第10話

 大人の役割か、と和彦はひとり、彼女の言葉を思い出しながらため息を吐いた。

 自分にとってその大人の役割とやらを果たしてくれたのはのはおそらく、親ではない。和彦は自らの首に手をやった。父母とは幼い頃に離されて、顔ももうおぼろげだ。父に特別目をかけてもらった記憶もなければ、母からは足で首を圧迫された思い出しかない。育ててくれた祖父母は、厳しくはなかったが優しくもなかった。

 有馬の家は都心から少し離れたところにある。彼の父親が建てたという立派な洋館は、ここいらでは有名だ。門を抜け、呼び鈴を鳴らそうとしたところでそこが薄く開いていることに気づく。和彦は扉を開け中に入ると、迷わず廊下を進んでいった。廊下のカーテンはすべて閉められ、自然な光の介入を一切許していない。

「―― 八重さんに言っといてくれ。おはぎうまかったって」

「自分で言いに来いよ。君、相変わらず外には全然出てないんだろ。…… あ、和彦」

 人工的な光が漏れ出ている部屋に立ち入ると、先に着いていたらしい郡司が振り返った。

「おはぎ、君のぶんもあるぞ」

「ああ、ありがとう。…… 玄関の扉が開いてたんだが、不用心じゃないか」

 有名画家の住む家となればその手の者たちから見れば宝の山だ。この家にある絵を、大小さまざまにあるがすべてをまとめて売り払えば、たぶんここと同じくらい立派な屋敷がいくつかは建つ。

 幼馴染を心配して和彦が言えば、有馬はいいんだよ、と投げやりに言った。

「持っていきたきゃ好きに持っていけばいい。どうせ価値なんてわからない。画商のやつらと一緒だ。俺の描いたものなんてどうでもいいんだ。その辺の石ころを描いただけでも、やつらはかまわず持っていくだろうよ」

 一応口を聞いてはくれたが、話す内容は相変わらず卑屈で、どこか自虐的だ。

「…… だからこそ、わかる人に…… わかってくれる人に買ってもらわなきゃいけないんじゃないか。その絵を見るべき人のところへ、届くように」

「そんな人はいない」

「いる」

「いない」

「いる」

「いないって言ってるだろ」

「いるって言ってるだろ」

「おいおい、落ち着けって」

 徐々に漂いはじめた険悪な雰囲気に、郡司が慌てて立ち上がる。が、和彦も有馬も彼には目もくれず、互いを鋭く見つめたまま動かない。

「どうしてわからないんだ? おまえの絵が必要な人はこの世に大勢いる。どうしてすぐそばにある苦しみに救いの手を差し伸べてやれない?」

「それはこっちの台詞だ。そんなに助けてやりたきゃおまえが救ってやればいい」

 きっぱりと言われて、和彦は言葉に詰まった。

「…… おれは……」

「逃げたくせに」

 有馬は獰猛な獣のような瞳で和彦を睨んだ。

「あの子が死んでから! 真っ先に逃げたくせに!」

 違う。

「あの子をみすみすあんなところへ行かせたおまえが!」

 そうじゃない。

「そのおまえが俺に文句をつけるのか!」

 俺は。

「…… っ、おれは……」

「―― ちょっと待てって!」

 郡司が大声で止めに入って、ふたりは黙った。

「いちいち突っかかるなよ、有馬。和彦も。二人とも、少し落ち着けよ」

 郡司は比較的慎重に言葉を選んでいる。前にそれで収集がつかなくなったことがあるからだ。

「あまりそうやってお互いのことを責めるなよ。…… 自分のことも」

「じゃあ誰が責めてくれるっていうんだ」

 有馬はそう言って、椅子の上に力なく座り込んだ。その姿に郡司は言葉をなくしたように固まってしまう。

「あの子はもうかえってこない。時間だけが過ぎていく。声も、顔も、どんどん忘れていく。…… わからなくなる。―― なにもしなくても。なにをしてても」

 声は静かで、少しだけ震えていた。有馬は椅子の上で片膝を立てそこへ顔を埋めた。

「…… 誰か俺を罰してくれ」

 部屋の中に苦しいほどの沈黙が降り、郡司は唾を呑む。

「できないよ。誰にも、そんなことは」

 郡司が口を開きかけた瞬間、和彦が言った。

「誰も――、ふみにも、そんな権利はない。罰も、非難も―― 赦しさえ」

「その呼び方、やめてくれ。嫌いなんだ」

 幼馴染の言葉を遮るように有馬は彼の目を見ないまま言った。和彦はふっと有馬から視線を外すと、「帰るよ」と口にした。郡司は背を向けて去っていく和彦を引き留めようとして手を伸ばし、やはり止めた。二人が口論になってどちらかがその場を去ってしまうのは、今のが初めてではない。

「話し合うんじゃなかったのかよ」

 和彦が遠ざかっていく音を聞きながら、すぐそばに座っていた友を振り返り郡司は呆れたように言って再度椅子に腰かけた。

「話し合うなんて言ってない。おまえがそんなに言うなら、少しは話を聞いてやってもいいと言ったんだ」

 郡司はもうため息しか出ないと言った様子で額を押さえた。有馬はおはぎの入っていた重箱を自らのそばへ引き寄せると二つ残っていたうちの一つをつかんで食らいついた。

「…… 君それ、今日一日の動力をそれで賄うつもりじゃないだろうな」

 友人の口から放たれた言葉に、有馬は餡子が気管に入ったのか、大きく咳ばらいをした。湯呑みに残った緑茶をすすりながら有馬は「動力って」と眉を寄せてみせる。

「人をからくり人形みたいに言うな」

「絵描き人形」

「うるさい」

 ほっとけ、と拗ねた様子で茶をすする有馬に郡司は「でも」と言葉を重ねた。

「俺は、昔の君の―― 椿原ふみ子の作品も好きだよ」

「そりゃどうも」


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