第7話

「―― それじゃあ、犯人の顔は見ていないんだね」

 警察の方が重ねて訊ねてきて、私はおずおずと頷いた。円城寺さんのお知り合いらしい男性に連れられて一連の出来事を話したが、いかんせん恐怖が強く、混乱ぎみの頭ではうまく説明できなかった。あのときは抗うのに必死で、相手の顔の一部すらもわからない。

 聴取をしてくれた警察の方の残念そうな、困ったような顔に私は責められているような気分になる。せっかく助けてもらって、ここまで連れてきてもらったのにと思いながら聴取を終えて部屋から出ると、別の部屋からちょうど彼も出てきたところだった。

「この子の保護者は?」

「先ほど家に電話をかけたのですが、不在のようで…… 今もう一度かけてもらっています」

 私に聴取をしてくれた方の人が年下の部下らしき人とそんなやりとりをしたあと、私の頭越しに「有馬」と声をかけた。

「悪いけどこの子と待っててくれるかな」

「ああ」

 男性の名前は有馬さんというらしい。刑事さんは彼と知り合いのようだった。どこを見つめるでもなくぼんやりとして立ち尽くしている私に、有馬さんが「座ったら」とおっしゃった。私は、ふらふらと長椅子に近づき腰を下ろした。どのくらい待っただろうか、せわしない足音がその場に鳴り響いて、それでも私が顔を上げられずにいるとその足音は私の近くで止まった。ほんの少しだけ顔を上げると帝都で幾人もの大人の男性が履いているような革の靴が見える。

 その人はゆっくりと迷うように立ち止まる。靴の先が向いている方向は私の方ではない。

「―― ふみ……」

 私はようやく顔を上げた。知らない人の名前を発した私の知っている声は、私を見てはいなかった。私を引き取りに来てくれたはずの円城寺さんは、有馬さんのことをじっと見つめたまま固まっていた。なにかに耐えるようにその視線を受け止めていた有馬さんはふっと目を逸らして長椅子に置いていた上着を手に取った。

「聴取はもう終わってる。郡司が馬車手配するって言ってたから待ってるといい。―― 俺はもう行く」

「ふみ、待っ――」

 じゃあな、と去りかけた有馬さんの腕を円城寺さんがつかんだ。が、同時に有馬さんがそれを振り払う。

「話を聞く気はない」

 先日訪ねてきた時はずいぶんと円城寺さんと親しそうな相手だと見てとれたのに、今ではまるで反対だ。円城寺さんも、今まで見たことのないような顔をしている。途方に暮れたような顔の円城寺さんを置き去りにして、有馬さんは去っていった。

「あ、和彦、やっと来たか」

 さっきの刑事さんがやってきて、円城寺さんは弾かれたように顔を上げた。

「一応聴取は一通り終わったけれど、なにか思い出したことがあれば教えてほしい。さっき本人にも伝えたけど…… あとごめん、余計なお世話かもしれないけど彼女、親戚の子かなんか? どうもお前が保護者っていうのが俺には……」

「今度、話すよ」

 薫子さん、と名前を呼ばれ私は立ち上がる。円城寺さんが「それじゃ」と何事もなかったかのように、たまたま道端で会った旧友と話し込んだ後のように、刑事さんに背を向けて歩き出した。心配するどころか、怒りさえしてくれない。それもそうだ。私と円城寺さんは最近出会ったばかりの他人なのだから。

 でも、と、私は初めて彼に会った時に言われた言葉を思い出す。

 こうして形ばかり結婚したところで私と円城寺さんが他人なのは変わらなくて、いや、きっと父と母もそうだったのかもしれない。想い合って一緒になっても、結局は人と人で、その事実はついぞ誰にも覆すことはできなかったのだと思う。

