…… いいんですか」
「え? はい」
円城寺さんはどうして私がそんなことを尋ねるのかわからない、と言ったふうに首を傾げて答えた。
「直接見て選びたいときもあるでしょうし…… 私自身持っているすべての本を完璧に覚えているわけではないし、好きに眺めてもらっていいですよ」
彼は怒るべきだ、むしろ。
私は怒られるべきだ。
『なぜわからないの』
『どうしてそういうことをするの』
『貴方のために言ってるのに』
『どうしてお母さんの言うことが聞けないの』
怒られるべきなのに。
「―― でもっ」
ぎゅ、と私は膝の上に置いた両手を強く握りしめた。
「私変だし…… 変だから…… いつも間違ったこととか、違うことして怒られるし……」
「薫子さん?」
円城寺さんの怪訝そうな声が降ってくるが、顔を上げて確認するまでの余裕がない。
「いつも気をつけるけど……、気をつけてるけど、やっぱり変だから、うまくいかなくて――」
頭がぐらぐらする。視界がぼやけて、頭の中が真っ白になる。なにも考えられない。苦しい。
「薫子さん、落ち着いて」
横からかけられる言葉の意味も、もうよくわからない。
喉元がどくどくと脈打っている私の背中を円城寺さんがそっと押さえた。
「なにも考えなくていい。息をゆっくり吐いて…… 大丈夫だから―― 水、飲めますか」
呼吸が整い始めた頃を見計らって差し出された湯呑みを受け取って、促されるまま流し込もうとするがうまくいかずにむせてしまう。
「…… ごめんなさ……」
「大丈夫ですよ、ゆっくりで…… それとも、なにかべつのものがいいですか。食べたいものとか、もしあれば」
私がゆるゆると首を振ると円城寺さんはそうですか、とどこか残念そうに言った。
「…… ごめんなさい。もう少し、寝ます」
そう伝えると円城寺さんは頷いて立ち上がった。
「なにかあれば、教えてください。居間にいるので」
それだけ言い置いて部屋を出て行く円城寺さんを見送ってから、私は布団に倒れた。よほど熱が高かったのか、ここ数日間の記憶がない。柱にかけられた日めくりカレンダーを見るに、私が倒れてから二日が経過しようとしているらしい。寝込んでいた私は当然カレンダーをめくった記憶がないので、円城寺さんか伯母さまがめくってくださったのだろう。
そういえば、寝ているときに顔になにかひんやりしたものが触れたような気がする。一瞬父の手かと思ったがそんなはずはないので、たぶん氷か、あるいは濡らした手拭いかなにかだと思うが。
―― もしくは円城寺さんの手、とか?
浮上しかけた説はすぐさまありえないと私自身によって鼻で笑われてしまう。たしかに、ありえない。
…… 正確には、ありえてほしくない、だ。
優しくされればされるほど、どうしようもなく不安になってしまう。期待しなければ傷つかずに済むのであろうが、悲しいことに期待しないための上手なやり方を私は知らない。
私はやり場のわからない感情を持て余しながら、布団を頭まで被って無理矢理目をつむった。
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