第4話

 それから、学校から帰ったあとは縁側で読書をするのが日課になった。本を読みながら、また日が暮れてしまうまで没頭してしまう時もあれば、いつのまにか柱に寄り掛かって寝てしまう時もあった。そういう時は決まって円城寺さんが自分の羽織を私の肩にかけてくださっていた。

 …… わからない。私に興味があるのか、ないのか。無関心なのか、そうでないのか。

 時々、私の髪に触れているような気配がする。

 実家にいた時、特に幼い頃、はだけた私の布団を直してくれるのは父で、髪を梳いてくれるのは母だった。


『あんたはちょっと変なんだから』

『あんたのために言ってるんだからね』

『薫子』


 びくん、となにかの反射で震えた体が、目覚めとともにぐらりと傾いだ。と同時に、左右の肩を力強くがしりと支えられる。

「…………」

 たったいま、意識の覚醒とともに起きたすべての出来事に驚きつつ私は、目の前の人物の顔を見上げた。無表情で、あるいは不機嫌ともとれるような表情のない冷たい瞳が、黒炭のような真っ黒い髪の隙間から私を見下ろしていた。

「顔、洗ってきた方がいいですよ」

 突然そう言われて、私はとっさに手の甲で頬に触れた。そこはしっとりと濡れていて、寝ている間に夢でも見て泣いたのかと思うが、よく思い出せない。

「―― そうします」

「薄暗いので気をつけて」

「はい」

 手ぬぐいを持って家の裏手にある井戸に向かう。

 というかそもそも、どうして円城寺さんは私なんかをもらってくださったのだろうか。両親がいなくなった子どもなら、自分のいいように扱えると思ったから? ―― 違う。円城寺さんは私を支配しないと言った。私がそんなにも哀れだったのだろうか。…… それもたぶん違うような気がする。

 春とはいえ、まだ冷たい水が顎を滴り落ちていくのを手ぬぐいで押さえた。ついでに左右のお下げも結び直しておく。

 この家に来てから、驚くほどなにもしていない。炊事も掃除も洗濯も、全部私がここに来る前からいらっしゃる使用人の方がやってくれている。私はただ、学校へ行って勉強をして、帰ってきたら夕食の時間まで本を読んで、夕食を食べてお風呂に入ったらまた寝る時間まで本を読んで、寝る。毎日この繰り返しだ。

 妻として役に立っていないどころか、ついこの前はおかしなことを言って困らせたし、見合いの時だってほとんどうわのそらで、変なことを言って挙句の果てにはわけもなく泣いてしまったのだから、面倒な子だと思われても仕方ないのに。

「あ、薫子さん」

 居間に戻って食卓に着くと、円城寺さんが口を開く。

「この週末、出かける用事があるので三日ほど家を空けます」

「あ…… はい。わかりました」

 お仕事かな。聞いてみようか。迷っている私に、円城寺さんが「大丈夫ですか?」と尋ねてくる。

「なにがですか?」

「ひとりで留守番できますか?」

「…… できます」

 いったいいくつだと思われているのだろう。私がそうきっぱり断言すると、円城寺さんはいつものまったく読めない表情のまま少し黙ったあと、自分のなかで折り合いがついたのか

「あとで鍵を渡します」

と言った。

「それと念のため、本もいくつか出しておくので私の部屋には近づかないように。あと、戸締りはしっかりして、知らない人が訪ねてきても家に上げないように」

 誰も来ないとは思いますが、と付け加えてから円城寺さんは食事を再開した。まるで小さい子どもを置いて出かける親のような文句だ。

 そして、週末になると円城寺さんは言葉通り私に鍵と数冊の本を渡して出かけていった。



「薫子さんたら、最近はもうすっかり本の虫ね」

 翌日、学校で本を読んでいると綾乃ちゃんが言ってきた。

「読み始めたら止まらなくて」

「なに読んでるの?」

「夏目漱石」

 あら素敵、と綾乃ちゃんは微笑んだ。私も彼女のように美しく可憐に微笑むことができたらどんなにすばらしいことだろう。

「それも借りたの?」

「うん。今お仕事で家にいらっしゃらないから、たくさん貸してくださったの」

「…… そう。仲良いのね」

「気を遣ってくださってるのよ」

 私は手元の文字に目を落としながら言った。視界の隅で、綾乃ちゃんの綺麗な黒髪がはらりとひと房、肩から落ちる。

「お二人とも、なんのお話?」

 同級の、私たちが座る席からすこし離れた場所に座っている女子たちが話しかけてきて私は肩をこわばらせた。

「秘密の話よ」

 本から顔を上げられずにいる私の手をそっと握りながら綾乃ちゃんが答えた。

「まあ、気になるわ。だって私たちみんな、お二人とお話ししたいのよ」

「…………」

 お二人と、というのはたぶん嘘だ。

 綾乃ちゃんは昔から、男女問わず人気がある。本来ならこんな、教室の隅で私と話しているような人じゃないのだ。でも綾乃ちゃんは優しいから、私に声をかけてくれて、結果私は綾乃ちゃんを支持する人たちの反感を買ってしまうのが、幼い頃の常だった。八年が経った今でも、綾乃ちゃんの私に対する優しさは変わらないらしい。嬉しいけれど、その反面時々困る。

「ねえ、よければこっちで一緒にお話ししましょうよ」

 私は息を吞んだ。目の前で幾度となく繰り返された言葉を、彼女たちもまた例外なく口にするのではという不安が止まらない。

「後でね。今は二人でお話ししたいから」

 綾乃ちゃんがきっぱりと断ると、彼女たちは残念そうな顔をして、しかしすんなりと自分たちの会話に戻った。なんだか双方に対して申し訳ない気持ちになり、綾乃ちゃんをじっと見つめる私に、綾乃ちゃんが不思議そうに首を傾げる。

「薫子さん、どうかした?」

「や…… その」

 彼女の態度とは反対に、自分でもわかるくらい体を小さくして私はおずおずと口を開いた。

「よ、よかったのに。私のことは気にしないでも」

 言ってから後悔した。こんな卑屈な言い方ではまるで、彼女を迷惑に思ってるみたいだ。そう思って、慌てて付け加える。

「ほら私、本読んでるし」

「じゃあ見てるわ」

「おもしろくないよ……」

「だめ?」

「駄目ではないけど……」

「じゃあ見てる」

「えー……」

 私が途方に暮れたような声を出すと、彼女は楽しそうに笑った。なんだかひどく悪いことをしているみたいなのに、なぜだか嬉しくて仕方なかった。


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