第5話
学校から戻ると家の玄関の前に知らない男性が立っていた。円城寺さんほどではないが少し猫背で、でも背は多分同じくらい。
「あの……」
私は意を決して話しかけた。知らない人を家に上げてはならないと、ほかならぬ円城寺さんと約束したのだ。私にはそれを守る義務がある。
「なにかご用でしょうか」
そのひとは何日も徹夜したみたいな、暗く澱んだ鋭い目つきでぎろりと視線を動かし私の姿をとらえると、まるで幽霊でも見るような顔をした。そして少しの間茫然としたあと、我に返ったように口を開く。
「あんた、だれ?」
「私は……」
そこまで口にして、はっとした。果たしてここで、「円城寺さんの妻です」とはっきり言っていいものだろうか。円城寺さんは私を旧姓のまま女学校に通わせているくらいだし、そんなふうに断言したらそれこそ迷惑かもしれない。これ以上迷惑をかけたら、この家に置いてもらえない可能性すらある。私は一生懸命頭を回転させ、言葉をひねりだす。
「…… 最近ここに来て……、暮らしている者です」
自分でもなんだかよくわからない自己紹介になってしまった。案の定男性は私を訝しむように眉をひそめた。でも引き下がるわけにはいかない。
「えん…… 旦那様に、なにかご用でしょうか」
「旦那様? ―― ああ、なるほど」
男性はなにやらひとりで納得したように言って、再び私を見た。
「俺はこの家の奴の知り合いで、こないだ借りた本を返しに来たのと、ついでに新しく本を借りに来たんだ。奴に取り次いでくれないか」
「それはできません」
「ああ、頼――、なんだって?」
私が断ると彼は再び険しい表情を顔に戻した。よく見ると顎にはまばらに髭が生えていて、どこか粗暴な印象を受ける。それでも、私は怯むわけにはいかなかった。
「主人は今出かけていて、三日ほど帰りません」
「出かけた?」
あいつがか? と信じられないとでもいうような口調で彼は言った。
「どこへ?」
「わかりません」
正直に答えると男性は焦れったそうに頭をかいた。
「―― じゃあ、勝手に返して勝手に借りてくから鍵を開けてくれ」
「それもできません」
「は?」
男性は今度こそ理解できないといったふうにぽかんと口を開いた。
「その…… 知らない人を家に上げてはいけないと言われていますので……」
私はぼそぼそと言い訳した。上から責めるように見つめられては、なんだかこっちが悪いことをしているような気がしてくる。
「それなら、あんたが俺の代わりにこの本を返してまた別の本を持ってきてくれ。これの続きの――」
「あの、それもできないんです……」
本当に申し訳ない気持ちになりながら言う私に、男性は三度眉をひそめた。
「私は円城寺さんの部屋に入るのを禁じられているので……」
ごめんなさい、と私は彼の力になれないことを恥じながら謝罪した。
「…… それじゃあ俺は、このまま帰るしかないってことか」
「そう…… なりますね……」
うつむいている私の頭に、観念したような男性のため息がふってきた。
「わかった。今日はもう帰る。なんかあんたと話してると疲れるし」
「えっ」
顔を上げると彼はすでに私と円城寺さんの家に背を向けていた。諦めてくれたのかとほっとしかけたのも束の間、来た道を戻りかけていた背中が振り返った。
「今日のことは、別に奴に報告しなくていいからな」
男性は今度こそ帰っていった。ややおぼつかない、やはり何日も徹夜したみたいな足取りでふらふらと。
報告しなくていいとはいったいどういうことだろうか。なにか後ろめたいことがあるのか。それとも単純に必要ないということなのか。でも、私には円城寺さんが留守にされている間この家で起きたことのすべてを彼に報告する義務がある。
そんなことを考えながら、私は縁側で開いていた本を閉じた。円城寺さんの言った通り、本を読んでいるとほかのことを考えなくて済む。時間がたちまち消滅してしまうのがたまにきずだけれど。
私はふと、縁側から円城寺さんの部屋の窓を見上げた。この縁側の雨戸もそうだけれど、少し歪んでいるのか建付けが悪く、微妙に隙間が空いてしまう。
(―― どうして入ったら駄目なんだろう)
自身の頭をよぎった考えを、私は即座に首を振って打ち消した。いけない。これはきっと試されているのだ。そのためだけに家を空けたとは考えにくいが、言いつけを守らなかった私になにか罰が下されると考える方が自然だ。罰せられるのならまだいいが、もし家を追い出されでもしたら。あの冷たい手が、声が、私から離れていってしまったら。もう触れられなくなってしまったら。
