第8話
円城寺和彦は、街角の狭い喫茶店の、一番奥の席にじっと座っていた。時刻は夕暮れ。空を赤く染め上げる太陽は、店内をも真っ赤に侵食していた。
「さて、なにから聞けばいいのかな」
目の前では同じ年頃の男が店内に人がいないのをいいことに通路側に投げだした足を組んで座っていた。男―― 郡司智宏はテーブルに肘をつき、友の顔を見た。無表情で、相変わらず表情が読めないその顔はともすれば不機嫌であるかのようにも見える。
「君と有馬が喧嘩してるのは、まあ、いつものことだとして」
「…… べつに喧嘩してるわけじゃない。…… 少し、怒らせてしまっただけで」
「それはまた、どうして」
郡司に尋ねられ、和彦はぐっと喉を詰まらせて黙り込んだ。数秒黙ったあと、覚悟を決めたように唾を飲み込み口を開く。
「…… 結婚したんだ」
絞り出すような声で呟くと、郡司はコーヒーを飲む手を止め口を半開きにしてこちらを見つめてきた。
「…… だれが?」
「…………」
和彦は答えない。口を閉ざしたまま、有馬にそうしたときのように断罪の時を待っている。郡司はゆっくりと和彦に向かい合うように座り直すと、テーブルに肘をついたまま額を押さえ長くため息を吐いた。
「あの子か」
「事情があるんだ」
「でも有馬は聞かないだろうね」
その通りだ。
郡司は落ち着いた様子で残りのコーヒーを飲み干した。そのように見えるだけかもしれないし、そう見えるように取り繕っているだけかもわからない。
「怒らないんだな」
「俺が怒ることじゃない。まあ有馬が怒るのもわかるけど。…… 怒ってほしかったのか?」
意外そうに、やや拍子抜けしたように和彦が言ったので、郡司はからかうように尋ねた。
「…… そうかもしれない」
今度は郡司が黙った。和彦は―― いや、彼だけではなく有馬も、たびたびこのように責められるのを待つような、そういう顔をする。郡司には、どうすることもできない。
「今日、彼女は? 家にいる?」
郡司は空気を変えようとつとめて明るい声を出した。すると和彦はまたしても気まずそうに視線を逸らした。それからぽつりと小さな声で「学生なんだ」と口にした。
「だから昼間は学校に行ってる。本当は、結婚と同時に学校を辞めるという話もあったんだけど、俺の方が…… 学校は行った方がいいと、少し強引に言ったんだ」
「…… それは」
おそるおそるといった調子で言葉を重ねる和彦に、郡司が割って入る。
「桜子ちゃんのことが、あったせい?」
和彦は長い前髪の向こうでまばたきひとつせずに空になったコーヒーカップを見ていた。この男は数年前のあるときからずっと、髪を伸ばし続けている。見目は悪くないのだからさっぱりと切ってしまえばいいのにと思うが、伸ばしはじめたきっかけを知っているだけに思っていても口にはできない。
「まあ、理由のひとつではある」
「全部じゃないのか」
「…… 彼女、今色々あって大変なんだ。と言っても彼女にできることはたぶんないし、俺にもどうにもできないんだけれど。でも、そういうときってなにか予定があった方が気がまぎれるだろ。だから、せめてと思って」
なるほどね、とこぼした郡司の声を聞きながら、和彦は続ける。
「でも、やっぱり無理してたみたいで、昨日熱を出して倒れてしまって…… 男の俺じゃ看病できないし彼女も嫌だろうし、彼女の伯母さんを呼んで看病してもらってる」
「たしかに、なにか間違いがあったら君今度こそ有馬に殴られるだろうしな―― いや、夫婦だからこの場合間違いとは言わないのかな」
「殴られる程度で済んでくれたらどんなにいいか」
和彦は頭を抱えた。有馬以外のことでもこれくらい乱されてくれればいいのだが。郡司は苦々しく笑みを浮かべて、幼馴染に想いを馳せる旧友を眺めた。
「…… あいつもあれで心配してるんだよ、君のことを」
不器用な友人の思いを代弁するつもりで郡司が言うと、和彦はよりいっそう表情を曇らせた。もうとっくに冷めてしまっているであろうコーヒーの入ったカップのふちをなぞりながら和彦はうつむいた。
「それは、よくわかってる。―― 有難いとも思ってる。貴史の気持ちも、郡司の気持ちも、嬉しいし有難い。二人がいてくれなかったら俺は多分どっかで死んでたと思う。だから、二人には本当に感謝してる。…… こうやって言っても全然足りないくらいには」
低い声でとつとつと話しつつ和彦は「でも」と言葉を切った。
「だけど…… 自分にはそんな資格や、価値が…… ないんじゃないかと思ってしまう。二人に―― ふみに、想われれば想われるほど」
郡司が眉間に皺を寄せる。和彦はそれに気づかず、顔を上げないまま話し続ける。
「自分に自信がないとか、死んでしまいたいとはもう思ってない。仕事も自分に合っていると思うし、楽しい。でも、君やふみの気持ちは―― それ以外の全部も、俺には身に余るもののような気がして……」
ぐ、と頭部を上から押されて和彦は顔を上げようとした。が、強い力で押されているせいでそれは叶わない。
「どうして、そういうことを言うんだよ」
上から悲しげな声が聞こえてくる。頭を押す力が緩んで和彦は顔を上げた。
「―― ごめん」
「俺はいいけど、有馬に言うなよ。あいつ泣くぞ」
犬にでもするようにがしがしと髪をかきまぜてから、郡司の手は離れていった。
「…… ごめん。…… 君を一方的に傷つけたり、失望させるのはしたくないと、思っているんだけど」
「わかったよ、もう。全然わかんないけど」
言いながら郡司は席を立った。
「あんまり難しく考えるなよ。色々と」
「…… まあ、努力するよ」
友の言葉にそう返して立ち上がると、「そういうところだな」と苦笑交じりに言われ、和彦は首を傾げた。それを見て郡司はまた可笑しそうに笑う。
「有馬んとこ、早めに行っておけよ。大変だろうけど」
喫茶店を出るなり郡司は言った。
「いつも通り仲裁くらいはするからさ」
「それは、すごく助かる」
肩を叩く手のひらにこの上ない安堵を覚えつつ、和彦は帰宅した。
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