第9話
玄関には女性ものの下駄がある。薫子のものではない。鞄を玄関先に置いて薫子の部屋へ向かうとちょうど、彼女の伯母まつが出てくるところだった。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました。…… あの、薫子さんは」
昨晩、突然倒れてしまった薫子を前にして、まず頭に浮かんだのはまつだった。なにかあればすぐに報告を、というのは彼女と交わした取り決めのうちのひとつだ。
「まだ熱が下がりません。今日も泊まっていくつもりですけれど、構いませんか」
「すみません。助かります」
まつには昨晩呼んでから薫子の看病で一晩泊まってもらっている。頭を下げるとまつの方からも頭を下げられる。
「いえ、こちらこそ、無理を言ってしまってすみませんでした」
こうして彼女が頭を下げるところを見るのはもう何度目だろう。まつの頭を見ながらふと、和彦は思い出した。
「ところで南先生の方は…… あれから何か進展がありましたか?」
「いえ、なにも。ただ、警察の方に、これだけ探して見つからないというのは、たぶん自らの意思でいなくなって、そして今もどこかで生きている可能性が高いという話はされました」
和彦はそうですか、と頷いて
「お二人とも無事だと良いんですが」
と言ったが、まつは複雑そうな顔をした。
「なにか要るものや手伝うことはありますか? といっても大したことはできませんが…… あ、氷とか……」
「氷嚢はさきほど使用人の方に作ってもらいました」
まつは桶を持って立ち上がった。
「今ちょうど眠ったところです。水を替えてくるので、少しの間様子を見ていてくださいますか」
「あ、はい。わかりました」
自分とは反対に背筋を伸ばして廊下を歩いていくまつを見送って、和彦は音を立てないようそっと戸を開けた。
部屋にのべられた布団には己より一回り以上も年下のまだ幼いと言っていい、かよわい少女がいる。薫子は両の頬を赤く上気させ、苦しげな表情で眠っていた。和彦は彼女のそばへ静かに腰を下ろすと、赤く染まった頬へと手を伸ばした。―― 熱い。同じ人間のそれとは思えないほどに熱を発しているその場所が、和彦の冷たい手を少しずつ熱していく。
和彦の手がよほど冷たくて気持ちがいいのか、薫子はほうと息を吐いた。
『―― 兄さんの手、冷たくて気持ちいい』
有馬が怒るのも当然だった。なにも知らなかったとはいえ、みすみす手放したあのときの妹と同じ歳の子を引き取って、まるでままごとのように一緒に暮らしている。あの日を、あの選択をなかったことにするみたいに、―― 大事に、大事にしながら。
和彦は薫子の頬から手を離した。
有馬には明日にでも謝りに行こう。一からきちんと説明して、それから…… それから? 桜子が亡くなってから、有馬と和彦の間には定期的に衝突がある。あるときには和彦が、またあるときには有馬が、なにかしら見つけては、相手を責める。なんとはなしに普通に話すようになって、しばらくするとまた喧嘩をする。
今回も同じだろうという気持ちと、いや今回だけは違うのではないか、という気持ちが混ざり合って、胸の中でぐるぐると渦巻いている。
「おと…… さ……」
悪い夢でも見ているのか、薫子は眉間に皺を寄せて身をよじった。額にはあぶら汗が浮かび、とても見ていられない。どうにかしてやりたい、とは思うけれど。
(―― それは、さすがに)
彼女に対して失礼な気がする。
だって、まだ十六だ。
なにを聞いても、なにをされても。良いことも悪いことも。良くも悪くも、みな律儀にその身でもって受け取って、己のなかにその色を溶かしこんでしまう。そういう年頃だ。
ましてやこんな境遇の子どもに対して他人の、大人の、身勝手な気持ちをどうにかするために利用するなんてことは、たぶん、いや絶対に、してはならないし、あってはならないと思う。
和彦の背中で、部屋の戸がすっと開いた。まつが新しい水の入った桶とともに入ってくる。
「ときどき、こんなふうにうなされているんです」
ずっと無理をしているのかもしれない、とは思っていた。でも、会ったばかりの自分にはなにもできないとわかっていて、それでもなにかしたくて、本などを勧めてみたりした。薫子は睡眠時間を削ってまで読んでいるようだったし、せめて様子を見て大人として注意すべきだった。
「…… あの、これはあくまで提案なのですが」
はい、とまつが手を止めあらたまったふうに姿勢を正す。常に凛として、つけ入る隙のないその姿からは、自分にも他人にも厳しげな印象を受ける。
「どうでしょう。薫子さんに私のもとへ来ることになった経緯だけでも話すというのは」
まつの堅く引き結んだ口元がひくりと動いた。
「難しいですか?」と和彦が尋ねると、彼女は唇をぎゅっと結び直して頷いた。
「そうですね。…… たぶん、無意味に期待させることになります。あの兄の子だというだけで、たったそれだけですけれど、わたくしには彼女を愛することはできないのです。ついこの間まで、その存在すらわたくしは知りませんでしたけれど、この子がどういう子であるかもまるでわかりませんけれど、きっとそれだけは確かなのです」
「…… でも、彼女を私のもとへと決断なさったのは、彼女を誰よりも案じたからこそではないのですか」
和彦からの問いに、まつはいいえ、と首を振った。
「それは、あの年頃の身寄りをなくした子どもに対する憐れみの情からとった行動でしかなく、姪に対する愛情などではけしてありません。…… 難しい年頃ですから、どこへ行っても、なににも染まらないというのはたぶん、大人でも難しいでしょうけど、それでも、たった十六の子どもが、ふさわしくないものや場所に触れるのを避けるのはすべての大人の役割だとわたくしは思いますから」
彼女の声は変わらず、凛として揺るぎなかった。
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