 すっかり日の落ちた暗い夜道を、円城寺さんは黙って歩いていた。私も、なにも言わずに左斜め後ろを歩いていた。

 家に帰ってから少し遅い、けれどいつも通りの夕食を摂った。そのあとは円城寺さんがお風呂に入る。いつもと同じだ。

 円城寺さんがいなくなったのを確認してから、私はおもむろに立ち上がった。足音を立てないようにして、家の北側に向かう。円城寺さんの部屋がある方だ。いつも朝出かけるときにいってまいりますと声をかける位置で、私は一度立ち止まる。部屋の電気がつけっぱなしになっているのか、ほの明るい光が床に伸びていた。廊下は、いくらかの本が積んであるせいで本来の幅がなくなってしまっている。きちんと閉められていない、薄く開いた障子戸に私は手をかける。

 いつも、が明日も来るとは限らないのだと、私はあの日思い知らされた。

 どうせ来ないのなら、自分の手で終えたい。誰かから一方的に終わらされるのではなく。

 戸の向こうは、本であふれていた。

 壁には本棚が敷き詰められ、床にも本が散らばっている。外から見る限り私の部屋とそう変わらないか、なんならこちらの方が少し広いようにすら感じられたのに、中に入ってみれば私の部屋の半分くらいしかないように思える。

 足元でぐしゃりと音がして、私は慌てて足を上げた。見れば床には何枚もの原稿用紙が散らばっている。そのどれもが、走り書きのような文字で一面を埋めつくされている。ほかにも丸めた紙や、何枚かに破られた紙が散在しているがこれらもたぶんそうなのだろう。

 私はなんとなく一番近くの足元に落ちていたのを拾い上げた。


『すずめを飼い始めた。なぜすずめを、とお思いかもしれないが、それは小生にもよくわからない。自分でもなにがなんだかわからぬうちにそうなっていたのである。

 すずめは定期的に食事を摂る。恥ずかしながら、人として、生き物として必要とされるべき食事というものをしばしば忘れがちな小生にとってはありがたい。おかげで以前よりは人間らしい生活が送ることができているのではないかと思う――


 以降は黒く塗りつぶされていて、読むことができない。綴られた文字自体もひどく達筆で、悪く言えばみみずののたくったような字で、まあはっきり言って汚い。

 ほかの紙も拾い上げて読んでみるがどれも同じように抽象的な文章でなにを言っているのかよくわからないか、あるいは黒く潰されていて文字そのものが読めない。全部円城寺さんが書かれたのだろうか。

 私は円城寺さんがなんのお仕事をされているのか知らない。朝は私が先に家を出るし、帰宅時間はその日によってまちまちだ。

 こんなふうに原稿用紙に何枚にも渡って文章を綴る仕事は、あいにくと私はたったひとつしか知らない。


『作家なんてね――』


 脳裏に声が反響して、私は思わず後ずさりした。どん、と肩が本棚にぶつかった。と同時に頭上でなにかが動く音がして、見上げようとしたその瞬間、背後から腕を引かれた。なにか黒い影が私に覆い被さって、その影越しにいくつかの本が落ちていった。そうして私はようやく、自分のしたことと、たった今起こったことを理解した。腹の底から頭のてっぺんまでさあっと血の気が引いていくような感覚がおそろしくて、顔を上げることができないでいると、肩をぐいと押された。そのまま無言で部屋の外へ押し出され、私は狭い廊下にぽつんと佇む。

 ―― べつに、どうしても部屋が見たかったわけじゃない。彼の内面を暴こうとしたわけでもない。彼の尊厳を傷つける意図もなかった。


『変なんだから』

『あんたのことなんか』

『お父さんは』

『薫子』

『あんたのために』


「―― ッ……」

 頭が今までになくぼうっとする。締め付けられるように痛い。なんだかおかしい。

「薫子さん、怪我は――」

 上半身は鉛のように重たいのに、下半身がふわふわとおぼつかない。立ってられない。

「…… 薫子さん?」

 円城寺さんの、いつになく動揺したような声が聞こえる。けれどもう、私にはその顔を確認することすらできない。私の意識は、そこで途絶えた。

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