私は形ばかりの夫の部屋から目を逸らし、立てた膝に額を埋めた。
「男?」
円城寺さんが聞き返してきて、私は頷いた。
二日後、円城寺さんが帰ってくるとすぐに私は男性のことを報告した。この家の主に、彼が不在の間にあった出来事をほとんど居候状態の私が報告するのは至極あたりまえのことである。円城寺さんは少し考えたあと「あいつかな……?」などと呟いた。心当たりがおありみたいだ。
「背が円城寺さんと同じくらいで、ちょっと猫背で髪が短くて、無精ひげが生えてて目つきが悪―― 鋭くて」
最後の方で円城寺さんが少しだけ笑った。私は自分の失言を恥じながら彼の顔を盗み見た。前髪が長いうえにいつも口元を隠してしまわれるので私はまだ円城寺さんの笑った顔をよく見たことがない。
「お知り合いですか? だったら私失礼なこと……」
「いえ、いいですよ。もしまた私が不在の時に来たとしても適当に追い払っておいてください」
「…… そんな、虫みたいに……」
「虫と一緒でいいです」
あんまり仲良くないのかな。でも本を貸すくらいだからそこまで険悪な仲というわけもないはずだ。いやでも、そこまで付き合いの長いわけでもない、ただの居候でしかない私にも貸してくれるのだから誰にでも貸す人なのかもしれない。前に部屋の前の様子をちらりと見た感じ、廊下にまで本が積んであったし、部屋に置けない分を人に貸しているとか……。
「ほかになにかありましたか」
「いえ、特にはなにも」
部屋にも入っていません、と付け足すと円城寺さんはそうですかと頷いた。部屋へ戻る道すがら、彼はふと尋ねてきた。
「怖くなかったですか。突然知らない男が訪ねてきて」
やっぱり気のせいではない。この前からずっと、十歳かそこらの子どもみたいに扱われているように思える。そんなに子どもに見えるのだろうか。そりゃ、お見合いしたときも、ついこの間だって涙を見せてしまったけど。この人―― 歳は知らないが―― からすれば、女学生なんて子どもなのかもしれないけど。頼りない、子どもだと思われて追い出されるのは困る。私は必死な思いで真面目な顔を作って
「子どもではないので、大丈夫でした」
と、そうきっぱりと言うと円城寺さんの肩がくっと持ち上がった。
「それは、失礼しました」
妙な反応をされて首を傾げる私に向かって円城寺さんが「夕飯にしましょう」と言ったので私の思考はなかば強引に一時休止した。
「今週末、また三日ほど出かけてきます」
夕食を食べながら円城寺さんがそう言って、私は思わず手を止めた。
頭のなかに様々な不安が浮かんではからまっていく。また知らない人が訪ねてきたらきちんと対処できるだろうか。もし新しくほかの言いつけを追加されたら守れる自信がない。そもそも、円城寺さんの部屋に入るなという言いつけも、あと数日留守が続いていたら破っていたかもしれないというのに。
そんなにも信頼されているのか、それともそんなにも私を試したいのか。
私の顔色が悪くなっていくのを心配してくれたのか、円城寺さんは「大丈夫ですよ」と口にした。
「例の虫は多分明日明後日にでもまた訪ねてくるでしょう。そのときに私から不在の旨を伝えておくので、きっと誰も来ないでしょう」
すっかり円城寺さんに虫扱いされているあの男性を哀れに思いながら私は味噌汁をすすった。…… なんか、なんか。
―― あったかい、気がする。
円城寺さんが前よりも優しくて…… いや、以前から彼は優しいひとだった。ただ少し、それがわかりにくくて、素っ気ないように見えて。でも今はそれが柔らかくなったように思える。気のせいであって、ほしいけれど。
もし、気のせいじゃなかったら?
『馬鹿ね』
『いるわけないじゃない』
『あんたを好きになってくれるような人なんて』
そうだよね。そうだよね、お母さん。
私は呼吸を落ち着かせ、一旦手にしていた箸を置いた。
「わかりました。留守はお任せください」
円城寺さんは私の顔をしばらく見つめたあと、「なるべく急いで帰ってきます」と言った。
そして、週末にはまたいくつかの本を家の鍵と一緒に私に渡して出かけていった。
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